ももちゃんの一分間説教
1997年3月30日(日)復活の主日 ヨハネ20:1〜9
-
今週のKey Word:「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)
私たちはイエスとの出会いにより、「命」を神に返すこと、あるいは、神の下に生きることを示されました。そして、それは、「この世」が尊ぶ価値観、業績・効率・合理性といった物差しではかりきれない神のみ旨に生きることでありました。たとえば、神は世を救う、と言って、万軍の天使を遣わすのではなく、イエスというただ一介の男を十字架に上げたにすぎない(ヨハネ3:16〜17)、ということであります。今日の福音の「復活」の話しは、まさに、神のみ旨が「この世」の思いとは全く異なることを明らかにしています。即ち、墓は空っぽ、だった。ということであります。私たちは、イエスがとてつもない大事業をしたと思っています。神の意思に完全に従順であった、と。従って、死の勝利である「復活」は、当然であるし、復活のイエスは神々しい姿をしているはずだ、と想像します。福音記者ヨハネも、「十字架」を「栄光」と呼び、賛美しているようであります。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(同17:4)しかし、ヨハネはその栄光を、「この世」では、空っぽの墓なのだ、と言うのであります。つまり、此岸的には愚かで、無でしかないのだ、と。
イエスがしてきたことは確かに凄いことであります。しかし、私たちが「凄い」と言うとき、それは、「この世」的価値観でそう言っているのであります。イエスは神に完全に従順だった、と言うことも同様であります。それゆえに、前回のイエスが高価な油を贅沢に使った、という話を聞くと、たまには、イエスも脱線するのだなあ、とこの世的に判断するのであります。
神は、そのような私たちの思いを見事に粉砕してしまいます。私たちが、イエスのように行ったら、私たちも「復活」の栄光に与かれる、という思いを。それに対し、イエスが行ってきたことの結果は空っぽであると。地上には何も残さなかった、のだと。
「復活」、それは「この世界」の価値観を徹底的に拒絶することであります。私たちは、いつも、自分が役に立っているかどうか、その評価を気にしながら脅えて暮らしています。「復活」はこの世界が評価するのではなく、それを越えて、神が一方的に宣言するのであります。まさに、福音であります。それは、この世を恐れない、神において生かされる、という喜びのお告げなのであります。
さあ、私たちは自分のために「何かをしなければ」という悪霊に死のうではありませんか。そして、神と人々へ私たちの命をお返ししようではありませんか。私たちの「命」が甦るのです。
1997年3月23日(日)受難の主日 マルコ14:1〜15:47
-
今週のKey Word:「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。」(マルコ14:4)
私たちの悪霊との闘いは、イエスの働きに身を委ねて悪霊に囚われた「命」を神に返すことでありました。ところが、この神の下に生きるという人間本来の姿は、「この世」においては、少数派、地味、暗い、堅い、重い、とレッテルを貼られ煙たがられています。
実際はどうでしょうか、否であります。イエスの宣教旅行を見ていると、むしろ、喜び、笑い、満足、といった楽しい状景を思い浮かべることが出来ます。なぜなら、死人は甦り、病人が癒され、孤独な人々が会食し、女たちも弟子の一団に加わり、貧しい人々は満腹した、と報告されているからであります。佐藤研氏は、特に、『罪人』との会食を「カーニバル」的空間(=人々がお互いに『あるがままに』交流しあい、地位―役割に基づく特徴をはぎとられて裸のままで対面しあう状況)であった、と言っています。※1。
にもかかわらず、「この世」の多くの人々は、イエスとキリスト教徒を禁欲的で、まじめで、堅物と決めつけて、その枠からはみ出たキリスト者には、不道徳、不信仰、不まじめと、非難するのであります。また、同じくキリスト者でありながら、その枠を強固に押しつける人々もいます。
今日の弟子たちの高価な香油をイエスの頭にかけた女への憤慨も同様なことであります。イエスが弟子たちに持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい(マルコ10:21)、と言っていたことをイエス自身守らず、贅沢に遊んだとは、何ということだ、と。
それに対し、イエスは「良いことをしてくれたのだ。」と弟子たちに次のように諭されました。そんなに 業績主義的に堅苦しく考えるなよ。これまでの悪霊との闘いは、人々にカーニバル的空間を創出してきたではないか。私たちは、誰にエエかっこう見せるのか。人々の前で裸で弱さを見せることこそ神の下に生きることなのだ。時には、贅沢に、高価な油で臭い体を清めてもらおうじゃないか。さあ、私たちは、イエスと共に生を喜び楽しんでの悪霊との闘いにこの世の人々を巻き込もうではありませんか。
※1 佐藤研『イエスの使命意識』 P.57〜66「イエス・キリストの再発見」中央
出版社
1997年3月16日(日)四旬節第五主日 ヨハネ12:20〜30
-
今週のKey Word:「この世で命を憎む人は、それを保って永遠の命に入る」(ヨハネ12:25)
私たちと悪霊の闘いは、人間の力によるのではなく、イエス・キリストによって、イエスの十字架において行われる闘いに身を委ねることでありました。今週の福音でイエスは、私たちの「命」とは何かを改めて問い、別の観点から悪霊との闘いに招いています。
「この世」を支配する悪霊は、私たちの「命」を色々な物で飾るように誘惑します。富、権力、地位、ブランド品、etc.私たちはそれらを手に入れるため刻苦勉励しています。しかし、その結果、その「命」に残ったものといえば、人間関係崩壊、家族バラバラ、過労死なのであります。一方、「この世」にではなく、神の下にある「命」とは何でしょうか。一体、私たちの「命」は、自分のものではなく、神から無償で与えられたものであります。「生きる者となった」(創世記2:7)ことじたい恵みであります。それゆえ、恣意的に、私たちは「命」を生きることは出来ないのであります。
しかしながら、私たちは「命」を自分のものとし、「命」に付加価値を多くつけることを生きる目的にしてしまいました。実は、私たちの悪霊との闘いは、「命」を自分の手から取り戻し、神にお返しすることなのであります。神が私たちに「命」を賜ったのは、神の望まれる愛と正義に私たちが生きるためであります。イエス・キリストはその模範を示されました。彼は私たちが悪霊の支配から解放されるために己の「命」を神に返した、即ち、「地に落ちて死」んだ、十字架に上げられたのであります。そして、悪霊は負けたのでありました。「今、この世の支配者が追放される。」(ヨハネ3:31)
さあ、私たちは、このイエスから力を戴いて「命」の装飾品を捨て身軽になって、人々への奉仕に生きようではありませんか。「死ねば、多くの実を結ぶ。」(同12:24)
1997年3月9日(日)四旬節第四主日 ヨハネ3:14〜21
-
今週のKey Word:「人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ
3:15)
私たちは、イエス・キリストにより悪霊との闘いに招かれました。それは、私たちが「悪」ではなく「真理」を行うようにの勧めでありました。しかし、その招きは、私たちには、到底不可能であります。
なぜならば、悪霊に捕らえられた私たちは自己保身のために先週の福音のように「悪」を隠蔽した宗教を作り上げ、自分らの弱い人々への差別・搾取を正当化してしまうのであります。そのような私たちに、イエスは「新たに生まれなければ」(同3:3)「水と霊によって生まれなければ」(同3:5)「人の子によって」(3:14)でなければ「神の国を見ることはできない。入ることはできない。永遠の命を得る」と明言されるのであります。即ち、私たちと悪霊との闘いは、人間の力によるのではなく、上からの、聖霊による、イエスの働きにおいてのみ成就しない、というのであります。
悪霊は、一人一人の内側に宿るのではなく、個人をこえ社会構造そのものを動かしています。イエスが当時のユダヤ教の差別性抑圧性を変えようとしたとき、当のユダヤ教自体から排斥され殺されてしまいました。従って、神は、イエスを「この世」から上げ、その上(=十字架)からユダヤ教を建て直したのであります。
仏教のことばに、「彼岸に渡る」という言葉がありますが、その意味は、此岸の価値体系を肯定してものごとを解決しようとするのではなく、彼岸に渡り、彼岸に立って、ものごとを見る、ほとけさまにおまかせする、ということであります。※1
私たちの悪霊との闘いも、それと同じ地平(=価値観。強い者が勝つ、富める者が強い、老人子供病者は邪魔だ。)に立ってではなく、上に立って、つまり、神の愛と正義(=無条件の赦し、貧しい者こそ幸い。)に足を下ろしてイエスの力をもって行われるのであります。
さあ、私たちは自分の無力さに嘆くのではなく、イエス(=独り子)においてだけ悪霊を打ち倒せることを喜ぼうではありませんか。
※1ひろさちや著「仏教初歩」p.120〜127すずき出版
1997年3月2日(日)四旬節第三主日 ヨハネ2:13〜25
-
今週のKey Word:「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ
2:16)
私たちはイエス・キリストとの出会いにより自己の内と外なる悪霊との闘いに招かれました。それに従ったイエスの死後成立した初代教会では当時人間として正当な扱いを受けられなかった女性、奴隷、移民下層労働者、らの対等で平等な人間関係(いっしょに飯を食う※1)の共同体が作られていた、と言われています。しかし、教会が大きくなり体制の宗教となったとき、再び、彼らは、隅に追いやられ、富裕な、男性の支配し、権力者の利益を守る教会となりました。。
アシジのフラシスコらによる「イエスに帰れ。」という改革が度々おこりましたが、2000年後の今日の教会においても、「教会」という組織を守る大義名分により「父の家を商売の家と」しているのであります。その教会においては、社会的地位、名誉、学歴のある富裕な人たちが優遇され、貧しい者、精神障害者や、ホームレス、アルコール・薬物依存者には居る場所がありません。家のない人々のことより教会の建物の雨漏りに関心の第一を寄せるところなのであります。フランシスコのように批判的な人には、その当時の教会と同じく「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(ヨハネ2:19)と非難するのであります。。
そんな彼らにイエスは言います。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(同2:19)。
イエスにとって、貧しい人々、病む者たちの痛み、苦しみに共感できない神殿は悪霊の鎮座する所に他なりません。むしろ、彼らと人生の喜びを分かつために自己を空にすることこそ、神への真の礼拝なのであります。
さあ、私たちも、自己保存のための教会ではなく、他者へ喜んで己を捨てられる者となる教会に建て直しましょう。
※1渡辺英俊「パウロにおける義認論の射程」(福音と世界1995,10月)
1997年2月23日四旬節第二主日 (マルコ1:12〜15)
-
今週のKey Word:「服は真っ白に輝き」(マルコ9:3)
私たちはイエスとの出会いにより神の限りない愛を示されました。しかし、それは、忘我的な心地よいものでいつまでもそこに滞まりたいと思うものではありません。私たちは、よく、荘厳なもの、神秘的なもの、例えば、広大な緑に囲まれ、巨大な屋根や柱が金銀に輝き、ステンドガラスの光が揺れパイプオルガンや鐘の音が響く神社仏閣教会を訪れたとき、一瞬、我を忘れて至福の境にいるかと思うことがあります。そして、出来うれば、「この世」から離れそこでずっと過ごせたらと思うのであります。まさに、ペトロが真っ白に輝いたイエスの神々しさに我を忘れずっとその場にいたいと叫んだようにであります。
何故、ペトロはそう叫んだのでしょうか。イエスの宣教活動についてきたペトロをはじめ弟子たちにとってそれは思惑違いのしんどいものでありました。彼らにとって、「救い」(=神の国)はこの世界から脱け出る彼岸的なもの超越的なことであり、気持ちよさとか楽とかであって、苦しむとか闘うとか、まして十字架につけられて殺されるなんて論外であったのです。しかし、イエスの宣教は悪霊との闘いであり、自己の放棄でありました。ペトロたちはその十字架の道から逃げ出したかったのであります。だから、思わずあのように言ったのでしょう。
私たちのイエスとの交わりも「この世」と内なる悪霊追放に向かうのではなく、そこから逃れて他者との交わりを閉ざす場と化していないでしょうか。まるで、ドラツグを飲んで気持ちよくなるのと同じであります。イエスの示された神の愛はそのような覚醒剤ではありません。むしろ、私たちが悪霊を打ち倒し、喜んで自己を他者に明け渡す者に変えられる赦しと力なのであります。
さあ、その神の愛の翼に乗って「この世」に立ち向かおうではありませんか。
1997年2月16日四旬節第一主日 (マルコ1:12〜15)
-
今週のkey word:「福音を信じなさい。」(マルコ1−15)
私たちはイエス・キリストとの出会いにより悪霊追放という福音宣教に招かれました。
今週の福音では、私たちの福音を信じるとは悪霊を追放することなのであると教えられます。前回話したように、イエスはその福音宣教を「時は満ち、神の国は近づいた。」で始め、いたるところで悪霊に囚われた人々を自由にしました。ところで、悪霊とは一体何でしょうか。それは、神と対立するものであります。すなわち、人間が他者との共生ではなく、抑圧と差別に生きるところに存在するものであります。病人を悪霊憑きとみなすことは、病に苦しむ人と共感するのではなく、分断し見捨てることに他なりません。ホームレスを怠け者と見るとき、やはり、彼の痛みに思いを寄せず、自業自得だといって餓死を当然とするのであります。ここには、人間が悪霊になっています。あの戦争でのホローコースト、今日の環境破壊も然りと言わざるを得ません。また、イエスを十字架につけたのもそうであります。したがって、イエスの生涯は悪霊となった人間との闘いであったと言えます。
イエスは悪霊と化した人間に徹底的に赦す神の憐れみをもたらすことによって、他者を愛する人に生まれ変わらしたのであります。これが、実は、「時は満ち、神の国は近づいた」*1ことなのであります。そして、「悔い改めて福音を信じなさい」とは、キリスト教の教義を信じることではなく、その神の憐れみの中で生きよう,ということなのであります。*2すなわち、内なる悪霊に従うのではなく、神の望まれる愛と正義に身を委ねよう、ということであります。
四旬節の初めにあたり、イエスによってもたらされた神の憐れみに生かされて、他者との連帯に歩みましょう。
*1前回、2−9を参照。
*2岩波版「新約聖書マルコ」1:15の注12を参照。
1997年2月9日年間第五主日 (マルコ1:29〜39)
-
今週のKey Word:「宣教し、悪霊を追い出された。」(マルコ1:39)
わたしたちのイエスとの出会いは、わたしたちをイエスの宣教旅行へ同伴させるのであります。「わたしについて来なさい人間をとる漁師にしよう。」(マルコ1:17)今週の福音は、イエスと弟子たちの宣教旅行の様子が描かれています。
それは、イエスが行く先々で病人を癒し,悪霊を追い出した、というものでありました。ご周知のように、イエスの宣教第一声は、「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でありました。大貫隆さんは、この「時は満ち」を「今この時点はすでに満ち満ちている」と訳す、と書いておられます。*1その意味は、神が今や決定的な行動を起こしている時なのです。永遠の命がやって来ているわけです、と述べています。*2従って、イエスの宣教は、神の救いの無条件の実現(満ち満ちたもの)として人間の隷属状態(死んだ状態)からの解放(生命)をもたらすものでありました。イエスは到るところで病気に苦しむ人々を神の救いにあずからせるため「悪霊を追い出し」ました。その場に居合わせた人々は驚いて、次のように言いました。「これは、いったいどいうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ1:27)当時、病気は悪霊の仕業と考えられていました。しかも、ユダヤ教の指導者たちは、病人に対しては神の罰だとして、救いの対象外として彼らを扱っていました。従って、安息日毎に,会堂で語られる説教は、病人らにとって神の近さをまったく感じられないまやかし以外の何物でもありませんでした。一方、悪霊にとっては人畜無害の戯れ言でしかありませんでした。しかし、イエスの説教だけではない振る舞いには悪霊も抵抗せざるをえませんでした。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。」(マルコ1:24)イエスが「黙れ、出て行け」と叱ったとき、悪霊は叫び声をあげて退散したのであります。それまでの律法学者とは違ったイエスの有様に彼らは上のような感嘆の声をあげたのであります。そして、人々はイエスの宣教の業にあずからせるため多くの病人を連れていったのであります。
わたしたちの宣教が、悪霊も騒がない口先の有り難いお説教で終わるのではなく、悪霊を叱りつける権威あるものに変えて行きましょう。
* 1,2大貫隆「神の国とエゴイズム」P.161〜162 教文館
四旬節2月12日灰の水曜日〜3月22日「四旬節は信者はすでに受けた洗礼の記念と償いのわざを通して、過越の神秘の祭儀に備えるのである」 典礼憲章27
1997年2月2日年間第四主日 (ルカ2:22〜40)
-
今週のKey Word:「主のために聖別される」(ルカ2:23)
私たちとイエス・キリストとの出会いは、人を介して、まず、イエスと会い、次に、持ち物を「捨て」てイエスの滞まる所に出かけて、共に、滞まることによって、イエスをキ
リストとして出会うことが出来るのでありました。今週の福音では、イエス・キリストを他者に紹介する側にもその人の将来を共に分かち合う覚悟が求められています。
マリアは初子のイエスを律法の規定通り神に献げるために神殿にやって来ました。それは、イエスを「主のために聖別」するため、すなわち、イエスを神に仕える者として献げるためでありました。これは、旧約聖書にも見られます。一人はサムソンであります。彼の母は、不妊だったのですが神の使いから、生まれる子はナジル人として神にささげられているからと子の誕生を告げられました。(士師記13:3〜)後に、サムソンは、ペリシテ人との戦いで自らの死を持ってユダヤ人を守りました。もう一人は、サムエルであります。彼女の母ハンナも不妊でしたが、彼女の祈りをききいれられた神は彼女に子を授けました。そして、彼女は言いました。「私は、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(サムエル上1:28)後に、サムエルは王を欲しがるユダヤの人々と争い不遇のうちに生涯を終えました。二人の母親にとって神から授けられた我が子が神に仕える者になったことはどんなにかうれしく、名誉なことと思われたことでしょう。しかし、神に仕えることが対立を招き自己を犠牲にすることになるとは想像出来たでしょうか。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。又、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」(マルコ13:12〜13)
シメオンは母マリアに言われました。イエスは神の僕として十字架の死を負わされている。あなた自身の心も剣で刺し貫かれるのだ、と。
私たちがイエスに従うことは、自分の生命を「捨てる」ことになります。従って、私たちが、他者にイエスを紹介するということはその人の将来を見守らねばならないのであります。母マリアが「これらのことをすべて心に納め」て十字架の下に立ったようにであります。洗礼者ヨハネがヘロデに首を斬られるまで心にあったのはイエスに紹介した弟子達の行く末ではなかったかと想像されます。
私たちも、人々をイエスに導くことに喜びを覚えますが、そこで終わるのではなく信仰の旅の同伴者であり続けることこそに幸いを見出したいものであります。
1997年1月26日年間第三主日(マルコ1:14〜20)
-
今週のKey Word:「網を捨てて従った」(マルコ1:18)
私たちが、イエスと出会い、そのイエスをメシア(=救い主、キリスト)と呼ぶには、イエスの滞まっている(泊まる)所へ出かけ、共に滞まる(泊まる)ことによってでありました。
今週の福音では、イエスと滞まる、つまり、イエスに従うためには、「捨てる」ことが求められると語られています。
イエスは、度々、「捨てる」ことに言及しています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て……」(マルコ8:34〜35)
「もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」(マルコ9:45)
「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。……それから、私に従いなさい。」(マルコ10:21)
「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、、父、子供、畑を捨てた者は……」(マルコ10:29)
「この人は、乏しい中から自分の持っているすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:44)
以上のことから、イエスに従う弟子の在り様は「捨てる」ことだと言えます。そもそもイエス自身が、まさに、「捨てる」生を生きられました。親・兄弟を捨て、故郷を後にし、名誉と地位を省みず、十字架上で生命を捨てたのでありました。しかし、そんなイエスは、だれよりも、自由に、大胆に、「この世界」の権力者を恐れず振る舞い、神の愛を身近なものにしていきました。なぜならば、イエスは、己の生命が、能力が、衣食住が神の備えたものであると確信していたからに他なりません。「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。……今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」(マタイ6:26〜30)
わたしたちは、自分の持ち物、生命、タレントを自分の力で獲得したのだからと、減らないように、傷つけないように、失わないように細心の注意を払い、後生大事に抱え込んで不自由に、臆病に暮らしています。捨てるときも、要らなくなったものや整理に困ったものだけを処分するのであります。しかし、イエスのようにそれらのものを「賜物」とありがたくいただくとき、思い切り他者のために活用できるのではないでしょうか。
さあ、神の計らいに身を委ねて、イエスのごとく「重荷を負った人々、疲れた者たち」のパートナーになって行きましょう。
1997年1月19日年間第二主日
-
(ヨハネ1:35〜42)
今週のKey Word:「どこに泊まっておられるのですか。」(ヨハネ1:38)
私たちとイエスの出会いは、人を介してなります。これまで、荒ら野の羊飼い、三人の占星術学者、老シメオンとアンナ、そして、洗礼者ヨハネを通して、私たちはイエスに出会うことができました。今週の福音では、更に突っ込んで、紹介されたイエスを「救い主」(=メシア)として出会うことが描かれます。
ヨハネにイエスを紹介された二人の弟子は、イエスに「どこに泊まっておられるのですか」(ヨハネ1:38)と尋ねました。ヨハネ福音書のテーマの一つには、イエスが「どこにいるのか」があります。まず、イエスは、たびたび自分がどこから来てどこへ行くのかを語っています。
「自分がどこから来たのか、そしてどこに行くのか、わたしは知っているからだ。」(ヨハネ8:14、他)
次に、それがわからない人々はイエスをメシアとして拒否します。
「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ7:34)
また、弟子たちも、イエスがどこへ行くのかがわかりませんでした。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ14:5)
更に、あれほどイエスを愛したマグダラのマリアさえも同様でした。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(ヨハネ20:13)
弟子たちや、マリアにそれがわかるのは、直接イエスが語りかけられてからであります。(ヨハネ20:16,21〜23)
私たちもまた、彼らと同じ様にとくに、困難や苦しみに遭遇したとき、イエスが「どこにいられるのか」、神は「どこにおられるのか」と問うてしまいます。しかし、聖書を与えられ、二千年の歴史を経た私たちには、その答えは明らかであります。
イエスは父のもとにいるのであります。「言は神と共にあった。」(ヨハネ1:1)すなわち、イエスは神のみ心、慈しみの向けられるところにいるのであります。ルカ福音書には、次のように言い表されています。「主がわたしを遣わされたのは、捕らえられている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、、圧迫されている人を自由に」(ルカ4:18)
従って、私たちは二人の弟子のように、イエスの滞まっている所に行き(岩波版「新約聖書」)いっしよに、滞まるとき、イエスを救い主として出会うことができるのであります。
さあ、「解放の旅」へ出かけて行きましょう。
1997年1月12日主の洗礼
-
(マルコ1:7〜11)
今週のKey Word:「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)
年老いたシメオンとアンナは、幼な子イエスにおいて神の救いの実現することをエルサレムの人々に証ししました。(ルカ2:25〜35)
今週の福音では、洗礼者ヨハネが成人したイエスを聖霊による洗礼をさずける(=神の力によって人々を新たに生まれ変わらせる)方として、荒ら野に来た人々に証ししました。その際、洗礼者ヨハネは己のことを次のように言い表わしました。
「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」
しかし、その当時の彼は、「悔い改め」を宣べ、水の洗礼を授ける者として、その名はユダヤ全土に知られていました。また、彼の厳格な禁欲的修道生活「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(マルコ1:6)とその風貌は、まさに、「荒ら野の預言者」と呼ぶのにふさわしいものでありました。一方、イエスは、突如、彼のもとに現れた田舎出の、貧しく無学な、無名の者であったと想像するに難しくありません。
その名も無いイエスに対し、彼は上のことばを語ったのであります。何故、彼は、そうすることができたのでありましょうか。
それは、洗礼者ヨハネは、シメオンやアンナと同様に神の救いの実現が、斯様な無名の貧しい小さな人々においてなされることを旧約聖書の信仰をもって受け容れていたからに他なりません。(cf.モーセ、ギデオン、エレミヤ他)
「あなたはわたしの愛する子」(マルコ1:11)は、イエスが「飼い葉おけの乳飲み子」であり、「最も小さい者」と同定したこれらの人々を言い、そこにこそ、聖霊(=神の力)が臨むのであります。乙女のマリアも天使ガブリエルにそう伝えられました。(ルカ1:35)洗礼者ヨハネもまた、自らを僕となって低くしたゆえに、名も無いイエスに降る聖霊を見る力を得たのでありました。「主は打ち砕かれた心に近くいました。」(詩34:19)
私たちも神の救いの実現に参与するために身をかがめて人々に仕える者となりましょう。
1997年1月5日主の公現
-
(マタイ2:1〜12)
今週のKey Word:「わたしも行って拝もう」(マタイ2:8)
「この世界」の神のみ国への変革は、目立たず、みすぼらしく、小さな「乳飲み子」から始まります。しかし、変革を望まない「この世界」の力ある者たちは、その兆しを察知すると即座に行動を開始します。ある時は暴力をもって潰し、ある時は懐柔策によって体制内に取り込み、骨抜きにしてしまいます。
キリスト教がローマ帝国に公認され、国教となった背景には、反ローマであったキリスト教を味方につけ、ローマ帝国の秩序を維持する装置として利用されたことがありました。
同様に、今週の福音には「救い主」誕生を知ったヘロデ王が、その権力を守るための手立てを考えたことが語られています。彼は、いかにも、その「救い主」誕生を喜んでいるかのように「わたしも行って拝もう」と占星術の学者たちに語るのでありました。
「この世界」の支配者たちは、自己の利益を守るために実に巧妙に画策します。そして、これまでキリスト教はその策にはまり、体制内の宗教としての役割を担ってきました。
しかし、イエス・キリストはまさにそのために殺されたのでありました。ユダヤ教指導者たちの安泰のために。
従って、私たちのよって立つところは、そのイエスであって、王として、権力者として、また、政治に無関心な精神的指導者としてのイエスではありません。体制から殺されたイエスを「救い主」として拝むことは、私たちが抑圧され、差別を受けている人々と連帯して生きることに他なりません。
さあ、私たちも占星術の学者たちのように神の導きに従い、変革の道を歩みましょう。
1997年1月1日神の母聖マリア(世界平和の日)
-
(ルカ2:22〜40)
今週のKey Word:「そして、急いで行って」(ルカ2:16)
私たちの多くが、まず初めに、イエス・キリストと出会う所といえば、教会ではないでしょうか。教会でのイエスは十字架の刑死を克服した復活者であり、勝利者であり、神の右の座につかれた王であります。それは言わば、クリスマスの夜、羊飼いたちが見た天の万軍(天使たち)が四方の闇を輝き照らして、大合唱し、イエスをキリスト(=救い主)と称えた様に比せられます。
しかし、ほんとうのイエスはその様では、私たちの前には現れません。
天使たちの光々しさとは反対に見るかげもないみすぼらしい「飼い葉おけの乳飲み子」がキリストだと天使たちは告げるのでありました。羊飼いたちは、そのお告げに「一体これは何だ」と困惑したにちがいありません。同様に、私たちが、イエス・キリストに出会うところは、塔のそびえる巨大な教会や、そのありがたい教えにではありません。
「急いで」その場から出て、「乳飲み子」のところへ、すなわち、「この世界」から拒否され、見捨てられ、蔑まれている人々のところへ行くとき、出会うことができるのであります。
「私が飢えていたとき、……のどが渇いていたとき、……旅をしていたとき、……裸のとき、……病気のとき、……牢にいたとき」(マタイ25:35〜36)
そして、また、「この世界」に「命と平和」がもたらされるのも、軍事力や経済・政治力によってではなく「小さくさせられた人々」との目立たない働きからであると思います。
1997年の1月1日の今日から、その一歩を踏み出しましょう。
今週の一分間説教 Gospel on this week
|