野宿生活者と共に生きる T

福信館炊き出し(カトリック名古屋地区)の場合
今後の課題と展望

福信館炊き出し部 竹谷 基


《はじめに》
  1. 福音宣教としての野宿生活者との関わり

 イエス・キリストは私たちを「十字架の道」という福音宣教に招いています。その「十字架の道」は「隣人を自分のように愛せよ」に要約されます。野宿生活者(ホームレス)は我が国において偏見により「怠け者」として見えない人々として、社会から排除隔離され、非人間的状況のもと「生命と人権」を奪われています。
 野宿生活者の存在は、自己の生き方を問われています。即ち、経済的利益を受けている私たちは彼らの犠牲の上にそれを受けているからであります。彼らとの共生は利己的生き方からの回心を迫られます。従って、彼らの「生命と人権」の回復を手助けすることは、「隣人愛」の具体的実践となるのではないかと考えます。

  • これまでの野宿生活者との関わり

 名古屋における野宿生活者(以下、野宿者と略)への支援活動は、1975年に始まりました。当初その活動は、野宿者の凍死餓死者を一人も出さないようにと「炊き出し」や、名古屋市の対労働者福祉行政を改善させて行くことが中心でありました。しかし、野宿者たちの「飯より仕事をくれ」という声に野宿者が人間らしく生きられるためには、野宿者を生み出し使い捨てにする建設資本業界(野宿者の大半の前職は建設日雇労働者が占める)、また、それを維持する日本社会の構造を変革する必要に気づかされたのでありました。
 その後、現役日雇労動者自身は日雇労動組合を結成し、賃金未払い、労災もみ消し等、それまで労務者は泣き寝入りするしかなかった建設会社の暴力支配に労動者の権利として闘うようになりました。同時に、支援側は「炊き出し」を野宿者が可哀想で困った人たちだから恩恵的に上から与えるのではなく、また、野宿者の方も「炊き出し」や支援の「世話」に頼り甘えるのではなく、両者が互いに自立し偏見や差別から解放され、共に立ちあがって「野宿をしなくてもすむ社会・炊き出しを必要としない世界」を作るための【出会いの場】として「炊き出しを」位置付けたのでありました。しかし、「炊き出し」を自立と解放のための【出会いの場】と位置付けこれまで続けてきましたが、「共に」への道は険しく、対処療法に追われ,野宿者との出会い・対話にじっくり取り組めず、未だ,炊き出しは与えることだけに終わっていて、支援者主導、野宿者は頼り過ぎになっているのが現状であります。
 バブル経済崩壊後の長引く不況、経済の低成長下、リストラによる人員整理、産業空洞化の続く中、大量失業者が予想され、その結果、野宿者の増加、高齢化し路上死者の増えることは必至であります。一方、国の財政悪化は福祉政策を個人の自助努力へと後退しています。このようななか、私たちの「炊き出し」をはじめ野宿生活者への支援はどうあるべきか、問わざるを得なくなりました。


「ももちゃん便り」目次に戻る