ももちゃんの一分間説教


1996年9月29日
マタイ(21:28〜32)


今週のKey Word「あなたたちより先に神の国に入るだろう
 「十字架の道」は「他者と共に生きる」道でありましたそして神からの賜物である自分の能力境遇はその「十字架の道」を歩むため即ち「他者への愛」のために用いるものでありました(先週の福音より)
 今日の福音ではその賜物を多く与えられた祭司長民の長老たち(マタイ21:23)がイエスより徴税人や娼婦たちの方が「あなたたちより先に神の国に入るだろう」と宣言されています
 彼らは宗教指導者として古くは預言者たちから告げられ(人よ何が善であり生が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている正義を行い慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むことこれであるミカ6:8)洗者ヨハネには「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と説教されたりそしてイエスからは「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と教えられていました
 しかしそれにもかかわらず彼らは自分たちを宗教的リーダーエリートを自認し宗教的義務を課せそれらを守れない徴税人や娼婦たちを「罪人」と呼んで共同体から排除し卑しめおとしていたのでありましたそれはまさに途方もない借金を主君からゆるされた家来がわずかな借金を返せない仲間をゆるさなかった話のように「わたしがお前を憐れんでやったようにお前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」(マタイ18:33)と叱責される生き方をしていたのであります
 私たちの「十字架の道」は宗教的リーダーたちのように自己の利益のため自力で救いを得ることに熱心で他者の苦しみ痛みに無関心な歩みではなく神からの愛を十分いただいたお礼として重荷を負った人々疲れた者たち休息と希望を与える道でありましょう


1996年9月22日
マタイ(20:1〜16)


今週のKey Word「最後に来たこの連中は」
 「七の七十倍までも」の神の愛は私たちを「十字架の道」(他者への愛)に招かれます「十字架の道」は他者を共に歩む者として即ち「友」「あなた」として受け容れます
 ところが私たちの生が「十字架の道」ではなく競い合い利己的生であるとき他者を特に「弱い小さい人々」を「この連中」と呼び敵対し軽蔑して自己を優れた者に見なしますこの関係はとどまることのない因縁憎しみとなり安心は決して得られません
 よくよく考えてみれば私たちの能力・境遇はそもそも神からの賜物ではないでしょうかそうであるならばおおくもらった賜物は他者のために分かち与えられるべきではないでしょうか
 何故ならばそれらの賜物は「十字架の道」を他者と共に歩むためにこそいただいたものであります
 私たちは神から「友」と呼ばれ「あなた」と声をかけられることに安息を与えられ安心し「十字架の道」を歩む勇気を与えられます(もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない僕は主人が何をしているか知らないからであるわたしはあなたがたを友と呼ぶ父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからであるヨハネ15.15)
 (わたしがあなたがたを愛したように互に愛し合いなさいこれがわたしの掟である友のために自分の命を捨てることこれ以上に大きな愛はないヨハネ15.12:13)
 私たちはその神の愛に生において他者を「友」と呼び共生して行こうではありませんか


1996年9月15日
マタイ(18:21〜35)


今週のKey Word「七の七十七倍までも」
 イエスの信徒としての「十字架の道」は私たち一人一人が努力して歩めるようなものではありません神の下にイエスに導かれて互いが愛し赦し支え合ってこそ歩むことができます何故ならば「十字架の道」は神ご自身がイエスを通して私たちをとことん哀史赦し続けられたことに他ならないからであります(神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであるヨハネ3:16)
 従って今日の福音のように互に他者の罪を赦し続けることが「十字架の道」を歩むことなのであります
 私たちが日々の生をふりかえってみるならばそれは本来的自己(他者との共生)を喪失し利己的生き方(他者との競争疎外)に埋没していると言わざるを得ません神はそんな私たちのありさまを「憐れに思って」(マタイ18:27「はらわたがちぎれる想いがし」※1)私たちを赦されるのであります今日のたとえではその神の愛を天文学的数量で表わしています(1万タラントンとは6千万デナリオンこれは普通の労働者の賃金の16万年分に当たる※2)またパウロはそれを次のように言っています「人は皆罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますがただキリストイエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23〜24)
 神が私たちをそんなにまで愛されるのは私たちを自己に目覚めさせ他者との共生に向わせるためであります(しかし神に感謝しますあなたがたはかつては罪の奴隷でしたが今は伝えられた教えの規範を受け入れそれに心から従うようになり罪から解放され義に使えるようになりましたローマ6:17〜18)
 神は私たちを「七の七十七倍までも」愛されているのでありますそれに値しない私たちをかけがえのない存在として生かされるのであります神の「七の七十七倍までも」の愛を人々に分かつものとして「十字架の道」を歩みましょう


1996年9月8日
マタイによる福音 (18:15〜20)


 イエスを信じて従う弟子たちの歩みは十字架の道でありましたしかしその困難な道のりの出発には弟子たち一人一人がイエスの招きすなわち神の限りない愛を受けて見失っていた自己を取り戻すことができたことがありますそしてこの神の愛は一回限りのことではなく耐えず彼らをゆるし受け入れ励まし導き続けるのであります(わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいるマタイ28:20)従って私たちは弟子たちと共にこの神の愛において十字架の道を歩むことができるのであります
 ところが今日の福音のようにその途上で私たちは兄弟と共に罪を置かしてしまいます文脈(マタイ18章)から見てその罪とは小さな者をつまずかせること(マタイ18:6)軽んじること(マタイ18:10)迷い出た小さな者を捜さないこと(マタイ18:14)でありますつまり自己を「小さな者」と見ないでむしろ彼らをさげすみファリサイ派的律法主義に通じる自己義認傲慢であり自分を低くしない(マタイ18:4)ことでありますそれはあたかも自分こそが正しい十字架の道を歩み他者を非難軽蔑することでありますしかしそれは神の愛を忘れた裏切る「罪」と呼ばれることにほかなりません
 十字架の道は競争ではありませんむしろ自己の無力さに神のわざが働いて初めて歩めるのであります
 さあ私たちは互いの無力さを認め受け入れ共に歩むことそして絶えず神の愛のうちにいることを覚えましょう「二人または三人がわたしの名によって集まるところにはわたしもその中にいるのである(マタイ18:20)


1996年9月1日
マタイによる福音 (16:21〜28)


 前回は私たちはイエスの「メシア(=救い主)」としての徴は十字架であり十字架とは「疲れた者重荷を負う者」との連帯の象徴であることを知りました今日の福音では私たちがその「メシア」であるイエスを信じ従うことは一体どういうことなのかを教えています
 先週学んだように弟子たちにとっての救いは自己中心的救いでありました(cf.マタイ20.20:21)それは今の境遇を変えることなく物質的にも精神的にも満足を得たいというものであります(cf.マタイ19.16:24「金持ちの青年」)ところがイエスは自己を守るどころか与えられたであろう「この世の支配者」「王」になることを拒否しそれどころか「虐げられた人々貧しい者たち」と連帯して生きたがため十字架の上で刑死したのであります
 それゆえこのイエスに信じ従うということは他者との連帯に生きるため自己放棄するということでありますしかし私たちはイエスのそのことばに躊躇してしまいます時間も労力もお金も現在の生活にひびかない程度は提供しますがちょっとでも負担になるならやめさせてもらいますかように私たちはマイホームという自分にとっての「全世界」を手に入れるないしは手離さないために「自分の命」を失っているのであります
 そんな私たちへのイエスの十字架への招きのことばは私たちの「今」のあり様をはっとふりかえらせ真の「自分の命」を回復させる望みを与えてくださいます余分なものを捨て他者との連帯に生きましょう


1996年8月25日
マタイによる福音 (16:13〜20)


 イエスは神から遣わされた当のユダヤ人(特に宗教的指導者たち)からは排斥されましたが他方彼らからは人間的扱いをされない異邦人カナンの女からは「メシア=(救い主)」 として受け入れられましたそれではイエスの宣教旅行に同行し彼の数々の力ある業を目撃した弟子たちはイエスを何者だと思っていたのでありましょうか
 今日の福音ではイエスが弟子たちに尋ねています「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」ペトロは弟子たちを代表して「あなたはメシア生ける神の子です」と答えました
 しかし多分に彼の答えのメシアは宗教的指導者的メシアであっただろうと想像されますというのは後でペトロはイエスが自分は十字架刑に処せられると言ったことを理解できず イエスから叱責されたことからわかります(マタイ16:21〜23)更に弟子たちがイエスの受難を前に逃げ出したことからも明らかであります
 それでは何故異邦人カナンの女はイエスを「メシア」として受け入れたのに弟子たちは認められなかったのでありましょうかイエスに従った弟子たちは中産階級(漁師税吏等) でありましたそれ故彼らにとっての救いはローマ帝国支配からの政治的独立でありまた地位・生活の向上安定であり精神的慰めという狭い自己中心的救いでありました 一方カナンの女にとっての救いは娘の病気という悲しみに「深い憐れみ」をもっと「手を伸ばして」生命の回復をすることでありましたまさに彼女にとってイエスがその救いを もたらした「メシア」でありました
 「メシア」とは「重荷を負う者疲れ果てた人々」を休ませ力を回復させ共にその重荷を荷う者なのでありますそして十字架はその徴であり彼らとの連帯の象徴であります 従って自己中心的救いを求める弟子たちには十字架のイエスからは何のしるしも読みとれなかったのでありますしかし後にはイエスの復活と出会い宣教し(まさに人々との連帯) に励んだとき十字架に「メシア」の意味を読みとることができました「このことを現わしたのは人間ではなくわたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)
 私たちも自己中心的救いを求めているかぎりイエスを「メシア」として信じられません「苦しむ弱い人々」との連帯に生きるときイエスである「メシア」に出会えるのであります


1996年8月18日
マタイによる福音 (15:21〜28)


 ユダヤ教ファリサイ派によれば「神の憐れみ」(=救い)にあずかるためには神の命じられた掟(=律法)を守ることによってでありましたしかしイエスの時代においてその掟は神の御旨から離れ重箱の隅を楊枝でほじくるようなものとなり人間を生かすのではなく殺すことになってしまいました「この民は口先でわたしを敬うがその心はわたしから遠く離れている人間の戒めを教えとして教えむなしくわたしをあがめている」(マタイ15:8〜9)
 そのようなファリサイ派からすればイエスは「救い主」であるどころか律法を破る守らない「神を冒涜する」者でしかありませんでした
 今日の福音ではファリサイ派をはじめその当時の宗教指導者からは排斥されたイエスを「救い主」と受け入れた異邦人カナンの女(彼女こそ前者から汚れた者罪人と負のレッテルをはられた人でありました)の信仰が描かれています
 彼女の信仰は娘の命を助けたいととの必死の懇願でありました
 人はそれを「わらをもつかむ」苦しい時の神だのみ的ご利益的信仰だと非難するかもしれませんしかし「神の憐れみ」はファリサイ派が考えるような人間側の条件に応じるものではありません神から一方的に無条件に差し出されるものであります私たちにできるのは自己の無力さ罪深さゆえに「神の憐れみ」を無心に求めることしかありませんしかも彼女の場合その求めは異邦人としてユダヤ人の差別を身に受ける決心の覚悟のものでありましたいたずらに泣き喚いたのではありません「らい病」の人が癒されたいがためにイエスの前に出て来たのも同様に死を賭したものでありました(レビ13:45〜46を参照)
 ご利益的信仰は神を人間の思い通りに動かすのでありますが「神の憐れみ」を求める信仰は「神の憐れみ」を隣人にもたらす使命と責任が与えられますカナンの女はイエスから「神の憐れみ」を受けたものとして同じく異邦人で子どもの病に苦しむ母親たちに「神の憐れみ」を伝える者となったでありましょう私たちも自己に頼らず「神の憐れみ」の下にいるとき「小さき者」への愛に生きる者になることでありましょう


1996年8月11日
マタイによる福音 (14:22〜33)


 イエスの宣教の働きは「髪の憐れみ」を疲れた者・重荷を負う者にもたらし彼らの人間性を回復させ彼らが神の愛に立ち「他者への愛」を生きる者にならしめることでありました
 さてイエスのその働きは限定されたごく小さなものでしかありません彼の宣教活動は1年〜3年だとも言われています福音書の記事にも日々路上で出会った病人のいやし 飢えた群衆へのパンを配ったことなど数例しかありませんしかしその取るに足りないイエスの働きを神の働きとして見たとき30倍60倍100倍の実を結び 鳥がその枝に巣を巣をつくるほどの大木になるのであります
 今日の福音ではペトロが湖上を渡ることを失敗したのは自分の足で歩けると錯覚し実は神が歩かせてくれるということを思わなかったからだと教えています
 私たちの今日の世界には戦争貧困からエイズ登校拒否など難問が山積されていますそれらに対し私たちキリスト者の多くは尻込みしてどうせやっても無駄だとか しょうがないからと言って無関心を装い私的生活の安定精神的救いに懸命になっていますしかしその姿はペトロが「信仰の薄い者」よと イエスに叱責された自己の力のみに頼る生き方ではないでしようかイエスが神の力に信をおいたときパンは増え湖上を歩くことができ十字架上で命を捨てられたのであります
 私たちも底に沈みかけたときイエスは「手を伸ばして捕まえ」」引き上げてくださいます引き上げられた私たちは再度山積された難問を少しずつ崩して行く働きに挑戦しましょう


1996年8月4日
マタイによる福音 (14:13〜21)


 先週の天の国のたとえ(マタイ13:44〜52)で私たちは「天の国」へ入る(=救い)ためには自己の力によるのではなく「神の憐れみ」にあずかるだけであることを学びました
 今日の福音の「五千人に食べ物を与える」(以下五千人への供食と略)では同様に「神の憐れみ」が人間の思いを越えて働くことが示されています
 イエスは飢え病み疲れた群衆への「深い憐れみ」により彼らを「いやし食物を与え」られます
 私たちは日頃その様な群衆を前にしたときあの人たちは…だから甘えさせてはいけない駄目にしてしまう自立の力を奪ってしまうだから手を出しすぎてはいけない 自立へのプログラムを作りそれに従って関わって行くべきだ云々とまず状況分析社会構造の理解をしようとなかなか行動に移らないのであります
 彼らの飢えが根本的になくなるのかという展望をもった行動ではありませんただ今日の彼らを「深く憐れまれ」今日の飢えをみたすために今日の食べ物を与えたのであります
 イエスは山上の説教の中で天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)と語り それ故私たちに自分を愛してくれる人を愛したところであなたがたにどんな報いがあろうか(マタイ5:46)と言って「敵を愛しなさい」と勧めています 従ってイエスの「深い憐れみ」は天の父と同じく「敵への愛」を含む広い広いものなのでありますすべての人に分けへだてなくさんさんと降り注ぐ愛に人が気づいたとき 人は変わらないでしょうか
 「五千人への供食」は単にイエスが食べ物を与えたということではなく今日出会ったその群衆一人一人が天の父から愛されたかけがえのない一人一人であることを イエスが示されたことなのであります
 私たちの「弱い人々」へのかかわりも人間的熟慮と同時にこの天の父の愛を今日伝えるものでありたい


1996年7月28日
マタイによる福音 (13:44〜52)


 今日の福音には「天の国」(=救い)を求める人間の熱心な姿勢とその姿勢で「天の国」に入ったとしても 最後の裁きにおいて悪い者として退けられると語られています
 換言すれば ファリサイ派や律法学者のようにユダヤ教の律法を守ることの熱心さを競う (「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で同胞の間では同じ年ごろの家の者よりもユダヤ教に徹し」(ガラテヤ2:14))ことによって 自分の徳をつみ天の国に入ろうとする人々がいます「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)
 しかし彼らは「あわれみよりもいけにえ」を好み 「薄荷いのんど茴香の十分の一は献げるが律法の中で最も重要な正義慈悲誠実はないがしろにして」(マタイ23:23) 「疲れた者重荷を負う者」に更に「背負いきれない重荷を」のせてしまいます
 従って天の国へ入るその熱心さが「他者への愛」 ではなくむしろ「自己愛」この世的評価を求めるがゆえに最後の裁きにおいては「悪い者」として排除されることになります
 私たちの日々の信仰が「神のあわれみ」に立つのではなく「自分の力」に頼るとき救いからは遠くなります かえって私たちは「神のあわれみ」に生かされた者として感謝して「他者への愛」に生きたいと思うのであります


1996年7月21日
マタイによる福音 (13:24〜43)


 イエスはその宣教を開始する際次のことばを語られました「悔い改めよ天の国は近づいた」(4:17) 神の国(マタイでは天の国)の近さを受け入れることは神の愛の下に生きることであります したがって生き方の変更(律法主義的生き方からの)悔い改めるということであります
 しかし私たちは人間的評価を求めて神の愛から離れることがたびたびあります それは私たちが能力に頼っているからであります
 今日の福音の前半の「毒麦」のたとえでは教会の現状を表わしています 神の愛に生きようと教会共同体に集う私たちの中には「互に愛し合う」のではなく 「互に足を引っぱり合い」神の愛から引き離そうとする人々がいます 彼らはイエスが言うように「敵の仕業」(13:28)によるものであります私たちは(=終末)まで忍耐強く闘い抜きましょう 私たちの無力さゆえに神の力が働くからであります 「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して幼子のような者にお示しになりました」(マタイ11:25)
 後半の「からし種」と「パン種」のたとえはまさにそれを明らかにしますからし種が鳥が巣を作るほどの大きさになるのは 神の力ゆえでありパン種がパンを膨らませるのも神の働きのせいであります
 私たちは自己の力を誇るのではなく神の前における無力さを誇りましょう神の力が私たちを存分に働かせてくれるからであります


1996年7月14日
マタイによる福音 (13:1〜23)


 「柔和で謙遜な者」イエスのもとで十分休養をとった私たちは再び「神の国」の宣教へと出かけて行きます
 イエスの「神の国」の宣教は「弱り果て打ちひしがれた」人々に「神の憐れみ」を実現することでありました 例えばイエスは救うよりも人を罪人に定めるファリサイ派的硬直した安息日の掟に対し 弟子たちの飢えを満たし(マタイ12:1〜14)片手のなえた人をいやすことにより人々を解放しました
 イエスはこのようにして人々を奴隷にし死体(しにたい)とする悪の力の追放により「神の国」の到来を証ししました 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)
 今日の福音の「種を蒔く人のたとえ」ではイエスがこのようにして「神の国」をこの世に実現していることに対し 「理解せず悔い改めない」(マタイ13:15)つまずき誘惑される人々を戒めています(マタイ12:38)なんとなれば彼らは「しるしを見せてください」とイエスに彼らの「メシア」像を求めているからであります
 私たちもこの世からの迫害に恐れたりこの世の富に誘惑されて別の「救い」「神の国」を求めがちであります しかしそれにも増して神はイエスをとおして「神の国」「神のあわれみ」を私たちに蒔き続けられます この神の限りない私たちの働きかけに応えたいものであります


1996年7月7日
マタイによる福音 (11:25〜30)


 イエスの福音では「神の愛」に生きるとは自己の能力努力勤勉によって自分を評価することを放棄し 無償に愛された者として無償の「他者への愛に生きる」ということでありますマタイはこのことを次のように言い表しています 「自分の命を得ようとする者はそれを失いわたしのために命を失う者はかえってそれを得るのである」(マタイ10:39)
 しかしこのイエス・キリストの福音を告げる使命を委ねられた私たちはこの世からの迫害を受けまた肉親との分裂を引き受ける結果となります まさに「自分の十字架を担って」(マタイ10:38)イエスに従うことになります
 それは生身の私たちにとってはしんどいことであり重荷であります今日の福音ではそんな私たちをイエスは慰めるのであります 神の愛は無条件に私たちに贈られます親が幼子を愛するように従って私たちが途中で何度も十字架を放り投げても またいく度もこの世的な評価に目がくらんだとしてもイエスのもとに来て「神の愛」の中でゆっくり休みなさいとイエスは語られるのであります さあ私たちは幼子のように十分休養をとってまたイエスの「軛」を負って「他者への愛」に出かけましょう


1996年6月30日
マタイによる福音 (10:37〜42)


 イエスの弟子派遣は「打ちひしがれ弱り果てた」人々へ神の「あわれみ」を具体化するものでした即ち当時のユダヤ・パリサイ派により律法主義の業績主義的価値観から見捨てられた彼らが神の愛を受けるかけがえのない一人一人であることを証したのです
 しかし他方では既成の価値観に生きる人々からは反感を買い秩序を乱す者として処罰を受けましたまた親子・兄弟間の分裂も起こしましたまさにその宣教は「平和ではなく剣」を投げ込むことになりました
 多くの人たちは親子の間柄を大切にしますしかし親子間の愛が互いに成績次第の条件付きの愛だとしたら互いに解放されない「命を失った」生を生きているのであります
 神の愛に生きることはそのような親子の間柄(既成の価値観)にとどまって(自分の命を得ようとして) それを失うのではなく解放され生き生きと他者の奉仕に生きる命を得ることであります
 イエスはその優しい眼差しで神の愛に生きるためこの世の価値観に七転八倒している私たちを「自分の十字架を担って」と語りかけられます
 さあ私たちはその重みに何度つぶされても起き上がってイエスについて行きましょう


1996年6月23日
マタイによる福音 (10:26〜33)


 私たちが弟子としてイエスから宣教へと使わされたところは貧しく病み疲れた「群衆」のところでありました
 しかしその場は「狼の群れ」(マタイ10:16)の中であります人々は私たちを捕えむち打ち裁かれ憎まれるところ まさにイエスを十字架につけた場なのでありますそのような場では私たちへ宣教の言葉は弱々しく迎合的妥協的つまり 「火とを恐れ」たものになってしまいますしかしそんな私たちにイエスは力強く警告するように「魂も体も地獄で滅ぼす」神を恐れなさいと語られます
 私たちはイエスと出会う前「人々を恐れ」た死体(しにたい)の生き方をしていました成績業績といつも他人と比較され評価を受けてきました そして財産を失い能力が衰えたとき人々は誰も相手にしないのでありますこの世の「人々」は結局自己の利益のため 他の人々を利用するだけなのでありますイエスはそんな無一物の何物でもない私たちをそのまま「魂も体も」愛される神の愛に生きるように招かれたのであります したがって神を「恐れなさい」とは私たちの生きる根本にとどまることそこにしか私たちが「生きられない」ということ その愛を見失うなということであります私たちは神の愛を妨げようとする「人々」に対し神の愛に固く立って宣教の氏名を果たして行きましょう

1996年6月16日
マタイによる福音 (9:35〜10:8)


 ミサにおいてイエスと出逢いイエスの愛と一体化した私たちは当然イエスの如く生きることに招かれています ミサの終わりで私たちは派遣への祝福を受けミサの場からこの世界へ出かけて行きますそれはちょうど イエスが弟子たちに「山上の説教」を話されてから山を下りたようにであります(マタイ8:1)
 さて今日の福音はイエスが山を下りてからのことが要約報告されていますつまり「教え宣教いやし」であります ところで山から下りてイエスが向かったところは「飼い主のいない羊」「弱り果て打ちひしがれている」群衆の中へでありました 何故イエスはその時代の富める者力ある者健康な者のところへ行かなかったのでありましょうか 教勢拡大のためには後者の方がはるか有利にかかわらずなんとなればそれは父なる神のみ旨だったからであります 「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない」(マタイ9:1312:7)
 従って使徒が選ばれ派遣されるところは同じく貧しく病み疲れた群衆の中へであります 私たちはイエスが彼らを「深く憐れまれた」と同じく彼らの境遇を自分の痛みとし 群衆と自らのいやしと解放の共働者になりたいと思うのであります

1996年6月9日
ヨハネによる福音 (6:51〜58)



 今日は聖体の祝日であります私たちが週の初めの日曜日毎にミサへの参列ことにイエスの体と血をいただくことの意味を改ために黙想してみましょう
 先週私たちは父(神)が遣わされた御子イエスを信じることによって闇から光へ悪から真理を行う者へ 自己愛から他者への愛に[新たに生まれかわり]永遠の生命(神のもとに)を生きる者になりました(ヨハネ3、16〜18) したがって週毎のミサへの参加はこの闇の世界のおいて私たちが何を拠り所としどこへ向かいしかも 何の支えによって生きるのかを新たに確認するためであります
 言い替えればイエスにあってイエスに向かって イエスによって生きることを宣言(告白)するのであります
 特にイエスの体と血をいただくことは私たちが光から闇へ 他者への愛から自己への愛に傾きつまずきを繰り返す罪の奴隷である私たちへまさに ご自身を献げつくそうとするイエスの愛と一体化することであります
 私たちはそのイエスの愛をいっぱいあびて他者への愛に向かいましょう

1996年6月2日
ヨハネによる福音(3:16〜18)


 イエスからの聖霊の授与によって「新たに生まれかわった」弟子たちはイエスの啓示の業(無償の愛)を継続する(宣教)ものとなりました
 今日の福音ではそれを次のように言いあらわしています
 イエスが神から遣わされてこの世に来て人間の本来あるべき姿即ち「互いに愛し合いなさい」という他者に開かれた姿「真理」(ヨハネ3.21)を教えるまで私たちは闇の世の行いつまり自己閉鎖的に生きていました
 しかしまさに罪の奴隷(ヨハネ8.34)にとどまっていた私たちを救い永遠の生命(神の下に生きる)を与えようとイエスをお遣わしになり私たちを「無償に愛された」のでありました
 私たちはその「無償の愛」に身を委ねるとき「新たに生まれかわ」り他者への愛に生きることができるのであります
 神の愛はひとえに私たちが偽りの人生ではなく真実の永遠の人生を生きるようにとの招きに他なりません

1996年5月26日「聖霊降臨の祝日」
ヨハネによる福音(20:19〜23)



 復活:昇天:聖霊の授与(降臨)はルカを除いて一つの出来事と考えられています本日のヨハネ福音書でもイエスの復活の弟子たちへの顕現と聖霊の授与が同時に行われています
 復活(=主の高挙)とはイエスがこの世の支配者に打ち勝ち人々を解放したことでありますそして聖霊の授与は弟子たちにそのイエスの啓示のわざを継続させるものであります
 言い換えるならばイエスの「無償の愛」こそが主なる神のみ旨でありこの世の支配者への勝利であると明らかにされた私たちは聖霊を授けられることによって自己閉鎖的(自己中心的)状態から他者への開かれた(宣教他者への愛)者になるのであります
 それはまさに聖霊の授与は土から形づくられた人間が主なる神のその鼻に生命の息を吹き入れられて「生きる者」となり(創2:7)人間の生きる目的を他者(女性)と共に生きて果たすように招かれたごとく私たちも「新しく生まれた者」(ヨハネ3:3)他者への愛に生きる者となるのである

1996年5月19日
マタイによる福音(28:16〜20)



 復活信仰とはイエスがゾンビのように生き返ったことを信じるのではなくイエスこそが私たちを自己から他者へと生き直すように愛されたことを告白することであります
 イエスの十字架が「啓示のわざ=救いのわざの完成」と信じた弟子たちはイエスの与えた掟を守るように招かれました(5/12の福音)弟子たちはイエスの他者への「無私の愛」こそが神から愛されること父のもとへ帰る「道」であることを明らかにされたのであります
 マタイはそのことを今日の福音で次のように言い表しています「互いに愛し合いなさい」を「すべての人を弟子にしてイエスの命じたことをすべて守るように教えなさい」とマタイにとって「イエスの命じたことすべて」は「もっとも小さい者にしたこと」つまり「無償の愛」に他なりません
 そして「私はいつもあなたがたと共にいる」との言命により弱い弱い弟子たちをとことん愛し尽くすと励ましています
 私たちのキリスト者としてイエスから与えられた宣教命令はまさにこの愛に突き動かされて「他者(ヒト)への愛」を生きることに他なりません

1996年5月12日
ヨハネによる福音(14:15〜21)



 イエスの十字架は「啓示のわざ=救いのわざの完成」でありそれは父なる神がイエスを通してその生命を捨ててまで私たちを愛されること「これ以上に大きな愛はない」(15:13)を示されたのであります
 この世の力に何度も倒される度に私たちは常にこの父と子の大きな愛にゆり起こされイエスの掟「互いに愛し合いなさい」(15:17)に招かれているのであります「他者(ヒト)を愛しなさい」は私たちにはなかなかできることではありませんしかしイエスの掟は「互いに愛し合いなさい」なのでありますと言うことは「他者(ヒト)への愛」を私たちが互いに励まし許し受け容れ望み信じ合うことにおいて行いなさいとイエスは言うのでありますしかもその上にイエスは父もご自身も私たちを愛して下さり(14:21)更に父とご自身が「一緒に住む」(14:23)とまで言明しているのであります
 仲間からイエスから父から愛される私たちはよろこびをもって「他者(ヒト)への愛」をChallengeするのであります

1996年5月5日
ヨハネによる福音(14:1〜12)



「主よどこへ行かれるのですか」(14:36)
「どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14:5)
「主よわたしたちに御父をお示しください」(14:8)
私たちはこれらの問いをイエスの時代福音記者ヨハネのときそして今と幾度となく続けてきたことだろうそれはあまりにも「十字架」が重たすぎるので避けたいのである
 しかしそんな私たちにイエスはそのつど
「心を騒がせるな神のわたしを信じなさい」(14:1)
と問い返して下さる
「十字架」こそ栄光であり「十字架」の上に子と一つとなった父がおられると
 私たちはまたつまずくだろうしかしイエスのこの招きを私たちの「道」としてまた踏み出す希望が与えられる

今週の一分間説教 Gospel on this week