ももちゃんの一分間説教
1996年9月29日
マタイ(21:28〜32)
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今週のKey Word「あなたたちより先に神の国に入るだろう。」
「十字架の道」は「他者と共に生きる」道でありました。そして、神からの賜物である自分の能力、境遇はその「十字架の道」を歩むため、即ち、「他者への愛」のために用いるものでありました。(先週の福音より)
今日の福音では、その賜物を多く与えられた祭司長、民の長老たち(マタイ21:23)が、イエスより徴税人や娼婦たちの方が「あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と宣言されています。
彼らは、宗教指導者として、古くは預言者たちから告げられ(人よ、何が善であり、生が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。ミカ6:8)、洗者ヨハネには「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と説教されたり、そして、イエスからは「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)と教えられていました。
しかし、それにもかかわらず、彼らは自分たちを宗教的リーダー、エリートを自認し、宗教的義務を課せ、それらを守れない徴税人や娼婦たちを「罪人」と呼んで共同体から排除し、卑しめ、おとしていたのでありました。それは、まさに途方もない借金を主君からゆるされた家来がわずかな借金を返せない仲間をゆるさなかった話のように「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」(マタイ18:33)と叱責される生き方をしていたのであります。
私たちの「十字架の道」は宗教的リーダーたちのように自己の利益のため、自力で救いを得ることに熱心で、他者の苦しみ、痛みに無関心な歩みではなく、神からの愛を十分いただいたお礼として、重荷を負った人々、疲れた者たち休息と希望を与える道でありましょう。
1996年9月22日
マタイ(20:1〜16)
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今週のKey Word「最後に来たこの連中は」
「七の七十倍までも」の神の愛は、私たちを「十字架の道」(他者への愛)に招かれます。「十字架の道」は、他者を共に歩む者として、即ち、「友」「あなた」として受け容れます。
ところが、私たちの生が「十字架の道」ではなく、競い合い、利己的生であるとき、他者を特に、「弱い、小さい人々」を「この連中」と呼び、敵対し軽蔑して、自己を優れた者に見なします。この関係はとどまることのない因縁、憎しみとなり、安心は決して得られません。
よくよく考えてみれば、私たちの能力・境遇は、そもそも神からの賜物ではないでしょうか。そうであるならば、おおくもらった賜物は他者のために分かち与えられるべきではないでしょうか。
何故ならば、それらの賜物は「十字架の道」を他者と共に歩むためにこそいただいたものであります。
私たちは神から「友」と呼ばれ、「あなた」と声をかけられることに安息を与えられ、安心し、「十字架の道」を歩む勇気を与えられます。(もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。ヨハネ15.15)
(わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。ヨハネ15.12:13)
私たちは、その神の愛に生において他者を「友」と呼び、共生して行こうではありませんか。
1996年9月15日
マタイ(18:21〜35)
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今週のKey Word「七の七十七倍までも」
イエスの信徒としての「十字架の道」は、私たち一人一人が努力して歩めるようなものではありません。神の下に、イエスに導かれて、互いが、愛し、赦し、支え合ってこそ歩むことができます。何故ならば、「十字架の道」は、神ご自身がイエスを通して私たちをとことん哀史、赦し続けられたことに他ならないからであります。(神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16)
従って、今日の福音のように、互に他者の罪を赦し続けることが「十字架の道」を歩むことなのであります。
私たちが、日々の生をふりかえってみるならば、それは、本来的自己(他者との共生)を喪失し、利己的生き方(他者との競争、疎外)に埋没していると言わざるを得ません。神はそんな私たちのありさまを「憐れに思って」(マタイ18:27。「はらわたがちぎれる想いがし」※1)私たちを赦されるのであります。今日のたとえでは、その神の愛を天文学的数量で表わしています。(1万タラントンとは、6千万デナリオン。これは普通の労働者の賃金の16万年分に当たる※2)また、パウロはそれを次のように言っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリストイエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23〜24)
神が、私たちをそんなにまで愛されるのは、私たちを自己に目覚めさせ、他者との共生に向わせるためであります。(しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に使えるようになりました。ローマ6:17〜18)
神は、私たちを「七の七十七倍までも」愛されているのであります。それに値しない私たちをかけがえのない存在として生かされるのであります。神の「七の七十七倍までも」の愛を、人々に分かつものとして「十字架の道」を歩みましょう。
1996年9月8日
マタイによる福音 (18:15〜20)
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イエスを信じて従う弟子たちの歩みは、十字架の道でありました。しかし、その困難な道のりの出発には、弟子たち一人一人が、イエスの招き、すなわち、神の限りない愛を受けて、見失っていた自己を取り戻すことができたことがあります。そして、この神の愛は一回限りのことではなく、耐えず、彼らをゆるし、受け入れ、励まし、導き続けるのであります。(わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。マタイ28:20)従って、私たちは弟子たちと共に、この神の愛において、十字架の道を歩むことができるのであります。
ところが、今日の福音のように、その途上で私たちは、兄弟と共に罪を置かしてしまいます。文脈(マタイ18章)から見てその罪とは、小さな者をつまずかせること、(マタイ18:6)、軽んじること(マタイ18:10)迷い出た小さな者を捜さないこと(マタイ18:14)であります。つまり、自己を「小さな者」と見ないで、むしろ、彼らをさげすみ、ファリサイ派的律法主義に通じる自己義認、傲慢であり、自分を低くしない(マタイ18:4)ことであります。それは、あたかも、自分こそが正しい十字架の道を歩み、他者を非難、軽蔑することであります。しかし、それは、神の愛を忘れた裏切る「罪」と呼ばれることにほかなりません。
十字架の道は、競争ではありません。むしろ、自己の無力さに神のわざが働いて初めて歩めるのであります。
さあ、私たちは互いの無力さを認め、受け入れ、共に歩むこと、そして、絶えず神の愛のうちにいることを覚えましょう。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
1996年9月1日
マタイによる福音 (16:21〜28)
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前回は、私たちは、イエスの「メシア(=救い主)」としての徴は十字架であり、十字架とは「疲れた者、重荷を負う者」との連帯の象徴であることを知りました。今日の福音では、私たちがその「メシア」であるイエスを信じ従うことは、一体どういうことなのかを教えています。
先週、学んだように、弟子たちにとっての救いは、自己中心的救いでありました。(cf.マタイ20.20:21)それは、今の境遇を変えることなく、物質的にも精神的にも満足を得たい、というものであります。(cf.マタイ19.16:24「金持ちの青年」)ところが、イエスは自己を守るどころか、与えられたであろう「この世の支配者」「王」になることを拒否し、それどころか「虐げられた人々、貧しい者たち」と連帯して生きたがため十字架の上で刑死したのであります。
それゆえ、このイエスに信じ従うということは、他者との連帯に生きるため自己放棄する、ということであります。しかし、私たちは、イエスのそのことばに躊躇してしまいます。時間も、労力も、お金も、現在の生活にひびかない程度は提供しますが、ちょっとでも負担になるならやめさせてもらいます、と。かように私たちは、マイホームという自分にとっての「全世界」を手に入れる、ないしは、手離さないために「自分の命」を失っているのであります。
そんな私たちへのイエスの十字架への招きのことばは、私たちの「今」のあり様をはっとふりかえらせ、真の「自分の命」を回復させる望みを与えてくださいます。余分なものを捨て他者との連帯に生きましょう。
1996年8月25日
マタイによる福音 (16:13〜20)
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イエスは、神から遣わされた当のユダヤ人(特に宗教的指導者たち)からは、排斥されましたが、他方彼らからは人間的扱いをされない異邦人カナンの女からは「メシア=(救い主)」
として受け入れられました。それでは、イエスの宣教旅行に同行し、彼の数々の力ある業を目撃した弟子たちは、イエスを何者だと思っていたのでありましょうか。
今日の福音では、イエスが弟子たちに尋ねています。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロは、弟子たちを代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。
しかし、多分に、彼の答えのメシアは、宗教的指導者的メシアであっただろうと想像されます。というのは、後で、ペトロはイエスが自分は十字架刑に処せられると言ったことを理解できず、
イエスから叱責されたことからわかります。(マタイ16:21〜23)更に、弟子たちがイエスの受難を前に逃げ出したことからも明らかであります。
それでは、何故、異邦人カナンの女はイエスを「メシア」として受け入れたのに、弟子たちは認められなかったのでありましょうか。イエスに従った弟子たちは中産階級(漁師、税吏、等)
でありました。それ故、彼らにとっての救いは、ローマ帝国支配からの政治的独立であり、また、地位・生活の向上、安定であり、精神的慰めという狭い自己中心的救いでありました。
一方カナンの女にとっての救いは、娘の病気という悲しみに「深い憐れみ」をもっと「手を伸ばして」生命の回復をすることでありました。まさに、彼女にとってイエスがその救いを
もたらした「メシア」でありました。
「メシア」とは「重荷を負う者、疲れ果てた人々」を休ませ、力を回復させ共にその重荷を荷う者なのであります。そして、十字架はその徴であり、彼らとの連帯の象徴であります。
従って、自己中心的救いを求める弟子たちには、十字架のイエスからは何のしるしも読みとれなかったのであります。しかし、後には、イエスの復活と出会い宣教し(まさに、人々との連帯)
に励んだとき、十字架に「メシア」の意味を読みとることができました。「このことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)
私たちも、自己中心的救いを求めているかぎり、イエスを「メシア」として信じられません。「苦しむ弱い人々」との連帯に生きるとき、イエスである「メシア」に出会えるのであります。
1996年8月18日
マタイによる福音 (15:21〜28)
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ユダヤ教ファリサイ派によれば、「神の憐れみ」(=救い)にあずかるためには、神の命じられた掟(=律法)を守ることによってでありました。しかし、イエスの時代において、その掟は神の御旨から離れ、重箱の隅を楊枝でほじくるようなものとなり、人間を生かすのではなく殺すことになってしまいました。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」(マタイ15:8〜9)
そのようなファリサイ派からすれば、イエスは「救い主」であるどころか律法を破る、守らない「神を冒涜する」者でしかありませんでした。
今日の福音では、ファリサイ派をはじめ、その当時の宗教指導者からは排斥されたイエスを「救い主」と受け入れた異邦人カナンの女(彼女こそ、前者から汚れた者、罪人と負のレッテルをはられた人でありました)の信仰が描かれています。
彼女の信仰は、娘の命を助けたいと、との必死の懇願でありました。
人は、それを「わらをもつかむ」苦しい時の神だのみ的、ご利益的信仰だと、非難するかもしれません。しかし、「神の憐れみ」はファリサイ派が考えるような人間側の条件に応じるものではありません。神から一方的に無条件に差し出されるものであります。私たちにできるのは、自己の無力さ、罪深さゆえに「神の憐れみ」を無心に求めることしかありません。しかも彼女の場合、その求めは異邦人として、ユダヤ人の差別を身に受ける決心の覚悟のものでありました。いたずらに、泣き喚いたのではありません。「らい病」の人が癒されたいがために、イエスの前に出て来たのも同様に死を賭したものでありました。(レビ13:45〜46を参照)
ご利益的信仰は、神を人間の思い通りに動かすのでありますが「神の憐れみ」を求める信仰は、「神の憐れみ」を隣人にもたらす使命と責任が与えられます。カナンの女はイエスから「神の憐れみ」を受けたものとして、同じく異邦人で子どもの病に苦しむ母親たちに「神の憐れみ」を伝える者となったでありましょう。私たちも、自己に頼らず、「神の憐れみ」の下にいるとき「小さき者」への愛に生きる者になることでありましょう。
1996年8月11日
マタイによる福音 (14:22〜33)
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イエスの宣教の働きは、「髪の憐れみ」を疲れた者・重荷を負う者にもたらし、彼らの人間性を回復させ、彼らが神の愛に立ち、「他者への愛」を生きる者にならしめることでありました。
さて、イエスのその働きは、限定されたごく小さなものでしかありません。彼の宣教活動は1年〜3年だとも言われています。福音書の記事にも、日々、路上で出会った病人のいやし、
飢えた群衆へのパンを配ったことなど数例しかありません。しかし、その取るに足りないイエスの働きを神の働きとして見たとき、30倍、60倍、100倍の実を結び、
鳥がその枝に巣を巣をつくるほどの大木になるのであります。
今日の福音では、ペトロが湖上を渡ることを失敗したのは、自分の足で歩けると錯覚し、実は、神が歩かせてくれるということを思わなかったからだと教えています。
私たちの今日の世界には、戦争、貧困、からエイズ、登校拒否など難問が山積されています。それらに対し、私たちキリスト者の多くは尻込みして、どうせやっても無駄だとか、
しょうがないからと言って、無関心を装い、私的生活の安定、精神的救いに懸命になっています。しかし、その姿は、ペトロが「信仰の薄い者」よと、
イエスに叱責された自己の力のみに頼る生き方ではないでしようか。イエスが神の力に信をおいたとき、パンは増え、湖上を歩くことができ、十字架上で命を捨てられたのであります。
私たちも底に沈みかけたとき、イエスは「手を伸ばして捕まえ」」引き上げてくださいます。引き上げられた私たちは再度山積された難問を少しずつ崩して行く働きに挑戦しましょう。
1996年8月4日
マタイによる福音 (14:13〜21)
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先週の天の国のたとえ(マタイ13:44〜52)で、私たちは「天の国」へ入る(=救い)ためには、自己の力によるのではなく、「神の憐れみ」にあずかるだけであることを学びました。
今日の福音の「五千人に食べ物を与える」(以下、五千人への供食と略)では、同様に、「神の憐れみ」が人間の思いを越えて働くことが示されています。
イエスは、飢え、病み、疲れた群衆への「深い憐れみ」により、彼らを「いやし、食物を与え」られます。
私たちは、日頃、その様な群衆を前にしたとき、あの人たちは、…だから、甘えさせてはいけない、駄目にしてしまう、自立の力を奪ってしまう。だから、手を出しすぎてはいけない。
自立へのプログラムを作り、それに従って関わって行くべきだ云々と、まず、状況分析、社会構造の理解をしようと、なかなか行動に移らないのであります。
彼らの飢えが根本的になくなるのか、という展望をもった行動ではありません。ただ、今日の彼らを「深く憐れまれ」今日の飢えをみたすために、今日の食べ物を与えたのであります。
イエスは、山上の説教の中で、天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)、と語り、
それ故、私たちに、自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(マタイ5:46)と言って、「敵を愛しなさい」と勧めています。
従って、イエスの「深い憐れみ」は天の父と同じく「敵への愛」を含む広い広いものなのであります。すべての人に分けへだてなくさんさんと降り注ぐ愛に人が気づいたとき、
人は変わらないでしょうか。
「五千人への供食」は、単にイエスが食べ物を与えたということではなく、今日出会ったその群衆一人一人が天の父から愛されたかけがえのない一人一人であることを
イエスが示されたことなのであります。
私たちの「弱い人々」へのかかわりも、人間的熟慮と同時にこの天の父の愛を今日伝えるものでありたい。
1996年7月28日
マタイによる福音 (13:44〜52)
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今日の福音には「天の国」(=救い)を求める人間の熱心な姿勢と、その姿勢で「天の国」に入ったとしても、
最後の裁きにおいて悪い者として退けられると語られています。
換言すれば、
ファリサイ派や律法学者のようにユダヤ教の律法を守ることの熱心さを競う
(「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの家の者よりもユダヤ教に徹し」(ガラテヤ2:14))ことによって、
自分の徳をつみ、天の国に入ろうとする人々がいます。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、
あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:20)
しかし、彼らは「あわれみよりもいけにえ」を好み、
「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにして」(マタイ23:23)
「疲れた者、重荷を負う者」に更に「背負いきれない重荷を」のせてしまいます。
従って、天の国へ入るその熱心さが「他者への愛」
ではなく、むしろ、「自己愛」、この世的評価を求めるがゆえに、最後の裁きにおいては、「悪い者」として排除されることになります。
私たちの日々の信仰が、「神のあわれみ」に立つのではなく「自分の力」に頼るとき、救いからは遠くなります。
かえって、私たちは「神のあわれみ」に生かされた者として感謝して「他者への愛」に生きたいと思うのであります。
1996年7月21日
マタイによる福音 (13:24〜43)
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イエスは、その宣教を開始する際、次のことばを語られました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)
神の国(マタイでは天の国)の近さを受け入れることは、神の愛の下に生きることであります。
したがって、生き方の変更(律法主義的生き方からの)、悔い改めるということであります。
しかし、私たちは、人間的評価を求めて、神の愛から離れることがたびたびあります。
それは、私たちが能力に頼っているからであります。
今日の福音の前半の「毒麦」のたとえでは、教会の現状を表わしています。
神の愛に生きようと教会共同体に集う私たちの中には「互に愛し合う」のではなく
「互に足を引っぱり合い」神の愛から引き離そうとする人々がいます。
彼らは、イエスが言うように「敵の仕業」(13:28)によるものであります。私たちは、(=終末)まで忍耐強く闘い抜きましょう。
私たちの無力さゆえに神の力が働くからであります。
「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)
後半の「からし種」と「パン種」のたとえは、まさに、それを明らかにします。からし種が鳥が巣を作るほどの大きさになるのは、
神の力ゆえであり、パン種がパンを膨らませるのも、神の働きのせいであります。
私たちは自己の力を誇るのではなく、神の前における無力さを誇りましょう。神の力が私たちを存分に働かせてくれるからであります。
1996年7月14日
マタイによる福音 (13:1〜23)
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「柔和で謙遜な者」イエスのもとで十分休養をとった私たちは、再び、「神の国」の宣教へと出かけて行きます。
イエスの「神の国」の宣教は、「弱り果て、打ちひしがれた」人々に「神の憐れみ」を実現することでありました。
例えば、イエスは、救うよりも人を罪人に定めるファリサイ派的硬直した安息日の掟に対し、
弟子たちの飢えを満たし(マタイ12:1〜14)片手のなえた人をいやすことにより、人々を解放しました。
イエスは、このようにして、人々を奴隷にし死体(しにたい)とする悪の力の追放により、「神の国」の到来を証ししました。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)
今日の福音の「種を蒔く人のたとえ」では、イエスが、このようにして「神の国」をこの世に実現していることに対し、
「理解せず、悔い改めない」(マタイ13:15)つまずき、誘惑される人々を戒めています。(マタイ12:38)なんとなれば、彼らは、「しるしを見せてください」とイエスに彼らの「メシア」像を求めているからであります。
私たちも、この世からの迫害に恐れたり、この世の富に誘惑されて別の「救い」「神の国」を求めがちであります。
しかし、それにも増して、神はイエスをとおして「神の国」「神のあわれみ」を私たちに蒔き続けられます。
この神の限りない私たちの働きかけに応えたいものであります。
1996年7月7日
マタイによる福音 (11:25〜30)
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イエスの福音では、「神の愛」に生きるとは、自己の能力、努力、勤勉によって自分を評価することを放棄し、
無償に愛された者として無償の「他者への愛に生きる」ということであります。マタイはこのことを次のように言い表しています。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)
しかし、このイエス・キリストの福音を告げる使命を委ねられた私たちは、この世からの迫害を受け、また、肉親との分裂を引き受ける結果となります。
まさに、「自分の十字架を担って」(マタイ10:38)イエスに従うことになります。
それは、生身の私たちにとっては、しんどいことであり、重荷であります。今日の福音では、そんな私たちをイエスは慰めるのであります。
神の愛は、無条件に私たちに贈られます。親が幼子を愛するように。従って、私たちが途中で何度も、十字架を放り投げても、
また、いく度も、この世的な評価に目がくらんだとしても、イエスのもとに来て、「神の愛」の中で、ゆっくり休みなさいとイエスは語られるのであります。
さあ、私たちは、幼子のように十分休養をとって、また、イエスの「軛」を負って「他者への愛」に出かけましょう。
1996年6月30日
マタイによる福音 (10:37〜42)
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イエスの弟子派遣は、「打ちひしがれ、弱り果てた」人々へ神の「あわれみ」を具体化するものでした。即ち、当時のユダヤ・パリサイ派により律法主義の業績主義的価値観から見捨てられた彼らが神の愛を受けるかけがえのない一人一人であることを証したのです。
しかし、他方では、既成の価値観に生きる人々からは反感を買い、秩序を乱す者として処罰を受けました。また、親子・兄弟間の分裂も起こしました。まさにその宣教は「平和ではなく剣」を投げ込むことになりました。
多くの人たちは、親子の間柄を大切にします。しかし、親子間の愛が、互いに成績次第の条件付きの愛だとしたら、互いに解放されない「命を失った」生を生きているのであります。
神の愛に生きることは、そのような親子の間柄(既成の価値観)にとどまって(自分の命を得ようとして)、
それを失うのではなく、解放され、生き生きと他者の奉仕に生きる、命を得ることであります。
イエスは、その優しい眼差しで神の愛に生きるため、この世の価値観に七転八倒している私たちを「自分の十字架を担って」と語りかけられます。
さあ、私たちはその重みに何度つぶされても、起き上がってイエスについて行きましょう。
1996年6月23日
マタイによる福音 (10:26〜33)
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私たちが弟子として、イエスから宣教へと使わされたところは、貧しく、病み、疲れた「群衆」のところでありました。
しかし、その場は、「狼の群れ」(マタイ10:16)の中であります。人々は、私たちを捕え、むち打ち、裁かれ、憎まれるところ、
まさに、イエスを十字架につけた場なのであります。そのような場では、私たちへ宣教の言葉は、弱々しく、迎合的、妥協的、つまり、
「火とを恐れ」たものになってしまいます。しかし、そんな私たちに、イエスは力強く警告するように「魂も体も地獄で滅ぼす」神を恐れなさいと語られます。
私たちは、イエスと出会う前、「人々を恐れ」た死体(しにたい)の生き方をしていました。成績、業績と、いつも他人と比較され、評価を受けてきました。
そして、財産を失い、能力が衰えたとき、人々は誰も相手にしないのであります。この世の「人々」は、結局、自己の利益のため、
他の人々を利用するだけなのであります。イエスは、そんな無一物の何物でもない私たちを、そのまま「魂も体も」愛される神の愛に生きるように招かれたのであります。
したがって、神を「恐れなさい」とは、私たちの生きる根本にとどまること。そこにしか私たちが「生きられない」ということ。
その愛を見失うな、ということであります。私たちは、神の愛を妨げようとする「人々」に対し、神の愛に固く立って宣教の氏名を果たして行きましょう。
1996年6月16日
マタイによる福音 (9:35〜10:8)
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ミサにおいて、イエスと出逢い、イエスの愛と一体化した私たちは、当然、イエスの如く生きることに招かれています。
ミサの終わりで、私たちは派遣への祝福を受け、ミサの場からこの世界へ出かけて行きます。それは、ちょうど、
イエスが弟子たちに「山上の説教」を話されてから、山を下りたようにであります。(マタイ8:1)
さて、今日の福音は、イエスが山を下りてからのことが要約報告されています。つまり、「教え、宣教、いやし」であります。
ところで、山から下りてイエスが向かったところは「飼い主のいない羊」「弱り果て、打ちひしがれている」群衆の中へでありました。
何故、イエスは、その時代の富める者、力ある者、健康な者のところへ行かなかったのでありましょうか。
教勢拡大のためには、後者の方がはるか有利にかかわらず、なんとなれば、それは父なる神のみ旨だったからであります。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ9:13、12:7)
従って、使徒が選ばれ派遣されるところは同じく貧しく病み、疲れた群衆の中へであります。
私たちはイエスが彼らを「深く憐れまれた」と同じく、彼らの境遇を、自分の痛みとし、
群衆と自らのいやしと解放の共働者になりたいと思うのであります。
1996年6月9日
ヨハネによる福音 (6:51〜58)
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今日は、聖体の祝日であります。私たちが週の初めの日曜日毎に、ミサへの参列、ことに、イエスの体と血をいただくことの意味を改ために黙想してみましょう。
先週、私たちは、父(神)が遣わされた御子イエスを、信じることによって、闇から光へ、悪から真理を行う者へ、
自己愛から他者への愛に[新たに生まれかわり]永遠の生命(神のもとに)を生きる者になりました。(ヨハネ3、16〜18)
したがって、週毎のミサへの参加は、この闇の世界のおいて、私たちが何を拠り所とし、どこへ向かい、しかも、
何の支えによって生きるのかを新たに確認するためであります。
言い替えれば、イエスにあって、イエスに向かって、
イエスによって生きることを宣言(告白)するのであります。
特に、イエスの体と血をいただくことは、私たちが、光から闇へ、
他者への愛から自己への愛に傾き、つまずきを繰り返す罪の奴隷である私たちへ、まさに、
ご自身を献げつくそうとするイエスの愛と一体化することであります。
私たちは、そのイエスの愛をいっぱいあびて他者への愛に向かいましょう。
1996年6月2日
ヨハネによる福音(3:16〜18)
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イエスからの聖霊の授与によって「新たに生まれかわった」弟子たちは、イエスの啓示の業(無償の愛)を継続する(宣教)ものとなりました。
今日の福音では、それを次のように言いあらわしています。
イエスが神から遣わされてこの世に来て、人間の本来あるべき姿、即ち、「互いに愛し合いなさい」という他者に開かれた姿「真理」(ヨハネ3.21)を教えるまで、私たちは闇の世の行い、つまり、自己閉鎖的に生きていました。
しかし、まさに、罪の奴隷(ヨハネ8.34)にとどまっていた私たちを救い、永遠の生命(神の下に生きる)を与えようとイエスをお遣わしになり、私たちを「無償に愛された」のでありました。
私たちは、その「無償の愛」に身を委ねるとき、「新たに生まれかわ」り、他者への愛に生きることができるのであります。
神の愛は、ひとえに、私たちが偽りの人生ではなく真実の永遠の人生を生きるようにとの招きに他なりません。
1996年5月26日「聖霊降臨の祝日」
ヨハネによる福音(20:19〜23)
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復活:昇天:聖霊の授与(降臨)は、ルカを除いて一つの出来事と考えられています。本日のヨハネ福音書でも、イエスの復活の弟子たちへの顕現と聖霊の授与が同時に行われています。
復活(=主の高挙)とは、イエスがこの世の支配者に打ち勝ち、人々を解放したことであります。そして、聖霊の授与は、弟子たちにそのイエスの啓示のわざを継続させるものであります。
言い換えるならば、イエスの「無償の愛」こそが主なる神のみ旨であり、この世の支配者への勝利であると明らかにされた私たちは、聖霊を授けられることによって、自己閉鎖的(自己中心的)状態から他者への開かれた(宣教、他者への愛)者になるのであります。
それは、まさに、聖霊の授与は、土から形づくられた人間が主なる神のその鼻に生命の息を吹き入れられて「生きる者」となり(創2:7)、人間の生きる目的を他者(女性)と共に生きて、果たすように招かれたごとく、私たちも「新しく生まれた者」(ヨハネ3:3)他者への愛に生きる者となるのである。
1996年5月19日
マタイによる福音(28:16〜20)
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復活信仰とは、イエスがゾンビのように生き返ったことを信じるのではなく、イエスこそが私たちを自己から他者へと生き直すように愛されたことを告白することであります。
イエスの十字架が「啓示のわざ=救いのわざの完成」と信じた弟子たちは、イエスの与えた掟を守るように招かれました。(5/12の福音)弟子たちはイエスの他者への「無私の愛」こそが、神から愛されること、父のもとへ帰る「道」であることを明らかにされたのであります。
マタイは、そのことを今日の福音で次のように言い表しています。「互いに愛し合いなさい」を「すべての人を弟子にして、イエスの命じたことをすべて守るように教えなさい」と。マタイにとって「イエスの命じたことすべて」は「もっとも小さい者にしたこと」つまり「無償の愛」に他なりません。
そして、「私はいつもあなたがたと共にいる」との言命により弱い弱い弟子たちをとことん愛し尽くすと励ましています。
私たちのキリスト者としてイエスから与えられた宣教命令は、まさに、この愛に突き動かされて「他者(ヒト)への愛」を生きることに他なりません。
1996年5月12日
ヨハネによる福音(14:15〜21)
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イエスの十字架は「啓示のわざ=救いのわざの完成」であり、それは父なる神がイエスを通して、その生命を捨ててまで私たちを愛されること「これ以上に大きな愛はない」(15:13)を示されたのであります。
この世の力に何度も倒される度に、私たちは、常にこの父と子の大きな愛にゆり起こされ、イエスの掟「互いに愛し合いなさい」(15:17)に招かれているのであります。「他者(ヒト)を愛しなさい」は、私たちには、なかなかできることではありません。しかし、イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」なのであります。と言うことは、「他者(ヒト)への愛」を、私たちが互いに励まし、許し、受け容れ、望み、信じ合うことにおいて行いなさいとイエスは言うのであります。しかも、その上に、イエスは父も、ご自身も、私たちを愛して下さり(14:21)、更に、父とご自身が「一緒に住む」(14:23)とまで言明しているのであります。
仲間から、イエスから、父から愛される私たちはよろこびをもって「他者(ヒト)への愛」をChallengeするのであります。
1996年5月5日
ヨハネによる福音(14:1〜12)
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「主よ、どこへ行かれるのですか」(14:36)
「どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(14:5)
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。」(14:8)
私たちは、これらの問いを、イエスの時代、福音記者ヨハネのとき、そして、今と幾度となく続けてきたことだろう。それは、あまりにも、「十字架」が重たすぎるので、避けたいのである。
しかし、そんな私たちに、イエスは、そのつど、
「心を騒がせるな、神のわたしを信じなさい」(14:1)
と問い返して下さる。
「十字架」こそ栄光であり、「十字架」の上に子と一つとなった父がおられると。
私たちは、また、つまずくだろう。しかし、イエスのこの招きを私たちの「道」として、また、踏み出す希望が与えられる。
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