今週の一句
帰宅電車 春来にけらし 日の長さ

―もとゐ―


 2019年2月17日(日)
 年間第6主日

 ルカによる福音書6章17節20節-26節

6,17 〔そのとき、イエスは十二人〕と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、〔来ていた。〕
6,20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6,21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6,22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6,23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
6,24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
6,25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
6,26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 「貧しい人々は、幸いである。」と訳されているところは、「幸い、貧しい人々」で、祝福の言葉で、「幸いあれ」との呼び掛けだ。

 イエス当時のユダヤ教のファリサイ派では、神の祝福は律法を厳守する者に与えられると考えていた。もちろん、旧約聖書の根本である。神との契約に忠実な人に幸いある、と。(申命記6・3、詩編1、他)

 しかし、ファリサイ派はそれを極端に形式主義に変えてしまった。(例マルコ7)律法を守ろうとしても守れない貧者、病人、、遊女、徴税人、外国の人を「罪人」と断罪し、共同体の交わりから排除し、神の恵みから閉め出してしまっていた。そして、律法を厳守する自分たちこそ「幸い」と呼んでいたのだ。

 彼らに対し、イエスはあなたたちが「幸い」の祝福が与えられるなら、ましてや、貧者、飢えた人、泣く人にこそ神の祝福がある、と私は断言する。(参照:田川健三『イエスという男』)親鸞の悪人正機説「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を彷彿させる。

 旧約聖書において、神に、つまり、律法に忠実な人とは貧しい人に心配る人のことだ。(例ヨブ31・13-23、詩編37・21、112・4、9)何となれば、神はすべての人に天を昇らせ、雨を降らせる方だから、その神に従う者は貧しい人々を虐げるはずがないから。イエスはそのことに気づかないファリサイ派に悔い改めを叫んだのだ。

 衣食住足りてる教会が貧しい人たちに無関心であるなら、祝福は遠いだろう。 

ももちゃんの一分間説教バックナンバー

ももちゃんの一分間説教No.7、8販売のご案内


戻る

得心