「聖書の人間観」

福信館炊き出しの会 代表 竹谷 基


 毎年、木枯らしが吹き始めると、炊き出しを利用しに並んで待っている人たちを前に、これから寒くなって行く時期に、これらの人々はどうやって過ごして行くのだろう。暖房もあって温い衣類を纏って腹一杯食べている私にとって寒さは辛いのに、何もない彼・彼女たちにはどんなだろう。私には到底、野宿生活は耐えられない、もし、私が野宿生活をしなければならなくなったら、と思うとゾッとする。今、ここに並んでいる人たちが、安心して家で寝られ、食べられる当たり前の生活が出来るように、手伝いたいと思い炊き出しを続け30年も経ってしまった。

 さて、先日の新聞に『第三の敗戦』と言うエッセイを読んだ。それによると、現在の日本は第二次世界大戦、バブル崩壊に次ぐ第3の敗戦となった、それは安心と信頼の敗戦、支えの喪失、と意味でとのこと。「私の身に何があっても社会は助けてくれない。全ては自己責任とされ、失敗した人間は見捨てられ、使い捨てとなる。そんな社会は社会と呼べるのか。それは心の焼け野原の風景ではないのか。そう思えたのである。」(2014、11・7中日新聞、上田紀行『第三の敗戦 上』)無縁社会と言われて久しい、東日本大震災以後、「絆」とか「つながり」が叫ばれたが、原発事故避難民や原発設置の地元、基地問題の沖縄、野宿生活を強いられた人々、障害者、滞日外国人、等々との「絆」は如何ばかりであろうか、自省せざるを得ない。

 イエスは共生を目指した。ヨハネ福音書の「互いに愛し合いなさい。」の言葉は有名だ。当時、ユダヤ教では律法を基準に守れる人と守れない人を分け、前者を善人、後者を悪人と呼び、前者は後者を差別・抑圧し、後者は重荷に喘ぎ苦しんでいた。イエスは彼らの「重荷を軽く」するために来たと、マタイ福音書には書かれている。つまり、イエスはもう律法で人を裁くのはやめよう、ゆるし合おう。むしろ、律法は一人一人の生を全うさせるため、充実するためにこそあるのだ。そのために何をしなければならないか考えよう、と呼びかけ、生きられたのであった。

 イエスがそう考えられたのは、幼少から徹底的に教えられた旧約聖書に示されているからだ。ご存知の創世記、アダムとイヴ、ノアの箱船等の物語が書かれているところ、初めの11章までは聖書の「人間論」と言われている。まず、神が天地を創造されて六日目に人間を創った、と言う。即ち、神の似姿に人を創り、男と女に創造されたとある。(創1・27)また、人間創造の別バージョンでは、神が人を創り、一人でいるのは良くないと、もう一人「彼に合う助ける者」を創った、とある。(創2・18)「助ける者」と訳され、助手のイメージになるが原意はパートナーの意、両者は対等であることを意味する。

 明らかなように、聖書では人間とは独りで生きられる者ではなく、他者と生きる、人間集団・社会をつくり生きる者である、と考えている。次の所謂、「失楽園」の物語、そこでは、人間の「自由」と何かを描いている。つまり、人には自由があるが、何でも好き勝手にしてはいけない、ある枠組み、取り決めの範囲でしか行使できない、と。聖書ではその枠を神の言葉とする。人は神の言葉を指針として自由を行使するのだ、と。

 人は生きるとき、「共生」と言う神の言葉を導きとし、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」(申15・7,8)との神の言葉を指針として歩んで行くのだ。イエスはれを生きたのであった。

 後を歩むキリスト者である私たちは「支え、支えられる」社会をめざしたい。

 どうか、厳冬を野宿で過ごすしかない人々へのご理解とご支援を下さいますようお願いします。

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