戦後五〇年と私 その2

司会 竹谷 基


前号より続き

〈はい、ありがとうございました。山ちゃん、お父さんのあとを継いでペンキ屋になりました。それでペンキ屋にどれくらいいたの。〉

10年くらいおったかな。その10年間の間に家ばかりでなくてね、応援にいったりね、手伝ってくれと言われて行った。

〈どう、その時儲かった?〉

私は儲からない。家でやっていると給料としてくれない。小遣いだけ。それで面白くないんで、…寝る所と飯はある。

〈ペンキ屋は何人くらいでやっていたの?〉

50人。

〈50人! 50人おったの、大企業じゃない。〉

山口町のM屋があるでしょう。今そこがやっている。

兄貴と気が合わないでしょう。義理の兄貴だから。それで兄貴と一緒にやっていると喧嘩ばかりする。で、親父がもうお前はここを出てな自分でやった方がいいと、気が合わなくて喧嘩ばかりするので。現場行っちゃ喧嘩する。

〈で、独立するの?〉

独立というのかな自分でやっていけと。ペンキ屋でも何でもええで、そこで間違って横に行っちゃった。

〈お父さんにいわれたの?出て行けと。〉

出て行けとは言われなかったけれど、自分で何かやった方がいいと。兄貴と気が合わないから。

〈可愛そうに。だってね、別にペンキ屋をやる気は最初からなかったでしょ〉

なかったけれど、親父がやっているからやって。兄貴は仕事は真面目だけれど、ちょっとお金に対してルーズなもので。仕事先でね、お金だけとって現場行っても仕事やらんでしょ。で、向こうの人が怒ってくる。それを親父が聞いているんでね。で、わしも聞いているもんで

〈社長はお父さんがやっているわけ?〉

そう親父。それでもって、その兄貴がうちの姉さんと一緒になってしまった。小僧の時からおった。

〈それで何か自分で仕事を見つけてやりなさいと〉

ペンキ屋やったし、ペンキ屋やめて他の仕事をやった。それが続かない。K製菓とかね。ラムネ菓子を作っている。あそこやったことがある。

〈サラリーマンみたいの?〉

工員みたいの。

〈ふーん、それで住込みで?家から通って?〉

家から通って。

〈ま、家にはおれたわけだ。仕事だけやめて。〉

それで1か月くらいしか続かないもんで、親父も怒ってしまって、それじゃまたもう一遍やれと。

〈またペンキ屋やって。何でどうして続かなかったの?〉

従業員と合わないから。今までずっと家でやっていたので、ちょっとした事で、団体の初めてでしょ。そういうあれがあった。

〈今まではね自分のところだからね。〉

うん、甘えがあったのね。やっぱ家でやっているから仕事がいやなら寝とっても何もすうっといっちゃうからね。

〈起きろなんて言われなかった?〉

―― 山ちゃんの場合は上から命令されるのがいやだったんだろう。 ――

〈みんなでさあ一緒にやりましょうってね、やるのがいやだった。それでこういう日雇い仕事になったのはいつ頃から?〉

25、6才頃からな。

〈で、最初笹島に来たわけ?〉

名古屋駅の手配師の人に初めてというか。

〈なんで名古屋駅にいたの?〉

家出して、おもしろくなかったからね。それで手配師につかまった。

〈家出といっても、もう25、6才、年なんだろう。〉

家出という事もないけれどね、家にいてもおもしろくないわけ。

〈ん、家におりたくない。それで一銭も持たずに、一銭もなかったでしょ。それで名古屋駅にきたら手配師にひっ掛かった。〉

そこから始まった。

〈最初どんな仕事をしたんですか?〉

土方。建築の。昔、I組というのがあった、あれが初めて。

〈その手配師がI組に連れていったわけ? そこはいい所だった?〉

あまりよくない。

――あんまり今でも評判よくない。

――今もあるの?

――あそこだろうM区にある。今、名前変えた。

〈最初そこへ行った時、いくらもらったの?〉

あの頃は安かったよ。5千円くらい。

〈飯つき?〉

飯は引かれるわけ。

〈いまから20年くらい前でしょう。5千円。〉

その時が初めての飯場の生活。こんなもんかなと思っていた。

〈飯場の生活で一番つらかったのは?〉

辛かったのは自由が利かないということ。自分のすきなことができんもん。今までは家にいたから。やりたい事やれないし、

〈朝から現場に行って仕事をして、それで終わったら戻って来て〉

土方の人ばかりいるんで、最初は怖かった。酒のんだり、

〈で、その飯場からどうしたの?〉

やめた。

〈何日いたの?〉

1日か2日間。

―― それあれだろう ―― それでトンコ、飯場から逃げたわけ?

逃げた。怖いで。

〈その後は?〉

その後はぶらぶら遊んでおった。また手配師につかまっていろいろ、それでまた家に戻って、まだ親父がおったから。

〈金がなくなったら家にもどって〉

痩せてぼろぼろになって家に帰った。

〈飯場からトンコし始めた時期からもう野宿していたんだ?〉

野宿をしたこともある。姉さんが3番目の姉さんが結婚してM町の方におったんで親父がM町へ行けと言って、M町へ行って姉さんと暮らした。そこで住所を変えてペンキ屋をした。

〈ペンキ屋へ勤めたの?〉

そうそう。アパートを借りてもらって。30過ぎてから。

〈そこにはどのくらいいたの?〉

5、6年いたよ。

〈今から10年くらい前だね。どうですか?〉

その頃は9千円くらい貰っていたよ。

〈生活はどうだった?苦しかった?〉

苦しくはない。ただ自分の遊ぶお金はなかったね。食うだけ。部屋代とかそんなもの。

〈おもしろい?〉

…いいことは覚えているけれど、悪いことはすぐ忘れてしまう。

俺たち免許取った時も辛かったもの。昼働いて夜は夜間学校だから。

(大川さん)

〈なんかその頃おもしろいことありませんでしたか?〉

ないな。

〈なんにもない。〉

その頃、お見合いの話もあったよね。

〈ほー、M町の頃。ん、M町へ行ってから。〉

そこのもう一人の嫁さんのところの養子になれって。だけどいやだった。

〈なんでいやだったの?〉

あんまり好きじゃなかったから。

〈お待たせしました、おかちゃん。〉

僕も今ずっと考えるけれどあれだね。23年間やっとたけどやっぱり辛いこともあったしね。

〈そりゃあるわね。〉

一番嬉しかったのはやはりボイラの免許を取って、一人前になって給料が上がった時だった。その間は昼間働いて夜は4年間夜間学校でしょう。その勉強のための。

〈ふーん。それは学校に通ったの?〉

ボイラの免許を取れる学校がある。そこでやるわけ。そこで4年間卒業するでしょ、卒業するとボイラの免許をくれるわけ。明日からやってもいいですという許可書をくれるわけ。その時は一番嬉しかった。辛かったと言うのはやっぱり先輩が仕事終わって先輩が飯を食っているでしょ。あと残るわね、僕が。新米だから。先輩の仕事を盗む、その時に、残って練習しているわけですわ、僕が。そうすると、社長は見ているわけね、この子は自分で覚えようという気持ちで練習しているんだなって言っていたです。先輩から呼ばれてちょっと来いって、あの当時スリッパ、このくらいので6発くらい殴られた。なにくそと思った。殴ってやろうかと思ったけれど、やっぱりそれは口では言ったんだけれど手を出してはいけないと思って。先輩がやっぱり早く一人前になってくれという気持ちで教えてくれているんだなとおもって。

〈最初は覚えるんだものね、技術を。〉

やっぱり先輩の仕事をよく見て、先輩の技術を盗めということ。僕もその会社におった時に、お得意さんの会社のN陶器の、お得意さんの取り引き先だった。僕が注文を受けにいく、そこまでは良かったんだけれど、そこの息子が、自分がなんというの親の金庫か らあの当時50万だわね、今の金にしたら大きいですわ。それを持ってキャバレーへ行った。半年くらい帰って来なかった。岡山で警察へ捕まっているわけよ。そうしたら岡山から電話がかかってきて、そうしたら僕の名前を語ちゃってN陶器の会社の金を50万 円僕がとったって。警察に呼ばれて2年か臭い飯を食わされたわね。

〈ふーん。そんな事もあるの。ふーん。〉

結局やり直し裁判で、結局僕が勝ちましたけれどね。

〈それでどうしたの、2年間の。つぐのいは、なにかもらった?〉

もらいましたけれどね。

〈それは多治見にいた頃の話しでしょ。〉

はい。結婚する直前までいっていたのだけれど、その息子のお蔭で全部パァになってしまった。 多治見におった時、集団就職で入ってくるでしょ。わざわざ旗持って迎えに行くんですよね。

〈ふーん。やっぱり九州が多いでしょ、来るのは。そうでもない?〉

九州で一番多いのは福岡、佐賀、熊本、一番遠い所では東北、青森とか北海道とかね。沖縄からも何人か来ていましたけれどね。覚えているのは九州の人間が多いですけれど。地元でやっているという人は少ない出すよね。中でも辛抱できん、集団就職で入ってきて一番長い奴で1か月、短い奴でだいたい4日かね。仕事やりたくないと言ってやめてしまう。

〈それで帰ってしまうの?〉

はい。今考えるとあの当時の辛さと嬉しさと半々だね。今になると自分を試すというか、勉強になったけれどね。

〈はい。〉

僕その時23年間いた時、辛くてやめてやろうかなと思った事は何遍もある。

〈そりゃあるわな。〉

一応駅まで見送って土産から小遣いまでもらっているわけでしょう。学校の先生とか友達とかから。一人前になるまで帰って来ないと約束したでしょ。それで会社やめて帰ったら、お前、なんだあれだけ口をたたいてやめて帰って来たかと言われて、せいぜい長く 勤めて1年か2年ね。勤めてそこが駄目なら別の会社へ勤めようかと思った。それがなに、ずるずる考えてみたら会社が倒産したときに考えてみたら23年です。23年いるとどうしても亡くなった親の事を思い出す。

〈じゃ23年もいたのなら、あれじゃない年金、社会保険なんてあったでしょ。それはどうなったの。〉

パァです。結局なんというのか、博打に使ってしまったから。 学校時代が一番辛かったね、親がいなかったから。馬鹿にされたりね、お前は施設の子だとかね、遠足の時、修学旅行、運動会の時が一番辛いですわ。家族が弁当を持って見に来ているでしょ。こっちは自分で弁当を作ってね、隅の方で食っているでしょ。先生が そんな隅で食わんでこっちの方で食えと言われたけれど、それもいやだったですよ。あの当時中学校の時と会社で働いている時と無口であった、全然しゃべらなかった。起きているのか寝ているのか分からんくらい。今になってこうやってしゃべれるようになった けれど。

〈んーん。〉

ボイラの免許取って明日からやってくださいと言われた時、あの嬉しさはなかったですよね。その金は生きとったころの社長が半分くらい出してくれとったから。

〈だいぶ違った?〉

はい。ボイラを取ってやり出して、半年で4万くらいになったからね。いまだにやろうと思えばできますからね。昔と違って今はもう改良されとるでしょ。やり方が違うわね。結局、できるけれどやっぱり一から出直すわけでしょ。

〈そうだよな。やめてからもう20年くらいたつのでしょ。〉

次号へ続く


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