余は如何にして基督信徒になりしか

柄沢 利和


 私は、以前公務員だったことがあります。躁鬱病のため精神病院に何度か入退院を繰返し、その後遺症で仕事の継続が無理になったた め退職したのですが、今でも返す返す残念なことだったと思っています。そして、無職になってしまった わけですが、その後、周りの人々の私に対する目が随分変わったことに気づきました。
 それまで、住んでいた寮を出なければならず、とりあえず住む場所を探す必要があったので、アパート紹介所へ行ったのですが、無職 の30代独身男性だと知ると、「あなたに紹介できるところはありません」と断わられました。
 この瞬間、私が社会的に認められた人間ではなくなったことを知りました。考えてみれば、無理もありません。家賃を払わなくなる可 能性の高い人に、貸してくれる方が不思議です。
 その後、自分にできる仕事をとさがして、転職を繰返し、何とか自営で版下製作業を始めることができ、それなりに社会でも認められ るようになったような気がしてきました。
 その頃から、お見合いの話を持ってきて下さる善意の方も幾人かみえましたが、履歴書に年収とか書くだんになると、その度に自分の 結婚に対する準備が欠如していることを痛感させられました。それは、相手が普通くらいのレベルを期待 するだろうということよりも、自分自身の中で、家庭を築いて行くのには、絶対的に財政状況が不足していることを知っているからです 。
 私は、好んでこのような人生を送っているのではなく、できれば、サラリーマンを続けたかったし、その努力を人一倍してきたつもり だったのですが、それはそれで、そういう運命だったのだと諦めています。
 そして、それは事実であるわけですから、受け入れて行かなければなりません。できることをしていくしかないわけです。しかし、そ のできることというのは大概のところ、社会の一員として認められることからスタートできるわけで、スタートラインにもなかなか立て ないという現実があります。
 もちろん、私たちには様々な法律によって生きる権利は与えられているのですが、人々の気持ちの中に存在する「あの人は一人前」つ まり「社会的人間としての資格」について、それがないと判断されると、その資格を取り戻すことは極めて困難です。
 ちょっと脱線しますが、こんな私たちでも人を好きになる気持ちはあって、かえって手には入りにくいから、むしろ強いものがあるよ うです。精神病院で経験したことですが、男女の恋愛に対する憧れは人間の生きる理由の最も強いもので、それは、自分が相手にとって 意味のある存在になることによって、生きる意味が生じるわけです。
 ホームレスのおじさんたちや、ダルクの皆も、口には出さないけど、「社会に生きる人としての資格が認められない」そういう隠され た気持ちが、もっとも辛いものだと思います。
 ところで、皆さんは「レ・ミゼラブル」という本を読んだことがあるでしょうか? ミリエル司教は、銀の皿を盗んだジャン・バル・ ジャンの罪を、嘘を言ってかばいます。
 あれは、文学の中でだからできることと考える人がいるとしたならば、その人の気持ちの中では、私は、社会的無資格者として存在し ているのです。
 ところで、私自身がそういうことを思わないかというと、実はそういう気持ちも同時に持ちつつ生きています。それは、事実で否定し ようがありません。
 私たちはそういった弱さをたくさん持ち、そんな自分自身に嫌気がさしながら生きていると思います。そんな私たちにミリエル司教は 希望を与えてくれたのです。つまり、キリストはそんな私たちの人生を意味のあるものと絶対的に認める存在であるわけです。
 「捨てる神あれば、拾う神あり」キリスト教は、最終廃品回収(改宗)教であると言えましょう。「私を人として認めてくれた」それ が、私がキリスト教に改宗した理由です。


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