典礼による学び(4)

神言会 修練長市瀬 英昭


 ミサの二大構成要素は「神のことば」と「キリストのパン」です。教会の公文書はこの重要性を認識しつつ、信者は「神のことばの食卓」と「キリストのパンの食卓」という「二つの食卓」で養われるべきことを繰り返し強調しています。そこで、聖書の朗読とそれへの応答が中心となる「ことばの典礼」の部分に入る前に、ことばの働き、意味、力といった事がらについてごく簡単に見ておきたいと思います。
 ことばによって「その人」と出会う、ということ。先日、哲学者の上田閑照さんのお話を聞く機会がありました。先生は日本の代表的な哲学者である西田幾多郎についての本を何冊か書いておられるのですが、そういうこともあってか、ときどき「あなたは西田幾多郎に実際に会ったことがありますか」と尋ねられるそうです。そういうとき上田さんは困ってしまうと言います。
 物理的にあるいは身体的に、つまり普通の意味では会ったことはないので「会ったことはない」と答えるそうですが、そう言いきってしまうと嘘になるような気がする。
 かといって「会った」というのも事実ではないし、ということで妙な気分になる、と言っておられました。余談でなされたこの話を私は大変興味深く聞きました。上田さんは西田さんのお弟子さんである西谷啓治さんなどを通して、また西田さん自身の本によって、実際には会ったことのない「西田幾多郎」に「出会った」のだと思われます。生前の西田幾多郎に会った人はたくさんいたでしょう。そのすべての人たちが西田自身と出会った、分かり合ったとは言えないのに、直接会ったことのない上田さんは、西田さんが残したことば、お弟子さんたちが語ることばによって、彼自身に「出会った」と言えるのではないでしょうか。上田さんは、生前の西田に会ったことがないからかえって、彼の本質的な部分、その信念、生き方、その息吹に「触れ」得たのでしょう。つまり、私たちは、ことばを通して「その人」に触れるのです。
「聖書を知らないことはキリストを知らないこと」と言われています。これが単なる標語に終わることなく、聖書のことばによって、私たちの一人一人がキリストと触れ合い、その息吹によって生かされることが大切です。「恐れなくともよい、安心していなさい」「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの罪は赦された」「重荷を負って苦労している人は私のところに来なさい」「さあ、立ちあがって歩きなさい」「私は世の終わりまであたたちと一緒だ!」などなど。私たちの心にまっすぐに飛び込んでくるキリストのことばは私たちに読まれ、聞かれ、息を吹き返すのを待っているのです。


「ももちゃん便り」目次に戻る