ももちゃんの一分間説教
1996年12月29日
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(ルカ2:22〜40)
今週のKey Word:「聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25)
羊飼いたちは、天使のお告げによって「乳飲み子」を見に行くことができました。父ザカリアは洗礼者ヨハネがキリストの先駆者であることを聖霊に満たされて預言しました。さらに、マリアも聖霊の力に包まれ子を生み、神のみわざを称えました。
今週の福音では、シメオンとアンナが聖霊によって乳飲み子を「救い主」と預言しています。
従って、私たちがイエスを「救い主」として出会うには、人間的わざ(知恵・信仰)によるのではなく、上よりの力(神・聖霊・天使)を通してしかならないのであります。
それでは、上の力はどこに働くのでありましょうか。それは、先にあげた人々の共通点である「上よりの力の働く場を空けていた」というところにであります。
ザカリアは、妻のエリザベトを不憫に思い、祭司として何んとか神の力が働くようにひたすら祈ったのでした。
マリアは、若い娘として、神から託された使命を生きるために神の力にまかせる他ありませんでした。「お言葉どおり、この身が成りますように」(ルカ1:38)
羊飼いたちは、その職業ゆえに、人々から卑しめられていたが故に、神の救いを待ち望んでいました。
そして、シメオンとアンナは年老いてホームレスとなっても「救い主」を待ち続けるという、人々からは尋常ではない者と見なされていたに違いありません。彼らの生きる意味は「救い主」の到来を告げることだけにありました。
かように、私たちが、イエスを「救い主」として出会うには、自身を打ち砕き、疎外され、おとしめられている人々と連帯するとき、実現するのであります。
さあ、既に「救い主」と出会っている私たちは、「上よりの力」において神のみこころを成長させて行きましょう。
1996年12月25日
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(ルカ2:1〜14)
今週のKey Word:「あなたがたは、布にくるまっている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2:12)
「この世界」、特に「日本」のクリスマスは、年々、盛大になって来ました。ところが、実際は、資本主義経済の原則で、富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなるための市場として機能しているのであります。「普通の暮らし」の人々は、知ってか知らずか「この世界」の権力者の手の上で、一夜限りの「無礼講」に酔っているのであります。まさに、「死ん」でいるのであります。
しかし、聖書のクリスマスのメッセージは「この世界」の指導者にではなく、貧しくさせられた人々、弱くさせられた人々への福音であることを語っています。
「この世界」は、より強く、より速く、より美しく、と他者との差をつけた者こそが「勝利者」と称えられます。しかし、その「幼な子」、そして、十字架上のイエスは「この世界」からは、省みられず、むしろ、唾棄されるものであります。例えば、ホームレスの人々や死刑囚のように、無視され敵視されているのと同じであります。
神の恵みは、そのような「この世界」にではなく「この世界」から追放され、無視された所に注がれるのであります。
クリスマス、それは私たちの心が「飼い葉おけの乳飲み子」、即ち「この世界」から忘れられた人々との連帯に生きることへ迎わせる誕生日なのであります。
1996年12月22日
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ルカ(1:26〜38)
今週のKey Word:あなたは神から恵みをいただいた。(ルカ1:30)
「荒れ野」の叫ぶ声に導かれて、イエス・キリストに結びつけられた私たちは、非人間的状況下にある人々の苦痛と悲しみを取り除く神のみ心実現へ参与させられました。しかし、その働きは「この世界」の指導者によって、イエスが十字架刑に処せられたと同じく、弾圧を受けるのであります。
その点から、今週の「マリアへのお告げ」(ルカ1:46〜55)を読みますと、マリアには何と恐ろしい将来を託せられたのかと思わざるを得ません。彼女の初子が、「主はその腕で力を振るい、……権力ある者をその座から引き降ろし、……富める者を空腹のまま追い返」(ルカ1:46〜53)す僕となることが決められたからであります。それは、当然、わが子が「十字架の道」を歩むことを受け入れることとなります。どの母親が、それを望むでしょうか。マリアは、天使のお告げをどのように聞いたでしょうか。
しかし、天使ガブリエルは、その当惑したマリアに「あなたは神から恵みをいただいた」と語るのであります。何ということでしょう。マリアと息子に降りかかる恐ろしい将来が「恵み」だと言うのであります。
この「恵み」には、二つの意味が込められていると思います。一つは、田舎の若い乙女が、神のみ心実現への参与に招かれたということ。もう一つは我が子もまた、その実現を一歩すすめる者になれる、ということであります。すなわち、神の恵みとは自己の保全、マイホームの安定を求める「この世界」的価値観を乗り越え、我が身と我が子を捧げられることなのであります。もちろん、それはマリア一人でできることではなく「聖霊があなたを包む」ことにより、達成されるのであります。
さあ、私たちも、聖霊の力に押されて、神のみ心実現に向けて個人主義から脱け出て行きましょう。
1996年12月15日
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ヨハネ(1:6〜8、19〜28)
今週のKey Word:彼は証しをするために来た。(ヨハネ1:7)
私たちが、「荒れ野」に立って、「この世界」を警戒することがキリストの目指した神のみ心実現への参与のはじまりでありました。
しかし、「この世界」の指導者たちは、「荒れ野」に追放した人々が、叛乱することを極度に警戒します。エルサレムのユダヤ教指導者たちが洗礼者ヨハネのもとに使者を遣わしたのも、そのためであります。「この世界」に疑問を感じた人々が、続々と「荒れ野」の洗礼者ヨハネのもとへ水の洗礼を受ける様子に彼らは危惧を抱きました。彼らユダヤ教指導者たちには、普通の暮らしの人々がマイホームに追われて目覚めないことが得策なのでありました。そこで、人々が騙されていることを証拠づけるために、洗礼者ヨハネが何者なのかを尋ねさせたのでありました。洗礼者ヨハネは答えました。「わたしはメシアでも預言者でもない。荒れ野で叫ぶ声であり、イエスの証し人である。」と。
ユダヤ教指導者たちは、安堵しました。「彼は何者でもない。ただの人心を惑わす者以外ではない」とま。従って、洗礼者ヨハネは、後にヘロデ王に殺害されるのであります。
それでは、洗礼者ヨハネは、何者でもないのに、何故、それほどのことをしたのでありましょうか。やはり、それは、彼が「荒れ野」の人々の苦しみ、悲しみに我慢できず、神のみ心を実現したいと思ったからにありません。しかし、彼は自分の限界を知っていました。それゆえに、彼はイエスに後を託したのであります。すなわち、人々を「荒れ野に導き、目覚めさせ、イエスに従わせた」(ヨハネ1:35〜42)のであります。
私たちは、何者でもありません。むしろ、私たちは弱く、罪深い者ではありません。しかし、ホームレスの人々や薬物依存者の苦しみを前にしたとき、何とかしなければと思わずにはいられません。自分の力には限界があります。
それゆえにこそ、私たちがイエスにあるとき、一つとなって大きな力となりうるのであります。従って、私たちの「重荷を負う人々、疲れた者たち」への関わりは、人々をイエスにつなぐこととなるのであります。
さあ、今日も、私たちはイエスを証しする「荒れ野」の声となりましょう。
1996年12月8日
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マルコ(1:1〜8)
今週のKey Word:荒れ野で(マルコ1:3)
イエス・キリストとの出会いにより、私たちはキリストのうちに「この世界」を警戒して、目を覚まして神のみ心である「命と平和」を実現するようにと励まされています。今週の福音には「この世界」を警戒するための視点をどこに置くのかが、語られています。
神はいつも私たちの先にその道(=イエスとの出会い)を備えていて下さいます。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」(マルコ1:2)イエスとの出会いは、「荒れ野」の叫ぶ声に導かれます。
「荒れ野」、それはサタンがイエスに試みた場所(マルコ1:2)と言われるように、人々が容易に近づかない魑魅魍魎の棲む「恐い」所であります。また、「追放された者の行くところ」(創世記21:14)「贖罪の山羊が送られるところ」(レビ16:10)であるように、人間社会からその「罪」を背負われた者の行く場所であります。言い換えますと、「荒れ野」とは、人間の生存に耐えられない非人間的状況、および、その非人間的状況に追いやられた人々の生きる場であるということであります。「この世界」は、自己の安定と利益を守るために障害者、病人、老人、外国人、難民、犯罪者、女性、ホームレスを「荒れ野」に追放し、「恐い、汚い、怠け者」とレッテルを貼り、人々を近づかなくさせた場を作り続けています。
しかし、その「荒れ野」から私たちに「主の道を備えよ」と叫ぶ声があるのであります。なんとなれば、イエスは神のみ心を「荒れ野」にて始められたのであります。「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」(マルコ1:39)
従って、私たちが「この世界」を警戒するときの立つ場、視点は「荒れ野」であります。すなわち、「この世界」から差別され、虐げられた人々の悲しみ、痛みを共感するところからであります。イエスが病人や貧しい人々と共に生きようとしたとき「この世界」の悪が明るみにされたのであります。
さあ、私たちもマイホームから出て、イエスにあって「荒れ野」に行き「この世界」を「荒れ野」の人々と共に「緑の原」に変えようではありませんか。
1996年12月1日
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マルコ(13:33〜37)
今週のKey Word:「警戒せよ、目を覚ましておれ」(マルコ13:33岩波版)
イエス・キリストとの出会いは、私たちをして古い自己に死に、新しい自己に生きるようにされます。(私たちの古い自分がキリストとともに十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。ローマ6:6)それゆえに、私たちはキリストとの出会いをするたびに、新しく生まれ変わるのであります。
キリストの第一声、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)は、私たちに「この世界」にではなく「神の国」に生きるようにとの呼びかけに他なりません。従って、私たちの生き様は、「この世界」に神のみ心が実現されるように参与することとなります。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)
「この世界」は、今や、聖書の語る終末(マルコ13:3〜13)の如き様相であります。環境破壊、人口増加、貧困、飢え、戦争とその兆候には際限がありません。「この世界」のどこに神のみ心があるのでありましょうか。
「警戒せよ、目を覚ましておれ」(マルコ13:33岩波版)とのイエスの声は、私たちに惰眠から目覚めて、神のみ心である「命と平和」(ローマ8:6)を「この世界」へ早く実現するようにとの励ましであります。
イエスは、「この世界」に神のみ心を実現するようにと、私たちの心にその種を蒔きました。その愛と力によって私たちは「この世界」を警戒して、「命と平和」を育てて行きましょう。
1996年11月24日
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マタイ(25:31〜46)
今週のKey Word:「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか」(マタイ25:37)
これまで、二週にわたり、神から「然り」と受け容れられる人生とはなにかを学んできました。すなわち、その人生とは、イエス・キリストを土台にして、神の憐れみと働きのもと、与えられた生命、能力・境遇を大胆に惜しみなく他者への愛に使いきる、というものでありました。
今週は、その最終回であります。これまでこの説教の中で、毎週のように、キリストと出会った私たちの生きざまは「他者への愛」であると語ってきました。しかし、「他者への愛」とはそんなに声高に語り、肩肘を張り、強迫観念的な、特別なことをすることでありましょうか。それではまるでイエスが批判してきたファリサイ派的自己義認と同じことになるのではありませんか。
今週の福音では、「他者への愛」とは、隠れたものであり、目立たないものであり、気づかないことである、と語られています。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ……飲み物を差し上げたでしょうか」(マタイ25:37)
私たちは、それを、イエスの姿に見ることができます。イエスが愛した人々は社会的・宗教的に最も忌み嫌われた人々であり(マルコ2:16)、また、そのイエスの生きざまを母親や兄弟たちまでもが「気が狂った」ものと見なし(マルコ3:21)、ついには、イエスが愛した人々からも見捨てられ(マルコ14:50)、神さえをも呪って刑死したのでありました。それは、世間的には、全く無駄、徒労、惨めな姿であります。イエスの「他者への愛」はそれを目的とした行為ではありません。病人を見て「深く憐れまれた」(=腸のちぎれる想いに駆られた。(マルコ1:40)岩波版「新約聖書」)というような、他者への苦しみ、悲しみに直面していてもたってもいられず、掟とか人の目とか、神学的意味とか手段とか方法とか構わず、その人々が一番望んでいる関わり方をしたのであります。
そもそも、私たちが無価値で罪人であるにもかかわらず、神が愛されたこと自体、神から祝福され受け容れられた人生なのであります。
それゆえ、私たちの人生は祝福を得るため、賞を獲るためのものではなく、感謝して他者に与えることなのであります。
さあ、今日、私たちが出会う「重荷を負い、疲れた人々」に私たちすべてを与えようではありませんか。
1996年11月17日
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マタイ(25:14〜30)
今週のKey Word:「僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」(マタイ25:12)
「生きていて良かった」と、人生を終えたいと願う私たちにとって、神からその人生を「良い」と受け取っていただく、第一段階は、自己をイエス・キリストに据えることでありました。(先週の福音)
ともし火は油がなければ、燃えないのであります。
今週の福音は、その第二段階、自己をイエス・キリストに下ろした私たちの生き方は、どうあるべきかについて語っています。
そもそも、私たちの生命、能力、境遇は神から与えられた(=預けられた)ものであります。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこにおかれた。」(創世記2:8)
それでは何のために神は私たちにそれらを与えたのでありましょうか。それは、神から委託されたこの世界を守るためであります。
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(創世記2:15)
言い換えるならば、私たちの人生とは神から与えられたものを用いて、神から与えられた使命を全うするために生きる。ということであります。そして、神からの使命とは、「神への愛と隣人への愛」(マタイ22:34〜40)であります。
かって、私たちは、その生命、能力、境遇を自己の利益のためにだけ利用してきました。そして、他者に勝つため、老後のためといって安全に出し惜しみをして使ってきました。しかし、今や、イエスと出会い、イエスを通して受けた神の愛により、他者を愛することへ生の方向転換をさせられました。しかも、その際、私たちがその足をイエスにしっかりと踏みとどまらせているならば、神の力が私を超えて働くことを知らされています。
今週の福音の、−タラントンを預けられた人の誤りは、その足をイエスに下ろさず、自力で立っていたことであります。すなわち、神の慈しみによって、イエス・キリストにおいて赦されて生きられることを知らなかったのであります。むしろ、彼は神を怒りの神、吝嗇(りんしょく)の家の主人と理解していたのであります。それゆえ、彼は怖くて何もしなかったのであります。
さあ、私たちは神から与えられたものをイエス・キリストにおいて、惜しみなく大胆に他者のために使いきろうではありませんか。
1996年11月10日
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マタイ(25:1〜13)
今週のKey Word:「わたしはお前たちを知らない」(マタイ25:12)
私たちの人生には終わりがあります。死に際して「生きていて良かった」と言い残したいと誰もが思うのではないでしょうか。しかし、キリスト教において各々の人生を良いと評価し、受け容れるのは人ではなく神であります。そして、その神の判断は、人間にははかりがたい神の一方的受容であります。(例えばマタイ20:1〜16)
これまで、ファリサイ派の人々や律法学者たちを「見倣ってはならない」と弟子たちをいましめたイエスは25章で、神の愛への応答として人生をどう生きるべきかを三段階に分けて彼らに語っています。
神の限りない憐れみは、イエスにおいて私たちを自由にしました。すなわち、自己に頼る利己的生き方から他者への愛に生きるよう解放されたのであります。しかし、それは「十字架の道」であります。自力に頼ろうとすると、かつて、出エジプトをしたイスラエルの人々が荒野での生活に度々、神に不平をつぶやき、反抗したと同様に私たちは神に背き、忘れてしまうのであります。また、私たちが「十字架の道」は、イエスにあって歩むならば神は憐れみ続けて下さるのであります。まさに、イエスの生涯が神との不断の交わりにあったように。
今週の福音の「十人のおとめ」のたとえは、油を用意していた賢いおとめと、それを用意しなかった愚かなおとめの人生の結果が描かれています。賢いおとめたちとは、イエスに根づいている人々であり、愚かなおとめたちとは、イエスにしっかりと足をつけていない者たちのことであります。イエスに根づいている人々は、神の大きな憐れみのもとに大胆に他者への愛に生きようとします。
他方、イエスに十分足をつけていない人々は、神を疑い自力に頼り、他者との競争に生きます。したがって、この人々は、「わたしはお前を知らない」と神から言われるのであります。
神の愛への応答としての私たちの人生の根本は何よりもイエス・キリストに土台を置くことであります。(マタイ7:24)
さあ、私たちは自分の罪深さ、非力さという重たい錨をイエスにおろして、他者への愛に生きましょう。
1996年11月3日
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マタイ(23:1〜14)
今週のKey Word:「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ23:8)
律法を自己の評価の道具とするファリサイ派の人々は、イエスを罠にかけることに失敗しました。今週の福音では、イエスがその彼らを見倣ってはならないと群衆や弟子たちを諭しています。なぜなら、前回にもお話ししましたように、律法とは、神の愛への応答として「神と隣人への愛」を生きる、ということでありました。そして、「隣人」とは「十字架への道」を歩む者にとっては、「友」(ヨハネ15:14)であり、「兄弟」(マタイ23:8)であり、さらには自分自身でもあるのであります。(お前は、お前の隣人をお前自身として愛するだろう。(マタイ22:32)『新約聖書翻訳委員会訳』岩波書店)(太字筆者)
創世記には、次のようにかかれています。最初の人間からパートナー(ふさわしい助け手)が作られたとき、その人を眠らせ、その人の骨を一部取ったとあります。(創世記2:21)それは、パートナーとは自分の一部、自分自身だということを表しています。また、そうして男女の人間が作られたとき、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった、とあります。つまり、パートナーは互いにありのままを受けいれた、ということであります。(月本昭男著『創世記』教団出版局、P97〜101)人々がパートナー、仲間であろうとするとき、地位、職業、学歴、家柄、ブランド品、能力で着飾るのではなく、裸の素顔のままを受けいれよう、ということなのであります。
隣人を愛して生きようとする私たちは、ファリサイ派と同じく、先生と呼ばれることの大好き人間であります。イエスは、そんな私たちに神の前で胸を打たせ、隣人を友よと予備、また、呼びかけられる者に創りかえてくださいます。さあ、たった今から「友よ」と呼びあいましょう。
1996年10月27日
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マタイ(22:34〜40)
今週のKey Word:「どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)
イエスを亡き者にしようとするファリサイ派の人々は、なんとか罠にかけようとイエスを再三、試みました。
ファリサイ派の人々の頑なさと、その執ような攻撃に対し、イエスは寛容にかつ鋭く応対し、じっと彼らの回心を待ち続けています。それは、まさに、神の限りない憐れみ「七の七十倍までも」(マタイ18:21〜35)と人間の卑小さと罪深さを現しています。
さて、今回のファリサイ派の人々のイエスへの質問は、律法に序列をつけるものでありました。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタイ22:36)既述したように、彼らのあり様は自力に頼る利己主義でありました。自分が他の人に比べより厳しく、より多くの律法を守ることに幸を見いだしていました。(また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。(マタイ23:7))従って、彼らにとって律法には順位がありました。どれが一番で何が二番であるかは、他者より優位を保つために知ることが大切だったのであります。
しかし、律法は本来ただ一つに集約されるものであります。「わたしがおまえを憐れんでやったように、おまえも自分の仲間を憐れんでやるべき」(マタイ18:33)だ、であります。言いかえますと、律法とは己への神の深い憐れみに応答し(=神への愛)他者を憐れむ(=隣人への愛)ことであります。それゆえに、ファリサイ派の人々が、他者と優劣を争い、他者を疎外し、差別するための道具として利用するものではないのであります。神への愛と隣人への愛は一体であり、一位二位という序列はないのであります。「第二も、これ(第一)と同じように重要である。」(マタイ22:38)
イエスは、律法本来の意味を明らかにして、彼らをハッとさせました。「神を愛する、律法を守る」と言いながら、実は自己の利益を得ようとする自分らのみにくい姿に気づかされたのであります。
私たちも、「律法」を守らねばならないから回心し、本来的自己の回復、人間性を取り戻すものとして「神への愛と隣人への愛」に生きようではありませんか。
1996年10月20日
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マタイ(22:15〜22)
今週のKey Word:「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」(マタイ22:15)
イエスの「天の国」への招きを、人々はなかなか受け容れませんでした。特に、ファリサイ派ら、ユダヤ教指導者たちは「信念」と「信仰」と取り違えて、自分らの「信念」に合わない、むしろ批判的なイエスを何とかして葬ろうとやっきでありました。今週の福音には、彼らの策略の第一ラウンドが描かれています。
さて、ファリサイ派の人々は、なにゆえ、それほどまでに自分たちの「信念」に固執したのでしょうか。それは、自分たちの「信念」が、彼らの宗教的、社会的、政治的、経済的地位を与えているからであり、それらが自分と他者を見比べる基準になるからであります。(ルカ19:9〜14参照)
私たち資本主義社会に生きる者には「働かざるもの、食うべからず」という「信念」があります。ですから、自分らの今の境遇は勤勉、勤労の努力で得たものと自負をもっています。そして、ホームレスの人々を「怠惰、落伍者」と見下げ、彼らに比べ自分は何と素晴らしい人間だとうぬぼれています。
このように。その「信念」は、自己と他者を分断するゆえに固定化されるのであります。それに対し、「隣人を愛しなさい」と宣べるイエスは、自分らの境遇をひっくり返すものとして、亡き者にされるのであります。
ファリサイ派の人々のその計画は巧妙で、狡猾であります。イエスがどちらの答えをしても、彼らの罠にはまるようになっていました。しかし、イエスは彼らの質問には直接、答えませんでした。なぜなら、イエスは彼らをとっちめるのではなく、回心させたかったのであります。
イエスは彼らに言いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」すなわち、自力に頼って生きようとする者は、限りない闘争に行きなさい。神の憐れみに自己を置く者は、人々を哀れみなさいと、促したのでありました。
さあ、私たちは、絶えざる猜疑心と権謀術数に生きることから脱却し、他者へのあわれみ、信頼、友情に生きようではありませんか。
1996年10月13日
マタイ(22:1〜14)
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今週のKey Word「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に一人は商売に出かけ」(マタイ22:5)
自分の信念を越えられず、(先週の福音)、他者との交流ではなく、他者を差別し、疎外して生きる私たちに、イエスは何度も何度も「たとえ」を話して「天の国」へ招いて下さいます。
しかし、今週の福音では、そのように憐れみ深いイエスの招きに対し、他のことを優先して、それを失う人々のことが語られています。
私たちの日々の生活は、明日に備えた自己中心的なものであります。「今日」は「明日」のためにだけあって、「今日」のためにはありません。従って、他者との出会いも「明日」につながるかぎりの利己的交わりにしかないのであります。
そのような、私たちに対し、イエスの招きは「今日」を取り戻させるのであります。
「『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:19〜20)
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)
イエスにとって「今日」とは、「天の国」が始まる日であり、私たちが自己中心から「他者との共生」に生きる方向を転換する時なのであります。そして、「他者との共生」とは、「重荷を負った人、疲れた人々」を深く憐れみ、休息を与え、食事を共にする「祝祭」を喜び、真の交わりを実現することであります。
しかし、私たちは、「それを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」(マタイ22:5)明日に備えるのであります。その結果「『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか』」(ルカ12:20)と空しい生を送ることになります。
イエスの「天の国」への招きは、私たちにして「今日」を回復させ、他者との交わりに幸を見出させ、自分を取り戻させるのであります。さあ、今日の出会いを求めて招きに応えて行きましょう。
1996年10月6日
マタイ(21:33〜43)
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今週のKey Word「さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ21:38)
今週の福音は、先週に引き続き、イエスのユダヤ教指導者たちを回心へと招くたとえ話が語られています。
彼らは神からの救いを自己の力によって獲得しようとしました。そして、その結果、徴税人や娼婦たちを「罪人」と呼び、疎外し、差別してしまいました。
亀田政則氏は「信念」を「信仰」と取り違えると、自分が正しい者であり、正しい者と評価されても当然だと主張し、自分の信念に適わない者には拒絶し、敵対行動をとる、と述べています。('95.12「福音と世界」)
ユダヤ教指導者たちは「自分とは何か」を省みたとき、生命は自分のもの、才能・境遇は自分の力と努力で獲得してきたものだと思い違い、「救い」も自己の力によって、何をしてでも得ようとするのであります。まさに、「さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ21:38)というのであります。
しかし、私たちが、自分を神の支配下においたとき、限りなく憐れまれ、生命は与えられたもの、才能・境遇は恵まれたものであることに気づきます。そして、無論「救い」は神から一方的に贈られるものであると思い至るのであります。
私たちは、ぶとう園の農夫たちのように、今の境遇に不平をいだき、もっともっとと要求し続けるのではなく、感謝して、いただき「重荷を負った人、疲れた人々」に分かち合いたいと思います。
今週の一分間説教 Gospel on this week
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