‘96.3「解放のため」の実践神学講座より

アロイジオ相馬信夫司教


解放とは
 私が頂いたテーマが解放の為の神学講座です解放のことをどう考えたらいいか英語で言うとリベレイション(Liberation)これにはいろんな意味があると思います今のカトリックにとっては解放の神学というのは非常に新しい考え方と言われていますそこで解放の神学の基になっているのは一体何かそういうことからいうと解放の神学がある意味においてマルキシズムの影響を受けているというのもある意味で本当だと思いますしかし今教会で言う解放はマルキシズムの解放とどう違うのかということも一つの大きな問題でしょう
 私は先月中南米メキシコとガテマラへ行って来ました私達が現代の問題に関わり合っていく時何処へ行ってもそこで見たことは非常に解放ということにつながりますつまり虐げられた人をどの様にして解放するかという問題本当の問題はそこだと思います理念的な解放というよりも本当に虐げられた人をその虐げから解き放つ日本語で言うと解放解き放つという事が非常に大切なことだと思いますこれはやはりキリスト教とも根本的に合致してキリスト教も一つのリベレイションの信仰だと言ってもいいでしょうというのは人間を最も束縛する根本的なものは罪があるということですつまり善を無視した行為という事は罪なわけですその中には神の思し召しと言いますか神の意志に反して何かをすることが正に罪ですその罪に捉えられているという状態があるこれはカトリックの原罪という教義の奥にあるものだと思いますただ我々は皆善意で生きて来ているのだが時々間違ってしまったという事ではなくて人間の歴史人間存在の中に神の意図と反するものが定着しているのですというのかつまり罪に捕らわれた人間或いは人類ということでしょうキリストの救いというのは非常に大事なことだと思いますが或る人が罪を許して頂くという事だけではない罪の状態人類全体が陥っている罪の状態から解き放つという意味があるのでキリスト教でも解放という事をリベレイションというのはまさに古い言葉では悪魔からの解放といってもいいでしょうがこれは余り現代人に通じないので使いませんがそういう意味があるわけです
 解放というのは何か夏座敷というのは開放された座敷ですね風通しが良くて涼しいそういう開放という感じもある訳です清々しているだから言葉というのは非常に難しくてそういう訳を作ると一人歩きしていってしまいます解放の神学というのは面倒くさいことを全部止めてぱっと開け放しなんだというと解放というのはもう無制限というか無規範定まりを無くしての状態が解放なんだという感じもするわけです解放という言葉は広く使われていますそれで私達の中で解放というのは特に政治的には抑圧的な政治体制から人々を解き放つという感じがありますその意味で極端に言うと君主制というのは王様がぎゅっと国を抑えているんだその王様を無くして解放しようという感じもありますですから解放という言葉はうっかり使えないなと思っています解放とはいろんなのがあるので夏座敷の開放もあれば休みの時は普段の業務からも解放されて昼寝が幾らでも出来るとかハイキングにも行けるそういう意味で普段の仕事の義務感から解放されるなど日本の解放には色々な意味があります
 しかしここで言っている解放というのはそういう事も含まれていると思いますが解放の為の神学というのは我々が本当の意味で自由になる本当の意味で自由をもっているという事を獲得しなければならないということだと思いますキリスト教では何と言っても人間の自由を束縛するのは罪です罪に捕らわれた人間というのは結局説法論を唱えれば自分が欲しない事を悪を行って自分が欲している良い事も行えないああ惨めな人間かなという事をパウロは言うわけですよねつまり何かに捕らわれている罪の絆に捕らわれているから自分はそういう事はしたくないいつも人には親切をしどんな人をも許して上げて仲良くしようと思っていてもあいつに行き合ったらいじめてやろうこういう事になってくるのですそれは罪に捕らわれていることですだからそういう意味で解放というのは解放の為の神学という題を頂いてなかなか難しいと思いました


解放の神学とは罪からの解放
 グティエレスというブラジルのペルーの神父さんですがお会いした事があります日本に来た事もありますとても良い方で素朴な人です最近岩波からカトリックの本が出たのはグティエレス神父さんの「解放の神学」Theology of Liberationですこの本の日本語訳は関神父さんと上智の山田神父さんの共訳ですちょっと難しい本ですが非常に良い本だと思いますですから解放の為の神学という意味で主催者がどんな考えで解放の為と言っているか聞いたわけではないから分かりませんが解放という言葉と現代のカトリックの情勢と比べるとそこにはいろんな意味があるとおもいますと同時に本当の意味の深いキリスト教的な解放とはまず罪からの解放でしょうそれは非常に大事なことでそれを抜きにした解放では勝手気ままにしたほうが気楽で良いうるさい事を言う先生は追っ払ってと学校ではそうなってしまいますそれは解放の神学の本当の意味ではないと思います
 解放の神学について私は少しは本を読みましたがそれほど専門的にやったことがないので分かりませんが解放の神学というのは何と言っても南米中南米の人達労働者農民がいわゆる植民地主義の影響が大いに残っている大地主主義とそれにプラス最近は大企業・多国籍企業も入ってきてそれが最も貧乏な人達を搾取しているそういう事に対してキリスト者としてどう考えるかということから始まっていると思いますそういう点で貧困の問題と深く関わっていますそういう貧困をどう考えるのか
 一つはキリスト教というのはイエス様も貧しかったから貧しくて良いじゃないか我慢しなさいそういう言い方もありますがしかし貧困単なる貧困というより極貧という言葉のほうが良いと思いますがつまり人間として生きる事が出来ない程貧しくさせられている人そういう人をそういう状態をどう考えるのかという事から解放の神学が出て来たと思います
 僕の部屋に置いてある唯一の像はペルーから持ってきたイエス様の像十字架の像ですそれは素焼きのまずい像ですからカバンの中に入れて日本に着いて見たら5つに割れていました象徴的でなかなか良い像です最初大きいから要らないと言ったのですが向こうの人が是非持って行ってくれというので持って帰ってきたものですそれがバラバラになったのでもったいないと思ってボンドで付けて見たところ全く原形に復したわけですその像とはどんな物かと言うと手足が凄く大きいごつごつした手十字架にかかった釘がかかった足もそんな風にがつっとしているそれでいてキリスト様はどっちかというとやせ細って顔は凄く柔和なんですあんなに柔和な十字架像を見た事はない実に柔和な十字架手足は苦しめられながらしかし顔は柔和で人の苦しみを見それを許すという実に良く出来ていますあれはペルー以外では手に入らないと思います大好きなので今でも僕の机の上に乗っていますこれを見るとイエス様は優しい顔と同時に手足が大きい何故かと言うとペルーの農民だと言うんですよ農民は貧しいから裸足で働いているから手と足が発達してごつごつして大きいわけですペルーの苦しみをキリストが背負っているという意味だと僕に呉れた人が言いましたなかなか意味があると思いますつまりペルーの苦しみを植民地主義の結果であってけしからんと言い腹立てているだけでなくてその中にキリストがいるということをペルーの神学信者は感じているわけです手足が大きくなる程働いても貧しさは克服できないのですそのペルーの人達の貧しさというのは本当に現代における第3世界の貧しさの象徴だと思いますそれに対して南米はカトリックの国ですから非常に信仰が篤いそれをどういう風に考えたらいいのでしょうか
 もう一つあります解放の神学が現れたもう一つの理由はそういう事に対して教会は本気になって本質的に考えていないのではないかということですやはりペルーの教会は大きくて立派で金ぴかなのですそれはやはり腹が立つのでしょうそういう点でグテイエレスという神父さんが考えたのはいやここにこそキリスト教の本当の存在理由があるこの苦しみの真っただ中でしかもキリストは今も生きているといういわゆる受肉の思想ですねそういうものもあるんだということです私もつくづくキリスト教というのは何なんだろうとこの頃よく考えますキリスト教というのは面白い事に非常に歴史的で歴史の事実の上に立っている理論の上ではないのです理論は後で事実は神の子が人間になって最も貧しい者生まれる時は人間の家でなく馬小屋で生まれ死ぬ時はベットの上ではなくて木に吊るされて死んでしまったそういうことで神は人間を救ったのだそれがキリスト教です


「金冠の十字架 」金芝河氏の場合
 風刺の文学者金芝河の金冠のキリストという劇があります名古屋の名古屋劇団というところで上演しましたその時呼ばれて難しいから分からない金冠のキリストって何を言っているのか説明して下さいと言われて楽屋へ行って説明したわけです何故金冠のキリストなのかキリストは金ぴかの十字架にかかったわけでもない金ぴかの冠をかぶったわけでもないだけどもそういう金冠にしちゃった現代の金持ちのキリスト者すごく皮肉な劇なんですと痛烈な金芝河というカトリックの詩人が放った一つの批判です彼はそういう事をやり過ぎたので結局共産主義者だということで死刑の判決を受けたわけですそれは僕らも非常に印象が深いのです死刑の判決を受けたカトリックですからそこの神父は地司教というんですがその司教も捕えられました共産主義は殺してもいいというのが朴時代の韓国の右傾方向だから殺しちゃうわけですが朴独裁かたっぱしから神父が逮捕されました中に司教も入っていた地司教です金芝河が捕まったのはあまりに痛烈にそういう独裁者政府為政者金持ちを詩や小説で徹底的にやっつけたためですそこで彼を捕まえてそれを庇った地司教を捕まえて地司教は7ケ月ぐらい牢屋にいて出てきたわけです金芝河は牢屋にいて結局最後の判決は死刑だったこれは大変だというので日本の有志も彼をなんとかして救おうというので世界中の人に神学者哲学者に300通くらいアンケートを送って金芝河という人は本当に共産主義者でしょうかというアンケート出したんですよそしたら全部少なくともヨーロッパからはヨーロッパではああいうのは共産主義とは言わないという返事がたくさん来てそれを全部コピーして裁判長と司法法務大臣に送りました結局段々減刑されて今は家へ帰っておられますが悲壮な人です彼は拷問を受けて「私は共産主義者です」とサインしてしまいました証拠は残っているサインしたからそれで彼は判決の前だと思いますが良心宣言というものを書いたのです実はあれは拷問の極致で書かされたのであってあれは私の本意ではないという事を5枚くらいの紙にびっしり書いて送って来ました日本の有志にですそれをみて僕は吃驚しましたそういうのを日本に送った人も発覚すれば捕まるし誰が送ったのかいろいろ聞いて見たところ何と70歳くらいの神父さんだそうです俺はもう70年生きたから死んでも良いから俺の名前で送れよと言ったらしいのですその神父さん捕まったかどうか知りませんがそういう風に国家に不利な事を国民に知らせる事は恐ろしい罪になったのです当時の韓国ではそれで「良心宣言」で自分は拷問の結果確かにサインしたがあれは自分の本意では全然ないと知らせたわけです
 僕は拷問の本を読んだ事がありますアムネステイが出している「現代の拷問」という本です面白いと言うより血腥い本です現代の拷問はすごく進歩しているそうです電気あらゆる物を使うそれで全然自分がした事のない殺人を自分がしましたと言わせる事は今の拷問の技術では難しい事ではないのです普通の人はみんなひっかかってしまうそれを利用して幼稚園の生徒が先生の言う事何でも鵜呑みにするように鵜呑みにさせる技術もある一つの例を上げてありましたが物凄い拷問をして拷問している本人がもう止めておけやめとけタバコでも飲めよと言ってホッとさせて上手にやっているというのですその人の言う事は幼稚園の先生のいう事聞くように聞いちゃうと言います心理的にはいいいですと言えばタバコが飲めるという条件反射になってしまうそういう事がその本に書いてありました世界で拷問しない国は殆どないと書いてありましたただ拷問するというのではなしに拷問を法の執行の組織的部分にしている国が殆どで白状させる為には拷問使って白状させてそして裁判にかけるというつまり法廷手続きの中に入っている国が大部分だというのですその時で嬉しかったことは日本は不思議にそういう例は一つも出て来なかったことですその本全部読みましたがもっと面白いのはその本に濱尾さんにも読みなさいと渡したのですが2・3日過ぎて厭だあんなものは気持ち悪くていやだから読みたくないから返すよと言って返して来たんです濱尾司教さんのこと気の優しい人だなと思いましたそういう凄い本ですがその中で拷問というのはあるテクニックなのですとかマインド・コントロールです薬で言われるままになってしまうそうなるように仕組んでいくわけです電気ショックもあるし拷問もあるしいじめるしいじめておいていちばん悪い奴が親切そうに可哀想痛いだろうって慰めの言葉と共にタバコを飲ましたりするその人が天使みたいに見えてくるらしい
 そういう術策に落ちて金芝河も自分は共産主義であるという調書にサインしてる訳です実はあれは拷問の結果で私の本心と全然違うと言うために「良心宣言」というものを獄中で書いて韓国の牢獄というのはそういう人の味方も沢山いるらしく悪い奴は凄く悪いんだが刑務所の下のほうに居る人があれは可哀想だ助けてやろうと思っている人もいるし味方もいるわけですそれで結局いつの間にか減刑になって10年くらいで出て来ましたそのいわゆる拷問の結果白状する白状という事もその前の段階を見ないと本当の白状かどうか分からないいわゆるマインド・コントロールされてある人のサジェッツションには無意識に従ってしまうような状態に追い込まれるその頃から韓国では金芝河の例に従って捕まる前に良心宣言を書いておく人もでてきました拷問を受けたら何言うか分からない気が弱いから痛いからしかしそれを私の心と思ってくれるなという意味です良心宣言を書く事が一時はやったんだそうです金芝河はまさに圧政者権力者がやっている事への一つの反抗最後の抵抗として書いた後から良心宣言を持ってきてそれをまた日本で訳して公開されたわけですやはり彼は詩人であり小説家だから持つてくればよかったけれどそれが凄い名文です
 権力者がそこ迄悪い事して人を自分の思うままに操るということが現代の非常に恐ろしい事実としてあります麻薬も使うし大変恐ろしいそういう事から解放するという意味も解放の神学はある訳です今のは韓国の例ですが


第三世界と国際資本―いまなお収奪される人々―
 中米の例は植民地時代の宗主国スペインとポルトガルの二つの国がヨーロッパ全盛時代にあそこを全部占領したわけですその人達はそこの人の事は考えずそこからどれだけ利益を取るかという事しか考えないで政治をしていたわけです他人の子で自分の子でないそういう感じの中で社会が出来てそれで虐げられた人は徹底的に虐げられるペルーから貰ってきた十字架のように手も足も使い果たしてごつごつになるそういう人の中にこそキリストは居るという新しい解放の神学があるわけです解放の神学というのはそういう点でただ労働問題の解決の為に神学者が言ってるというのではなくて非常に深いものがあります最近腹が立ったことはある教会で有名な人が共産主義は潰れたからもう解放の神学は要らなくなったねと言ったのですしかしそれは非常に浅い見方だと思います解放の神学というのは共産主義に対してもそこからの解放という事も入っています人間の解放ですから共産主義というのは共産主義が何故生まれたかというと初期の資本主義に於いてその当時の法律は社会法が無かったため資本家が金を儲けるためには何でもするという状態でしたそういう資本主義の下に於ける資本家の横暴といろんな酷い事が起こってそれに対する対抗としてマルクスやレーニンという人が労働者が団結してそれと戦わなくては駄目だと言い出したのが共産主義の基です戦う方法としてはいわゆる逆に憎悪資本家に対する憎悪とか為政者に対する憎悪へと駆り立てて暴力を使ってもそういう世界はひっくり返そうというのが共産主義の根本思想と言っても良いと思いますその基には勿論労働者も平等である労働者をいじめる事はけしからんというそういう正しい反応もありますがもう一つは資本家が物を財産を作って私有権個人の所有権を持っているそれは人から侵されない法律ではそれを守るそういう事は無制限に認めるからもの凄く大きな富を持つ人があるとその為に周りの人は全部貧しくなってしまうそういう事に対して共産主義は富を持つ事まで禁止しようとしますソ連はは私有財産を認めなかった資本主義社会の対症療法資本主義社会の害を無くするためには共産主義だと決めて暴力革命そして私有財産を認めないことになったわけですしかし今度は共産党は或意味で前の為政者と同じく独裁的に国を治めてあらゆる者に全部言う事を聞かせるようにした共産主義というのは確かに資本主義の弊害を正すために起こったけれども使った薬が治す代わりに飲んだ人を殺してしまったわけですというのが共産主義の非常に簡単な説明だと思いますソ連ではそれを使って50年経ったところでこんな事ではやりきれないといってロシアは共産主義を全部止めたわけです怒ったわけです共産主義を押しつけてきた政府に対して反対したのが人間の自由があると言ったゴルバチョフですもう一つ非常に恐ろしいのは資本家の財産を否定すると同時に労働者の権利も否定してしまったことです労働者は党の言う事を聞かなければならないと言って労働者自身の独立性を奪った共産主義というのはそういう点で資本主義の弊害に対する対症薬として自らを主張してそれを飲むと薬が薬害で変な例えですがその社会を悪くしてしまったというのがロシアの例なのでしょう人間の尊厳と人間の自由を持つというこれは非常に大事なことです
 共産主義はまた自分の家族を守る為や自分の働きからでた財産を持って自分の家族を養っていくという家庭生活とそれにまつわる家長の責任という様な事もなくなって全部国家がやるということである時期共産党は子供の食事まで全部国でやったわけです親にやらせなかった私情が入っちゃいけないとだから資本主義は確かに悪い事がある事実ある今でもあるがそれへの薬として提出された共産主義と称する特効薬として売り出して見たらそれが今や人が死んでしまう簡単に言うとそういう事があるわけです
 私が言いたいのは共産主義の影響を受けた解放の神学は共産党が駄目になったからもう要らないんだという人を非常に浅はかだと思いますというのは共産主義が起こってきた理由・原因は未だにあるからですもとは資本家の横暴で初期の資本家というのは個人でした大きな会社を持っていても社長一人しかし今は国です国の力でよその国の資源をどんどん吸い上げてそしてある国は富んでいくしある国は益々悪くなるそういう点で資本主義の害毒はむしろ大きくなってきているのです資本主義がもう変形して国家資本主義になっていて資本主義の害毒が何処でも表れていますつまり最貧国が益々貧しくなって立ち上がる事が出来なくなっていますみんな持って行ってしまう
 私が中南米に行ったりあるいは東南アジアへ行ってつくづく思うのは今はいわゆる植民地ではなくなったけれどしかし植民地時代に行った政治をそのまま現地の金持ちや権力者が継承していますだからさとうきびの会社を見て見ると地主は砂糖をフィリピン人に提供する為に作らせているのではなくてそれを売って儲ける為に作らせていますだからそれを作る人は機械の如くさとうきびの栽培に従事しているのですフィリピンの人は自分の食べる物を作れないんですフィリピンの地主というのは大体都会マニラにいるマニラに住んでいて自分の地所を支配してるのは管理者あるいは仲買者と称する人が全部管理してそれから吸い上げて自分はお金を貰うわけですだから本当の地主は土地を見た事もありませんある時農学の先生と話していて質問したのですフィリピンの農村って不思議ですね堆肥小屋が全然ないですねその人が言うには堆肥を作るというのは自分の土地を良くする為で地主は土地を見た事がないから土地に対する愛着がないし管理人は自分の土地でないからそこで胡瓜や茄子を作ると持って行ってしまう全部持って行かれるから農民も自分がそこで何かしようとする気がないから堆肥を作らないということです土地に対する愛情というのは農業の基礎基本なんですね土地を耕して良い土地にして豊かな収穫を上げようというのが農業の基本ですねそいう事はないですよと言われて吃驚しましたその先生はフィリピンの大学の農学部を出て土地をいじる人は一人も居ませんと言いました泥いじる事は軽蔑されているともじゃ農学部出て何になるんですかと聞いたところ役人になるというのですフィリピンに於ける貧しい人とその働きフィリピンだけではない韓国も同じ中南米も同じことですフィリピンでの小作料は大体法律では2割ですが実際では5割ということで作物2つに分けてこっちは地主こっちは百姓というふうだそうですこっちはそれで自分が食べなくてはならないのだがそれを売って肥料も耕運機も買わなくてはならない結果は赤字だとよく言われますフィリピン農業は常に赤字です日本も農業機械買う為に借金するとよくいわれますが不法地主がどんどん吸い上げて行くしそれプラス世界の多国籍企業がどんどん入ってきて農産物を作らせてそれを買いあげ売って儲けている第3世界のひどい状況にはなんと言ってもアグリビシネス農業会社ね世界の非常に大きい世界農業会社というのは食糧の値段のコントロールもしています日本でお米が余ってもよそへ安く上げられないお米の値段下がるからと断られてしまう人が飢えても値段下がらないようにそういうアグリビシネスと大地主の影響で農業も工業も結局第3世界を絞り上げられるだけ絞りあげているのです


貧しさからの解放こそ世界の急務
 そういう意味で資本主義の欠陥は人はいくらでも儲けて良い儲ける為に何でもしてよいという出発点があるわけで共産主義がなくなったからといってこれらは無くならないのですそういう意味では共産主義は今も残っている共産主義が良い薬だったら資本主義の悪の原因を治してしまうが駄目な薬なので原因は全然治していません
 そういう意味では今もリベレイション貧しさからの解放は国家的・世界的レベルで今本気で問題になっていると思います地主とか金持ちは国際的に連合して世界銀行とかIMFそういう金融を通して支配していますIMFは嫌われています吃驚するくらいです日本ではあれがお金をだしてくれれば国は生き返るといいますがすごい条件があるらしいです投資して貰うためにああしろこうしろとそれを全部すると投資して貰う国の方が干上がってしまうのですそこで働いている農業会社とか多国籍企業がうまくいくようにお金を貸してくれる言いたい事は一つです共産主義が無くなったから解放の神学は要らなくなったんじゃないかという人は共産主義が起こった原因を忘れている訳です共産主義はあれは唯物論で階級主義で暴力革命だからいかんと教会の人達は言いますそこで今共産主義がなくなったらあとは良い世界になるかというとそうではありません起こした原因は残っているのですもっと悪くなったと言えるでしょう昔の資本主義は個人でしたが国が国ぐるみ或いは国を超えた会社のいくら金を儲けても良いという原則のもとに起こっている社会現象ではないかと思いますもう一つ言いたいのは自由主義といいますが自由主義社会で何が残っているかというと結局人の本当の自由という事については無視して搾取して労働者の子供たちは学校へ行けなくしてしまういわゆる自由社会が大事にしてるものはいくら金を儲けても良いという自由だけを大事にしているのです金儲けに対して政府も国も文句を言わせません特にアメリカあたりは資本家のいくら金を儲けても良いという自由がいちばん大事な自由になっている人の意見とかの自由じゃなくて
 自由の中には何処に住むとか何処で結婚するとかなにを買うとかそれは自由だ自由を守るわけですね世界人権宣言という有名な日本の憲法のお手本みたいなものもありますけれども国連で出した1984年に出した世界人権宣言というのはとても良い凄い文章だと思いますそれにも書いてあるようにいろんな自由を守らなくてはいけないんだけれどいわゆる資本主義的自由いくら金を儲けても良い金は集まると益々増えるという自由は小さいお金はどんどん減る小さな財産はすぐ無くなるということでもありますちょっとした社会の変動で大きい金は雪だるま的にふえ世界のお金が少数のブロックに集まっているそれをあまり集まりすぎると危ないからといって調整しているのがIMFであり世界通貨基金GATTといいますねG7などは大きな金持ちの間の調整みたいな事をしているのですが根本的に貧しい人との調整は全然やっていません

「解放の神学」の目指すもの―ひとりひとりは神の似姿―
 そういう意味で「解放の神学」の大事さは何かというと人は全て平等で一人一人を大事にしましょうというキリスト教的一人一人は神の似姿だということに基づいてそういう経済的問題に真面目に取り組もうとしていると思っていいのではないでしょうか少し簡単過ぎますかお金はいくら儲けてもそれは自由だから絶対に保護さるべきだという事は実は資本主義社会も社会主義の影響を受けて少しは税などで緩和してますが根本的にはそうです国際的な資本主義には法律が掛からない多国籍企業というのはどういうのかというと世界中で働いているでしょう本社は日本にあっても働きについては何処の国とも無関係に働いちゃうから法律で抑えられません
 それではどうしたらいいのかという事をカトリックの神学の教えはどう考えているのでしょうかいちばん凄いと思うのは1891年100年前にレオ13世という教皇が偉い人で予言者みたいな人だと思っていますあの共産主義のいちばん盛んな時に共産主義は結局人を不幸にするという事をはっきり言っています今から読んでみると驚きますレールン・ノヴァールム新しい時代新しい状況とでも言いますか「レールン・ノヴァールム」を書いたレオ13世が予言者的に共産主義の欠陥これは決して人を幸福にしないという事を非常に断定的におっしゃったのです一般に当時の資本家は労働者を圧迫して奴隷の如く扱っていたと書いているんですそういう社会を直すために出した共産主義をこれはまた酷い事になって労働者の権利まで奪ってしまい自分たちのやりたい事をやりだすであろうこれは絶対にいけないと言っていますレールン・ノヴァールムというのを一度お読みになったらいいと思います今読むと良く分かります何故かというと共産主義が潰れたわけですから中国とか北朝鮮とか残ってますけど大学でマルクス経済学教えた先生いま何してるんでしょうか駄目な経済学教えても駄目だからレールン・ノヴァールムでは人間性に反してるという事を非常におっしゃっているつまり財産というものは各家庭が円満に行く為に人間が自分の働きの結果を自分で所有してそれを通して子供たちを養い家庭を養いできればわが子を養うというその努力というのは非常に大事な事で人間社会の中心であるそういう事を認めない私有財産を認めないという事は社会として必ず破綻するという事をいっています凄いと思いましたそういう点で私達はいわゆる私有財産の弊害の大きさばっかり言って私有財産のもつ大事な意味をとらえていないのではないでしょうか自分の家と財産を作る為に努力していくというそういう点では人間の大事な本性に比べてここでは社会主義と言う言葉を使っていますが完全に唯物的なそして革命思想の社会主義は本来人間に反しているということをずばっと仰った丁度100年前ですから


「ももちゃん便り」目次に戻る