「インマヌエル」

福信館炊き出しの会 代表 竹谷 基


1,インマヌエル(我らと共にいます神)

 クリスマスの前に、必ず、読まれる聖書の箇所だ。キリスト教ではイエスが「神の子」として乙女マリアから生まれた、と言う教義の説明のため引用される。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(マタイ1・23)つまり、紀元前7世紀に活躍したイザヤの言葉だが、それがイエスの『処女降誕』をまさに予言している、と。

 しかし、元来、このイザヤの言葉は約700年後のイエス誕生を予言しているのではなく、北イスラエル王国とアラムの同盟軍が南のユダ王国へ攻め上って来たとき、王アハズにイザヤは「恐れるな、落ち着いて、静かにしていなさい。」とに進言した。にもかかわらず、アハズは慌てふためき選りに選って、後に北イスラエルを滅ぼすアッシリア帝国に援軍を頼んだ。その愚行にイザヤはもはやアハズ王に期待するのを無理とし、次の王への期待を表した言葉と言われている。(参照、イザヤ7章)また、周知のようにイザヤ書の「おとめ」は若い女性を指し、マタイは70人訳(紀元前3世紀〜1世紀に成立した旧約聖書ヘブライ語からのギリシャ語訳)の「処女、乙女」を引用している。マタイがイエスの『処女降誕』の教義に合わせるにはまことに相応しかったのだろう。

2,神は『インマヌエル』か

 そもそも、私たちは神を信じるとか、神に祈るとかと言うけれど、その対象である神を何と考えているのか。神社にお参りして、賽銭箱にチャリンと小銭を投げ込んで祈ることと言えば、五穀豊穣、家内安全、無病息災、受験合格で、万が一適えられれば御礼と感謝参りのように、御利益をもたらす対象と考えてないか。

 つまり、神とは人間の必要を満たす、便利で都合の良い方と見ている。だから、御利益がなければ、神を取り替えても構わない。今日はお稲荷さん、明日は天神様と。言うなれば、神は自動販売機だ、手に入れたい物によって神を替え、相応の金銭を入れて、御利益を得る便利な器械となっている。

 キリスト教でもイエスやマリア、その他聖人に同じ役割をおしつけ、災いや病気から守ってくれと祈っているのではないか。「クリストファー」と言う伝説上の聖者がいる。キリストを担いで川を渡った人だが、私も彼に担がれて人生を歩ければそりゃあ楽だなと思ったものだ。

 しかし、そのような依存的信仰、神やイエスを拝んでさえいれば、人生の危機にスーパーマンの如くイエスが介入し、助けてくれると受け身的な信仰で良いのか。もしそうであるなら、病気や地震、津波、戦争、原発事故等の不条理な災難にぶつかった時、「何故、神は助けてくれないのか。神はどこにいたのか」と天に唾を吐き、もっと御利益のある神々に鞍替えするのが落ちだ。既成の大宗教では救われないからと新興宗教が次から次生まれてくるのも納得できる。あるいは、健康食品や健康器具、医薬品などの新製品に飛びつくのと変わらない。更に、イエスは信従する者に自分の命を捨てよ、持ち物を全て売り払え、十字架を負え、と厳しく命じる。何ということか、イエスを信じれば、この世的幸いを得られると思っていたのに、唖然とするばかり。

 今、あらためて、神、イエスへの信仰は何か、また、神、イエスが『インマヌエル』であるとは何か考えてみたい。

3,マタイの『インマヌエル』

 さて、イエスがイザヤの予言した人か、ともかく、マタイは神の子イエスを『インマヌエル(我らと共にいます神)』であると主張する。なぜなら、福音書を冒頭と末尾の『インマヌエル』で括っているから。

 では、マタイにとってインマヌエルであるイエスとは何を指しているのか。『山上の説教』のイエスがしたように、弟子たちにあり方、生き方を提示する者で、イエスが神の言葉に生きたと同じく、弟子たちはイエスに従って生きる者となるのだ。(わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(参照 マタイ7、17〜27)

 また、イエスの復活後、弟子たちを宣教に派遣する際、次のように言った「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに…洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(参照 マタイ28・18〜20)

 「命じておいたこと」は無論、山上の説教で説いたこと。これらから、イエスが「共にいられる」とは人のそばにいつもひっついていて、苦しい時の神頼み的に助けてくれる、人には非常に都合の良いスーパーマンではなく、まさに、「主よ、主よ」と頼られる者ではないということではないか。

 むしろ、人が様々な問題に、生老病死の苦しみぶつかったとき、どうしたら良いのかを考えるための「言葉」、「生き方の指針」としての方と言うこと。つまり、イエスとは人が依存し、任せ、指示待ちにさせる方ではなく、自分で考え決定し行動する自律した人の土台のこと。賢い人が家を建てる「岩」なのだ。あるいは、旧約聖書の神観、即ち、神が与えたと言う神の言葉、生き方、歩き方を指す律法を「道の光」、「灯」として讃えている、ことと同じ。(あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。詩編119・105)

 人はイエスにおんぶに抱っこされて生きることはできない。自分の足で歩かねばならない。そのためには、確かな言葉(これこそ「神」と呼ばれること。人間、被造物の不確かさ、有限性と比較される)に自分の人生を照らし、足元を明るくする言葉、指針を必要とする。出エジプト記の荒野の旅は「自律への旅」と言われる。道中の諸困難に対処するために神がモーセに言葉、律法を与えたとされるのは、その意味なのだ。(主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。詩編23・3b、4)

 イエスがインマヌエル、「共にいられる神」とは人が死や不条理の災難に出会ったとき、イエスが代わって答えてくれるのではなく、それをどう受け止め、克服して行けるのか、不平等に出会ったカインのように怒りにまかせてアベルを殺害してしまうのか、自分で答えるための「岩」、「光」、「灯」、「杖」、「鞭」としての言葉、指針なのだ。

4,「神の前で、と共に、なしに生きる」

 この言葉は独の神学者D・ボンヘッファーのだ。彼はヒットラー暗殺計画に加わったため死刑にされた人だ。ここで言う「神」は宗教の神(バアル)で、キリスト教信仰の「神」ではない、と言われているが、私は次のように解釈する、「絶対者、真理の前で、真理への指針と共に、つまり、イエスに導かれ、神頼み、依存するのではなく自律して生きること。」

 ボンヘッファーは神からの問いかけ、「何処にいるのか」ヒットラーの侵略戦争、大量虐殺の下で「何をしたのか」ヒットラー暗殺への加担と言う形をもって自分自身の責任で応えたのではないか。

 よくキリスト教会から「何故、ホームレスへの炊き出しをするのか」と非難される。しかし、インマヌエルである神、イエスに従おうとする教会はイエス自身が学んだ聖書を開くならば、苦難にある人々との連帯に自ずと導かれる。(参照:レビ記19)さあ、いっしょに、聖書の学びを深めて行きしましょう。


戻る