●ホームレスの存在を認め、支援しようなどと今まで一度も考えたことなどありませんでした。私も世間のほとんどの人と同様に、ホームレスなんてただの怠け者の成れの果てで、汚らしいし、くさいし、何をしてくるか分からないので怖しく、目障りな存在だとしか思っていませんでした。過去形で書いてはみたものの、私のこうした考えは今回竹谷さんのお話を聞いただけでは、そう簡単には変わっていません。しかし、お話を聞いた日の帰り道に見かけたホームレスに対して、前までのような根拠のない嫌悪感が少し薄らぎ、同じ人として見ることができたような気がしました。

 それは、ホームレスについて考える以前の問題として、「人間とは何か?」という疑問に対する聖書の教えに基づいた一つの答え・・「人間は神の似像である」ということを今回の講義で聞いたためだと思います。「自分が幸いに生きていること、自分が生かされているということ」に気がつけば、おのずと他人も大切にできるというお話には、ただただ納得するばかりでした。現在私たちの価値判断は確かに、業績・成果・財産など、その人が何を持っているのか?という点ばかりに重点が置かれています。その人がその人として存在しているということ自体を認め、尊重すべきであることをいつの間に忘れてしまったのか?そうでなければ、社会が成り立たなくなることも気づかずに生活していたことに今回思いあたりました。

 今回ホームレスについての話を聞いたことを機に、日本のホームレスについて少し調べてみました。(引用ホームページhttp://ja.wikipedia.org/wiki/)なぜホームレスになるのか?:住居の喪失の状況は、個人によって様々な事情があるが、失業または事業の失敗・倒産などにより経済破綻することで、住居を最終的に失ってしまう。女性や子供の場合は受け入れ施設もあるが、男性の場合は「働くことが可能」と福祉担当者に判断されるうちは生活保護を受けられないため、路上生活・野宿生活を余儀なくされる傾向が強い。

 課題と対策:ホームレスになる直前の職業は、日雇い労働を代表とする、もともと不安定な就労形態であった者が多く、建設不況などにより日雇い労働市場が縮小した現在、高齢化の問題も抱え仕事に就くのに困難が伴っており、職業訓練や新たな雇用の創出などの対策が求められる。

 働くことを希望しているホームレスが多いので就労による自立が最優先課題であるが、住居・住民票のないことが就職に不利となり、また、アパートなどを借りる際の保証人がいないことが住居を得るうえで障害となっている。ホームレス問題の改善のためには、行政の支援策のみならず企業や国民の理解協力が求められる。


●今回講義をしてくださった竹谷基さんのお話によると、現在ホームレスと呼ばれる人々の数は愛知県内で約2000人、全国ではおよそ3万人にものぼるという。この数はこれからどう変動していくのであろうか。

 私の今まで持っていたホームレスの人々のイメージは、駅や公園に暮らしているおじさんたちという程度のものであった。また、幼い頃は彼らが何をされているのか気になり、失礼にもじろじろと見てしまっていたが、最近では彼らを見かけても気に留めることもなくなっていた。時に、ホームレスの人が、行政側から彼らの生活している場所を立ち退くよう求められているという報道や、暴力事件の被害者になったというニュースを耳にし、やりきれない思いをすることもあったが、彼らのこと、彼らに対する援助のことを日常的に考えることはこれまでなかった。

 竹谷さんの講義内容は、まず人間の本質・人間の幸福の話から始まった。そこで、印象的だったことは、E.フロムの「存在の様式」という話だった。これは、to have(所有すること)と to be(ありのまま)という二つの概念があり、どちらに意義を見出すか、またどちらを重視するのが本当の幸福であるか、というような話であった気がする。そしてこのことは、物質的な豊かさと精神的な豊かさ、どちらを重視するかということにつながるのではないだろうか。現代人はto have に意識が行きがちであるように思う。そして、物質的に困窮した人をみて、ともすればその人自身の価値まで高くないように感じてしまう。このことが、大きな誤解でありto beを重視してこそ人間らしい生き方ができるということを、この話から学んだ。

 そこで、今まであまり知らなかったためホームレスの人々に対し誤解を持っていたかもしれないと感じ、彼らのことを調べてみた。一般的にホームレスは大都市に多く、地域では冬でも暖かい西日本に暮らす人が多い。中でも、大阪は宗教団体や反差別のボランティア組織など炊き出しや援助を行う団体が数多く存在するため、それらを受けるためホームレスが集まりやすいという。他には、世界規模で見てみると、発展途上国と先進国ではホームレスの形態が異なることがわかった。前者は家族単位で生活を行っている場合が多く、後者は単身世帯であることが多いということだ。

 さらに、ホームレスの生活様式は「定住型」と「移動型」に分かれている。公園や駅など公共の場にダンボールやブルーシートの家を作って暮らしているのが「定住型」、昼間は仕事をしたり公共の施設を転々としたりして、夜になると雨風を防ぐことのできる場所を探して睡眠をとるのが「移動型」であるとのことであるが、竹谷さんのお話によると必ずしも夜に睡眠をとる人ばかりではないという。というのは、寝ているところを襲われる危険性があること、寝るには向かないくらいに冷え込むことなどの理由のため、昼に睡眠をとる人もいるからである。そんな苦労のことなど全く知らなかった。

 また、ホームレスになる理由には大きく2通りあり、職を失って住むところもないためホームレス生活を余儀なくされる場合と、自由な生活を求めて自ら好んでホームレスになる場合である。なお、住居を失うと、女性の場合は女性団体のシェルターとしての民間の駆け込み寺が、子どもには児童福祉施設などが、受け入れ施設として用意されているが、男性の場合は福祉担当者に働くことができるとみなされれば生活保護を受けることができず、路上生活・野宿生活を強いられホームレスになる人が多いという。

 2002年8月に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が施行され、この法律の第14条の規定により、ホームレスの自立の支援等に関する2003年2月には厚生労働省主導で「ホームレスの実態に関する全国調査」が行われた。ホームレス支援の制度が整い、全国3万人のホームレスの人々のひとりでも多くの人に支援が及ぶように願う。

参考HP
http://ia.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%82%B9
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/03/h0326-5.html


●今回は名古屋で、ホームレスの人々に食料の炊き出しの援助活動を行っている講師の方や、有志団体の方々からお話を聞くことができた。最初は、いきなり「人間の本質とは何か」なんていう哲学的な話ばかりで面食らったが、後々この話が重要なことを示唆していることに気がついた。その話の中に、E・フロムの存在の様式の話が出てきた。これは簡潔に言えば、人間が何に対して人間の価値観を置いているのか、という話で大まかに分けると、学位・業績・財産などを所有すること、「to have」に対して価値を見出す人と、その人のありのまま、つまり「to be」に対して価値を見出す人のツーパターンがあるということだ。講師の方が言うには、この「to have」にしか価値を見出せない人々が、現在ホームレスの人に危害を加えたり、時には死に至らしめることがあるそうだ。また、ホームレスの人を迫害する背景には、「ホームレスは怠惰であり、迷惑な存在である」といった世間一般の見方があるとも述べられた。近頃、二十歳にも満たない子供による「ホームレス狩り」が何かとニュースになるが、中には「ホームレスを排除すれば、みんなのためになる」といったホームレスの人に暴行を加えて追い払うことが、あたかも正義の行為でもあるかのように思っている子供もいるそうである。ホームレスの人がよく昼間に公園などで寝ているのも、そういった夜の襲撃を恐れているからだとも講師の方の話にあった。夜にうかうか寝ていると、いつ何時火炎瓶を投げつけられて殺されるかわからない、なんていう状況を想像しただけでぞっとする。

 正直に言うと、僕は別にホームレスの人のことを気の毒だと同情したことは一度も無い。だからといって、その人のことを「ホームレスだから」という理由で軽蔑したこともないと思う。家がないのは、何か不幸なことがあったか、もしくは努力が足りなかったか。昔よく行った市の科学館のそばで、ホームレスの人を見てそんなことを思ったことがある。平たく言えば「僕には関係ない」という感想だった。そういう点を考えてみれば、先に述べた、「ホームレス狩り」の少年たちのほうがよっぽど、深い関係を結んでいるとも思える。もっともそれは、正常な頭の中では唾棄されるべき関係だが。一方で、お話を聞かせてくれた有志団体の人々は、ホームレスの人々のために炊き出しを行うなどの利他活動を行っている。こちらは、かなり良好な関係が結ばれていると思われる。そういう関係がふとしたことから、ホームレスの人の自立につながったり、支援する人にとっても、何かプラスになることがあるのかもしれない。

 人がホームレスになる理由は人それぞれである。家が火事になったのかもしれないし自らそういう生き方を選んだ男もいる。同様に、彼らに対して抱く感情もまた人それぞれなのだと思う。僕のように無関心な人間もいれば、その境遇に同情できる人もいる、嫌悪する人もいる。そう思うことは仕方のないことなのかもしれないが、それを、暴力や殺人行為につなげることは絶対に許されることではない。もし僕が、この先ホームレスの人とかかわりを持つことがあったなら、互いのためになるような関係を結びたいと思う。


●名古屋の街でよく問題にされるホームレス。実際に名古屋の街を歩いていると、公園に異様な住居が立ち並んでいたり、駅の構内で寝ている人を見たりすることがある。やはり自分の街より彼らは多くいる。また、大量の空き缶を集めて自転車で走っていく姿を見ることもある。そのような光景を見るたびに正直不快な印象を抱いたし、彼らに対して同情したり、逆に「怠け者だ」と見下してしまう自分がいた。

 ホームレスの存在は小さい頃から知っていた。しかし、やはり自分の中で遠い存在であった。遠い存在というのは、自分からそのような人たちに対して距離を置き、知ろうとしなかったからだ。

 インターネットで調べてみても、彼らに対する世間の目は厳しい。実際のホームレスの生活を自分自身も知っているわけではないので、一概に一般の人の報告を真に受けてはいけないと思うが、ホームレスの中には望んでその世界に入っているわけではなく、どうにかしてこの状況を抜け出したいと頑張っている人もいれば、その状況に甘えている人も少なからずいるようだ。後者の方が割合としては少ないと考えたいが、一般の人々はその少ないそのような人々の行為のみを見て、ホームレス全体を強く非難しているようで、胸が痛んだ。

 しかし、そのような記事を読めば読むほど、ホームレスたちが世間から受ける厳しい視線は、過酷な生活状況よりも強く、彼らをひどく苦しめるものではないだろうかと感じた。何をやるにも、邪魔者もしくは無能なものとして扱われることが続いて、それにも負けずに這い上がろうとするのは努力以前に、強靭な精神力を要するだろう。

 今回、講師の方の話で彼らの実態を知り、生活の大変さを知ることができたのはもちろんであるが、それ以上に彼らも私たちと同じ存在であることを改めて知らされた。ホームレスの人々は私たちと全く同じ価値をもった存在である。この自明のことがなかなか定着しないのは、私たち自身の心の中に問題があると言う話が大変印象的であった。もっと、自分を大切にすれば、自ずと他人にも大切に接することができる。この考えは、ホームレスの問題に限らず、日常に根付く様々な問題―――犯罪、非行、人権問題など―――を解決できるのではないだろうか。インターネットの一般市民の意見を読むと、その想いはますます強まった。

 授業の中で、単にホームレスについてのみ考えるのではなく、まず「人間」という大きな存在から考えることで問題解決の糸口を見出させてくれたので、表面的な理解にとどまらず、より大きな視野で問題を客観的に捉えることが出来た。貴重なお話を聞けて、大変素晴らしい経験が出来たと思った。


●今回、竹谷さんのお話を聞いて、ホームレス問題に限らず現代の人間の生き方について考えさせられた。

 竹谷さんは講義の中で、E.フロムによると人間には”to have”と”to be”の二通りの生き方があり、現代の人間は"to have"の方を重視しているとおっしゃった。どんな高価なものをもっているか、どんな贅沢な暮らしをしているかなどが人間の価値を判断する基準になっ てしまっている。そしてその結果、ホームレスの人が貧乏で住む家もないという理由で世間から排除されることへと繋がっている。その人がどんな生き方をし ていて、どんな人間であるのか、ということを見ようとせず、モノによって人間の価値を位置づけている。そしてそのように他人を評価すると同時に、そのよ うな判断基準が自己肯定観や自尊感情へと結びつき、自分の価値をも物質によって評価している。つまり現代では、人間の価値はその人間自体ではなくて、そ の人間が所有しているモノによって決まっているのである。

 しかし私は、やはり本当の人間の価値は"to have"ではなく"to be"のほうにあると思う。どんなに高価なものを持っていても、どんなに贅沢な暮らしをしていても、人間としての価値は、何も持っていない人と変わらな いと思う。大人も子どももみんな同じ人間として同等の価値を持っていて、それぞれが互いに尊重し合わなければならないはずである。そう考えると、例えば 人種差別は人間の本質に反するものである。肌の色が違うからといってその人間の価値を下げることは、個性を否定し、ありのままであること、つまり"to be"を否定することに繋がる。授業で扱ったホームレス問題も、こうした人間の存在様式に対する考え方が"to have"を中心としてしまっているために起こっているのだと思う。他にも、宗教による戦争は、決してその敵の人間そのものが憎いわけではなく、その人 間が持っている宗教同士が争っているといえる。

 "to have"に人間の価値を求めている現代の状況では、争いや犯罪など、問題はいつまでも解決することはないと思う。一人一人が"to be"を大切にし、個を互いに認め合って初めて、健康な社会が実現するのではないだろうか。一旦"to have"になってしまった今、そうした社会を実現していくのは困難なことかもしれない。しかし、私が今回この講義を聞いて人間の価値について考えたよ うに、それぞれが今一度人間の価値について問い直し、少しずつでも変わっていくことが出来れば、決して実現不可能ではないと思う。急に世界中の人間に人 間の価値について考えさせることは無理であるし、それはすぐには達成できないだろう。それでも、そうした社会を作っていくために、例えば国がボランティ ア活動を積極的に支援するなど、国や地域でそうした取り組みを行うなど、やろうと思えば方法はいくつか考えられると思う。私も、自分にも出来ることはな かなかないのかもしれないが、少しでもみんなが幸せに暮らせる社会を築いていくための力になれたらと思う。


●名古屋には万博の好景気のため、多くのホームレスが集まり住むようになったそうだ。しかし、その好景気も終焉を迎えた今、そのホームレスの人々はどうしているのだろうか。

 「ホームレス」状況を始めとする貧困は現代に始まったものではない。それは近代社会を生み出す家庭の中から生まれ、近代社会の「暗黒部」を形成してきた。その状況を打破、あるいは予防するために、私たちはさまざまな社会福祉制度を整えてきた。社会保険や生活保護はそんな制度の具体的な例であり、社会の構成員の権利として存在する。ただしそれは申請に基づくもので、制度や手続きの情報を得ることができ、具体的なアクセスが可能であることが前提である。したがって、こういった福祉サービスをどれくらい受けられるかは個人個人で異なる。皮肉なことに、サービスを受けられない、または制限される人ほど実は本当に助けの必要な人たちなのである。ただ、こうした福祉国家の限界はある程度予定していたことであった。福祉国家がいくら社会福祉制度を整えて、「最後の安全網」を張り巡らせても、完全に貧困をなくすことはできず、周辺に位置する民間の福祉事業や相互扶助にゆだねざるを得ない部分が存在するのだ。

 マザーテレサは言った、「人間にとって本当の貧しさは、社会に見捨てられ、自分は誰からも必要とされないと感じることです。」私たちにできる、身近なところから始めることも、立派な助けになる。


●「貧困問題というと、どうしてもアジアやアフリカなどの世界に目が行ってしまうのですが、どうして日本には目を向けないのでしょうか?」

 AVANTGARDEのメンバーの方の言葉に、私ははっとさせられた。私自身も「貧困」を自分とはあまり関係のない、遠い世界の話題だと捉えていたからだ。確かにこの日本にも、家や財産すべてを失い、路上生活を余儀なくされている人たちがいる。ホームレスの存在自体を知っているものの、何か怖そうであるというあいまいなイメージから、なるべく近づきたくない、関わらないようにしたいと考えてきた結果、自分がホームレスを「問題」として捉える意識すら持たなくなってしまっていたことに気付かされた。これこそ無関心という名の障害である。

 自分の態度をまず反省した上で、なぜ貧困問題の範疇にホームレスを入れていなかったのかを改めて考えてみる。貧困を捉える際にアジアやアフリカばかりに目を向けてしまうのは、その国全体が発展途上で貧しいことが非常に明白だからである。一方、それらの国々と比較すると、日本は経済も居住環境も極めて豊かである。しかも私たちはその豊かさに満足しきれずに、日々新しいものを追い求めては満たされた気分になろうとしている。当然のことながら、明日の生活さえ立ち行かなくなるような極限状態に追い込まれたことなど一度もない。さらに、私たちの間では「豊かになれるのはがんばった結果」という、高度経済成長期にもてはやされた考え方が依然として根強いように思う。その対極として「貧しい人は怠けているからであり、それは自己責任だ」という考えが意識的であれ無意識的であれ生まれてきてしまう。結局、ホームレスのほとんどが景気の変動による犠牲者なのだという事実にすら気付かないまま、この問題を放置しているのではないか。

 いろいろ考えをめぐらせる中でホームレス問題についてもう少し知りたくなった私は、図書館へと足を運んだ。選んだ本は『偏見から共生へ―名古屋発ホームレス問題を考える』(2003)。この中に、実際にホームレス支援に携わる田巻松雄氏が、支援に潜む問題性を主に支援者の心理面からまとめた章があった。ホームレス問題そのものも大切なのだが、この章から考えさせられたこともかなりたくさんあったので、ここでは支援のあり方について以下にまとめることにする。

 支援活動の世界に入ることでまず得られたのは「やりがい」や「楽しさ」だったと筆者は述べている。この点は実際に(ホームレス支援とは別の)ボランティアを経験したことのある私にもよく分かる。しかし筆者は、この楽しさが何に基づくものであるかを深く掘り下げた上で、「閉塞的な世界で成立しうる自己満足に由来する『楽しさ』」が大部分を占めていると考えている。この感覚は、ホームレスと支援者の自分、という異なる立場を確認する気持ちによって成り立つものだ。楽しいという思いが支援活動の基盤となるのは確かであるが、ホームレス支援の場合は「支援者の好奇心を満足させ、優越感を助長する側面」を持つことがある。そして、ともすれば優越感が「顕在的か潜在的かはともかく、支援者の被支援者に対する軽蔑心さえをも助長する」という危険性をも秘めている。

 さらに筆者は、優越感はホームレスに対してだけでなく、一般市民に対しても働いてしまうと指摘している。この場合の優越感とは、ホームレスに無関心で何もしない人たちは自分より劣っているように見えるという意識、自分は「ホームレスを追い詰めている市民社会の加害者性から免れている」という意識である。過剰な優越感は市民社会との敵対意識を強めてしまい、返ってホームレスが住みにくい社会状況を作り出してしまうという懸念もある。

 ホームレス支援に関わっていない私が支援者側の意識について述べ立てるのは、いささか気が引ける面もある。しかし、支援者の立場にもなることのできる「一般市民」の私たちは、支援の際に生じる問題点について自覚し、改めて自己内省を行うこともまた大切であると思う。ここまでのまとめを踏まえて、望ましいホームレス支援のあり方を考えてみると、講義の中で出てきた「共生」という言葉が大切なキーワードとなることが見えてくる。人間の本質は「共同生活」「共生」にある。共生とは文字通り共に生きることである。お互いが手を差し伸べあい、助け合って生きていくという社会のあり方である。支援活動の際も、共生の姿勢を保ち続けることが大切だ。自分たち支援者が上の立場だという意識や、逆に哀れみの感情からホームレスを美化したり崇めたりする気持ちは、時として支援の妨げとなることも忘れてはならない。

 「支援を通じて自分も成長することができる」「ホームレスのおじさんたちから元気をもらい、自分ももっとがんばれるのではないかという気持ちが湧いてくる」AVANTGARDEの方はこのようなことも語っていた。根本問題の解決にはならないと自覚しつつも、被支援者を理解し、学び、自分も向上していくという姿勢こそ、真の支援の形なのではないかと私は感じている。

参考文献
藤井克彦・田巻松雄著『偏見から共生へ―名古屋発・ホームレス問題を考える』、風媒者、2003年。


●竹谷先生のお話を伺い「ホームレス」といわれる人々に関して考えました。それまでは、ホームレスの人たちは様々な要因でやむを得ず生活しなければならないだけでなく、束縛されない生活を望んでいる面があるのではないかと思っていました。それは、公的に作られた施設を利用しないといった報道や彼らへのインタビューによるものでした。けれど、まるで「排除」というような公的対応や若者の暴力事件には、納得いかず複雑な感情をもっていました。先生のお話を聞きながら私は混乱しました。どのようにホームレスの人々を捉え考えていけばよいのかわからなかったのです。誰もが「to be」な存在。排除していいなんてことがあるわけありません。しかし、社会は共存によって成り立っています。義務を果たす代わりに様々な保障を受けていると考えると、ホームレスの人々は同等に利益を得ることができるのかと考え混乱していました。しかし、公的機関や暴行したり蔑む人の中には、ホームレスの人々を同じ「to be」な存在としてみていない心があると思います。私自身にも受け入れられない気持ちがありました。様々な事情によって彼らはホームレスになるのでしょう。経済的問題、社会的問題、心の問題・・これらの問題は「排除」という相手を思う気持ちを失った行為からは決して解決しません。社会的システムとして彼らを特別に保護するということは難しいと思います。しかし、そのシステムの中に思いやる心があるかないかによって、彼らを取り巻く環境も私たち自身も大きく異なるでしょう。

 もし、私に今支え援助してくれる家族がいなかったら・・山田先生の講義の際にもありましたが、人を排除する社会はなんと脆いのでしょうか。私は自分と異なる立場にある人々のことを私の視点から一方的にみて後悔することがよくあります。様々な問題に接するたびに、頭と心の葛藤に戸惑います。ですが、こうして直に様々な場面で力を尽くされている方々のお話を伺えて、悩み戸惑いながらも、避けることなく考えていく機会を得ることができてよかったと思います。まだ御二方の講義がおわった段階ですが、みなさんが私たちに伝えようとされていることの根本はおなじなのではないかと思います。私は、これからの生活の中でもたびたびこのことを考える機会に出会うと思います。それは、私がずっと考えていかなければならないことで、いつも心に持っていなければならないことだと改めて思い直しました。


●今回、自立支援の家の活動をされているみなさんのお話を聞いて、ホームレスの人たちに対する見方が変わったようにおもいます。ホームレスの人たちに対し、これまでは上から下の者を見下す、あるいは哀れむような形でしか見ていなかったことに気がつきました。

今まで私は両親に、兄弟に、先生に、友達にと、多くの人に支えられて生きてこれました。なのに、そんな大切なことを当たり前のように感じていた自分に気がつきました。失敗したり、落ち込んだりしても隣でいつも「大丈夫だよ。」と言って誰かがいてくれる。でも、それは何も必然的なことではなく単なる偶然であり感謝すべきことに気づきました。取り返しのつかない失敗をしたり、大切な人がいなくなってしまったり…人は生きている以上、いつそのような不遇な状況におかれるかわかりません。つまり、誰にでも(もちろん私にだって…)この先、住む家をなくしたり、頼る人がいなくなってしまったりすることは大いにあるということです。ゆえにホームレスの人たちと自分は何も変わらない同等なひとりの人間であることを再認識させられました。社会的弱者であるホームレスの人びとの自立を支援することは私たちひとり一人の課題であると思います。なぜなら社会的弱者を救うことは自分自身の未来につながるものだと思うからです。


●「人間とは何か?」竹谷さんの話はこのセリフから始まった。私は今日から2回の講義はホームレス支援の話だったはずでは?と思っていたので、いきなりのこの話には面食らってしまった。この質問に当てられた人の中には、人間とは「欲望」であると答えた人もいたが、私はこの竹谷さんの質問に答えることができなかった、というより考えたことがなかった。竹谷さんはこれについて、ルターが述べた「人間の本質は野獣と天使である」という言葉を例に出しながら話をしていって、なるほどこの話をどうにか活かしてホームレスの話をするのかなと思いきや、次は「人間の欲望とは何か?」と聞いてきて、今日は本当に何の授業だろうと正直思ってしまった。これについては「人間の欲望には2種類あり、おいしいものを食べたいという奴隷的欲望(to have)とおいしくものを食べたいという主体的欲望(to be)がある」と言っていた。私は最初うまいことを言うものだなぐらいに思っていてそれ以上は何も思わなかった。けれど竹谷さんはこのことから次のことを述べた。「今の社会はこの2つの欲望の特に奴隷的欲望の方が重視されていて、そのことが持たざるものであるホームレスが社会から邪魔者、怠け者として排除されている原因の根底にある」。この一言は私にとても大きな衝撃を与えた。確かに考えてみると今の社会、勝ち組・負け組や格差社会といった言葉などが表しているように、奴隷的欲望のことばかり言われているような気がする。私達は無意識にホームレスの人々を軽蔑していたのだと改めて自覚した。

 次に私がこの講義で印象に残ったことは、千代先生が質問した「ホームレスはニートと同じではないのか?」という質問だった。確かに私のホームレスの率直なイメージは、公園などで寝ている人々、というような感じなので、働いていない点でニートと同じではないかとも思えたりもするのだが、竹谷さんの話を聴いているうちにそれがとんでもない誤解であったと分かった。竹谷さんは「ホームレスの人々は失業者が大半で、働く意欲もあるし、実際私達が眠っている夜中に空き缶を拾ってわずかばかりのお金に換えている。だから怠けているわけではない。ただ、ホームレスもニートも発生する原因は働き口が無いという点で同じである」と述べていて、ホームレスの問題ももっと社会でクローズアップされなければならない問題であると感じた。そして私も今回の講義でそれを認識することができたので良かったと思う。


●神父さんのお話は、私のイメージしていた“キリスト教”という感じではなくて、人間とは何か?−人間は1人では生きていけないし、共存在で尊い尊厳を持っている……といったシンプルで短い言葉で話されていて、とても分かりやすいものでした。ホームレスの人たちは働く気があるのに職を失い、決して怠けているのではないことや、ホームレスの方々が昼間寝ているのは、夜襲われる可能性があるので自分の命を守るために起きていなければならないからだという事など、本当に始めて聞く話がたくさんあって、ホームレスのことについて深く考えさせられました。

 しかし私の中では、神父さんの話を受け入れようとしても、受け入れがたいところもありました。前回の身体障害者の方々と比べてしまっているのでした。山田さんたち身体障害者の方々は生まれつきだったり、事故で困難な状況にあるということの一方で、ホームレスの方々は、家がない・着るものがない・食べる物がないといった状態になることを防いだり、また改善しようと思えばできたのではないかと思えてしまうのです。神父さんの言うように、ホームレスの方々に悪いところは全くないという話には、『本当に、本当にそうなの?』と最後まで受け入れることができませんでした。その理由はまだ社会の厳しさを知らないからなのか、今まで触れたことない世界の話だったからかは分からないけれど、私は自分の心の狭さを思い知り、反省しました。

 あと疑問に思ったことは、なぜ都会にしかホームレスはいないのでしょうか?滋賀ではホームレスを見たことがありません。その一方で大阪に住んでいたときは、たくさんのホームレスの方々が道の片側にずっと並んで座って、手に缶詰の缶を持って、前を通る人たちがお金を入れてくれるのをじっと待っている光景をよく見ました。小さなころだったので、その光景を珍しく思い、歩きながらもホームレスの方々に目をやっていると、お母さんは「見たら駄目よ。」と言って足早に歩いていました。他の人も同じような感じで、ホームレスの方々と目を合わせず、さっさと通り過ぎていました。

 お母さんは見てはいけないと言っていたけれど、これはしっかり向き合い、よく見るべき光景だと思います。愛知万博のとき、公園に住んでいたホームレスの人たちを、海外の人の目に付きといけないからといって、別の場所に移動させたという話もこれと同じで、解決しがたい問題だからといって隠したり、目を背けていてはいけないと思います。真正面から見なければいけないと思います。

 神父さんは今多い、ニートやフリーターは親がいなくなったときホームレスになるとおっしゃいました。そうすると将来日本はホームレスの数が増加し、問題ももっと生じるようになります。ホームレスをどう支援していくかは今後さらに重要な課題になっていくだろうと思いました。


●今回のホームレス炊き出しの話は4つの話題の中で一番興味がありませんでした。というのも、私の中では炊き出しを偽善行為だと思っていたからです。また、ホームレスの人たちを社会で生きるのに疲れたり飽きた人たちで意気地なしと思っていたからです。だから、その人たちに救済の手を差し伸べるボランティアは裕福な人だと別次元の話だと考えていました。でも、今回の講義でホームレスの人たちやボランティア行為に対する考え方が一新されました。 

 私は都市部(大阪市内)から少し離れたいわゆるベッドタウンに住んでいました。もちろん自宅付近にはホームレスのような人はいませんでした。しかし、名古屋に引っ越してきて栄や名駅から離れた千種区にもホームレスの人たちがいて少しびっくりしました。アルバイトの帰りに通る道にいつも寝ているのですが、同じ空間に少しでもいるのが怖くて、そこだけ息を殺していそいでしまいます。小さいときに親から言われたことがこの行動にすごく影響していると思います。大阪の天王寺・新今宮など環状線沿いにはホームレスの方のブルーテントが並んでいるのですが、そこは一人で歩いてはいけないと言われていました。

 AVANTGARDEの体験談は聞いて、すごくためになりました。特に高校生の時から6年か7年間活動をしている方の話はよかったです。炊き出しはホームレス問題を解決するのに意味はないかもしれません。でも、人間らしく生きるというのは、ただ生きるのではありません。友達をワイワイと騒いで、他愛のない話をして、時には悩みを打ち明けたり、慰めあったり、そういう楽しい時間を過ごすことこそが必要だと私も思いました。それを体験談の中で話されていて共感できました。私もこの活動をしたいと思いました。

 ホームレスになった理由はいろいろなんでしょうが、家庭内暴力で家を出ざるをえなかった方もいるようで、どうにか助けたいと思いました。

 そもそもホームレス問題は何が原因なのでしょうか。住所がないから仕事を得られないと講義で言っていました。原因はそれだけではないと思いますが、もしそれが原因なら住所を提供したらどうでしょうか。NGOなどで住所を貸して、仕事を得られるようにする。求人情報誌を見ると仕事を選ばなかったら仕事はあると思います。だから、ホームレスの人のうち、働ける年齢の人はアルバイトができると思います。その所得で部屋は借りられないでしょうか。

 みんな同じように生まれてきて、同じ国に生きているのに、家もなく安心して夜を過ごすこともできない人が身近にいるのはつらいです。


●今回、カトリックの神父でいらしゃる竹谷先生に、ホームレスの方々への炊き出しや自立支援という活動についてお話いただきました。この問題は私にとってはとても難しい問題で、うまく考えをまとめられませんでした。レポートというよりできの悪い感想文となってしまいました。考えることが第一歩だと思うのでご容赦ください。  私は長野県の片田舎で生まれ育ったため、大学に入り名古屋に出てくるまで、いわゆるホームレスと呼ばれる人たちの存在は知っていたものの、身近な存在として認識し、また、その存在について考えるということはしてきませんでした。名古屋に出てきたばかりは始めて目にする存在に興味を持ちましたが、すぐに、あれが彼らの生き方なのだと考え意識しなくなりました。しかし、寒い冬の夜みかけたり、ニュースで警官に退去を迫られているのを見たり、よなよな空き缶を集めている姿を見ると生きて一日一日を送って行くのが大変であろうなと時折考えたりはしました。ホームレスを社会問題として真剣に考えるのはこれが初めてになります。

 ホームレスの方々は今の生活をある程度理解して覚悟してされているのでしょうか。それとも、仕方なく、政治なり社会なりに怒りを感じながら生活されているのでしょうか。最初の理由はどうあれ、勝手気ままな今の生活を好んでされていると思ってきました。また、女性のホームレスの方が少ないのはどうにかすれば家が確保できる証拠で、ホームレスをされる方は騒がしい一般的な生活に疲れ、自由を求めて今の生活を始めたものと考えていました。しかしそれは勝手な思い込みでしかありません。直接彼らに聞いてみなくてはわからないことです。考えてみると、確かにこの経済大国で家を持たず多くの人が街中で暮らしていることは「問題」なのかもしれません。ホームレスはこの社会のひとつの役割を果たす存在であって、当たり前のものという考えを改める機会が来た気がいたします。

 竹谷先生はホームレスの方々には、住むところと、働くところが必要だとおっしゃられました。しかし、日本の仕事の専門化、第三次産業の拡大、安価な海外労働力の流入、企業の海外進出による産業の空洞化により高年齢の再就職は難しく、お年を召した方の多いホームレスの就職は難しいとも述べられておりました。これを改善して行くのは大変難しいことだと思います。今の世の中は、世界的に見ても、教育だったり、資産についてある一定水準以下の人々には冷たい世の中だと思います。貧富の格差が広がり、貧しく、教育も受けられずひどい環境で生活する人たちを多く生み、それを内包してでしか成り立たない社会なんだと思います。それを変えるには、私たち普通の生活ができている者たちがみな考え、今の生活を投げ捨てなくてはならないでしょう。しかし、それは無理です。どんなに豊かになろうと欲望がなくならないのが人間でしょう。私自身今の生活水準を捨てることはできません。そうなると、余裕のある人間が、炊き出し等できることをしていく以外ないのではないでないかと思えてしまいます。現状を改善し、この問題を解消するには根本的でマクロな話し合いと活動が必要な気がします。今自分にできることはホームレスの方々と接し、考え続け、機会があれば積極的に行動し少しずつでもよい方向に向かわせることだと思います。大事なことは状況に満足せず、最善を目指し考え続けることだと思います。

 しかし、私の意見としてですが、教育環境を整え、職業訓練の機会を多くして、使える技術を学ぶ場を増やし、これから失業し、家を失う人を無くす事は可能かもしれません。言葉は悪いですが、ホームレス予備軍にカウンセリングを行い解決策を示すのも手だと思います。考え方を変えるだけで生活を改善できるならその様にすべきです。安易に、家がなくても暮らして行けるという考えを持たせてしまわないような活動の仕方も必要だと思います。必要最小限の活動で、自発的に自立の道を歩んでいただけるような関わり方が最善ではないかと考えます。

 えらそうに意見を述べさせていただきましたが、私には実際、今、何をどうしたらよいのか皆目検討がついていません。考えることが大事だと思いますが、行動しなくてはなにもかわらないわけです。神父と一緒にボランティア活動をされている南山大学の学生さんの話のなかに、なぜ一般の人はボランティアというとまず海外に目がいくのか、すぐ近くに困っている人たちがいるのに、というようなお話がありました。確かにその通りだと思います。まず、ホームレスの方々と触れ、一緒い考え、誰にとってもよい結果がえられるよう活動して行くべきだと思います。

 まずは、世間の見方を変えることも必要でしょう。ホームレスの方々に暴力を振るい、最悪の場合しに至らしめてしまうような痛ましい事件をよく耳にします。また、飢餓、寒さで死亡することも少なくないでしょう。一緒に街に住む人間として彼らの安全を守ることは義務でもあるきがします。隣近所とも接する機会が少ない今の世の中です。積極的に人とかかわり、垣根を取っ払い、困っている人には手を差し伸べる。そのことが重要になってくると思います。そういった意味でも竹谷先生方の活動は大変意味のあるものだと思いますし、世間に広く認知されるべきだと考えます。自分も行動をするときがきたのだと感じました。これからの自分に期待したいと思います。


●ホームレスは社会的にどのような存在なのであろうか。怠け者、邪魔者、迷惑者、汚いなど、さまざまなレッテルを貼られて彼らは生活している。彼らにとっての理想、社会にとっての理想とはどのようなもので、現状はどうなっているのだろうか。

 安定した住居・職を失うホームレスが増加している原因は、以下の5点にまとめられるという: @ 日本経済が不況となることより、不安定日雇い労働者層の働く場が少なくなったこと、A不況から企業が抜けるために行った、就労構造・就労方法の変化に非熟練労働者はついていけなかったこと、B都市部での再開発によって低家賃住宅が大幅に減少したこと。C伝統的な日本型家族が崩壊し、家族や友人などの社会的ネットワークによる保護が機能しなくなったこと、Dアルコール依存・薬物依存などの精神に障害をもつ人の自立を家族が拒否し、結果家族の支援の無いまま失業にあう事例の増加。これらを見ると、ホームレスになる原因は個人の責任だけによるものではないということだ。むしろ収入が不安定な人達のことを考えてるとは思えないような政策によるもの、すなわち社会的責任のほうが大きいのではないか。このことを踏まえてなのかどうかは不明であるが、私的または公的なホームレス支援が行われている。しかしこれまでにとられてきた公的なホームレス対策は、大半がホームレスのためにではなく、ホームレスでない一般市民の生活を守るためにホームレス問題に取り組んできたといって過言ではない。たとえば、大阪の長居公園や西成公園には一時避難所が建設されているが、その利用者資格を、公園内にテントを張って居住しているホームレスに限定し、ダンボールや新聞紙だけで路上に寝起きしている、より緊急性の高い人を対象としなかったことは、その証である。避難所に収容し公園からテントを隠すことは、公園利用の適正化を優先しているだけでホームレスの減少や予防など根本的な解決につながるものではないのではないか。また、私的な支援である、教会などによる炊き出しについても根本的な解決につながるものではないのではないか。やはりいくら食料を支給しても、そのことでホームレスに職を得る機会を与えているわけではないし、逆にホームレスが炊き出しの食料に依存してしまう可能性もある。しかし、ホームレスとコミュニケーションをとり、彼らの考えや生活を知り、彼らの要望などを世間・社会に伝えるパイプとなることは極めて重要である。彼らは世間から誤解を受けている。それはある種固定観念のようなものであり、その悪いイメージを取り除くことは極めて困難と思われるが、私は今回の講義の中で、ホームレスと世間をつなぐものは炊き出しのプログラムしかなく、だからこそその活動がホームレスの自立すなわちホームレスの予防・減少に大いに貢献し得ると感じた。頭で考えるだけでなく、目や耳、体全体を使って「ホームレスを感じる」。このことがホームレス問題解決の確かな道であると思う。


●今回は竹谷氏によるホームレスの方のお話を聞いた。 私のうちの周りには結構多くのホームレスの方がいる。地下鉄の駅周辺や川の橋げたの部分のところで毛布一枚やそれこそ新聞紙で寝ているような方である。講義で言っていたような、空き缶を集めている光景も何度と無く見ている。

 ただ、だからといって私がホームレスのことをよく知っているわけでもなく、おそらく多くの人と同様、偏見を持ってみていた。

 汚い。怖い。何を考えているかわからない。

 小さい頃、よくそう思った。人間、自分に理解出来ないものは怖いものである。見るたびに思った。またいるよ……と。

 どこかに行ってくれないかな。ここにいなくてもいいのに。

 最近はいること自体に嫌悪感を抱くほどではないにしろ、見ないふり、係わりあわないほうがいいと思っていた。 

 仕事をしないから家が無い。もっと働こうとは思わないのか?そういう感じである。 今回講義を聴いていて、そういう人たちが定期的働けるような機会が無いことをとても感じた。

 日雇いの仕事では根本的な解決にはならないだろう。日雇いに仕事はたいてい肉体労働だから、とってもきつい。

 確かに価値の判断基準が持てる人と持たざる人という状態であれば彼らは持たざる人である。

 今の時代の流れから、そういう人が定期的な職に就くのは厳しい時代であると思う。 竹谷氏の言っていたような『To be』のような考えは残念だが、少なくとも会社が人を採用するときに考慮されることはほとんど無いだろうから。

 講演という形ではあったがほとんど見向きもしないホームレス問題について少しは考えることができたと思う。少しは彼らの内面を見ることができたのかもしれない。これを忘れることのないようにしたい。


●ホームレス問題ということで2週にわたって講義を受けましたが、ホームレス問題は僕らの近いところのようで遠い問題で、街中等で見かけるだけでは正直僕は外観を損なう浮浪の集団であるとしか思っていませんでした。ボランティアの人が言うとおり身近で彼らと接しなければ現状もどういう人かもわからないっていうのはわかるのですが、なかなか機会も偏見からかやる気もなく接することはなかったので今回の話はいろいろな意味で面白かったと思います。

 まず先生はホームレス問題を教えるとき「人間とは何か?」という問いで二回ともはじめました。これはすごく重要なことのように感じました。と言うのも、ホームレスというのは人間であり、人間として扱われない人たちだからです。やはり僕もホームレスを見ると公園とかに住み着いている外観を損なう人たちであると言うイメージしかわきません。かと言って、彼らをいまどきのわかものが殺すのはありえないことだと思いました。本当に身勝手な理由だと思います。だいたい普段から人様に迷惑をかけているだろう人たちに「世直し」だのという言葉は使ってほしくありません。はっきりいって聞いたときにはすごく不愉快でした。しかし、やはり僕も含めた世間のイメージを端的に現すと、彼らほどではないにしろ少なからず「怠け者、見苦しい、迷惑」と言ったイメージを持っているのは確かです。ホームレスをなくそうと思うと「排除」と言う言葉しか今まで浮かびませんでした。もしもホームレスを社会復帰させようと考えると、まずこのイメージを取り除くことが大変であると思いました。

 最後にボランティアの人たちはよくホームレスの人たちと接してみてくださいとか、彼らを見捨てたのは私たちなので社会が彼らを支えなければとよく言いましたが、ホームレスの人たちと接することは現状や人柄がわかると言うことで大切なことだと思うのですが、社会で彼らを支えようと言うのはなかなか難しいことのように感じました。実際に触れ合ってもいない僕が言うのはどうかと思うのですが、ホームレスと言っても一概に働く意欲がある人ばかりではないと思います。もしも仮に彼らを保護するもしくは支援する制度ができたとしてそれに甘んじて何もしないって人が少なからず出てくると思うのです。そうなっては元も子もないし、そんな人に利用される制度だったら作りたくないと僕は思ってしまいます。そう言った意味でホームレス問題は簡単なようですごく難しいことであると言うことをこの時間に考えさせられました。

 現状も知らない僕が大変生意気な文章を書いてしまったと思います。しかし、これが僕の正直な考えです。これを見て気分が害された方がいたら本当にごめんなさい。


●ホームレスの人たちについて話を聞いたが、たしかに我々は少々の偏見を持っていると思う。最近ニュースでも、少年グループによるホームレス殺害、少年たちがからかったため、ホームレスが逆上して逆に死傷をさせてしまう場合まである。今でも、なぜあの人たちは駅や公園に寝泊りして働かずに缶拾いをしているのだろうとおもうときはあるが、逆に考えて、彼らがいなかったらどのような状態になるかを考えてみた。そうなると駅や公園で寝泊りする、役所の人からすると景観を汚す存在がいなくなるわけだが、同時に缶を拾う人はいなくなり、ただでもポイ捨てが世の中多い中であるから、ごみがたまっていく状況になる。さらに彼らは袋に入っている中から缶などを取り出して自分のものにしているわけであるから、彼らは分別を多少してくれていることになるので、そういう人がいなくなるわけであるからまたごみがたまる状態が促進される。

 そもそも、資本主義社会において貧富の差は確実に生まれるものであるから、特にホームレスなどの人が存在していて驚くことはないと思う。同じ人間同士であるのだから偏見することはいい事とは言えない。彼らは彼らなりに働いており、彼らなりに生活しているわけである。普通の人間を汚すほうがよっぽど道徳になっていないと思う。たしかに、自分の息子があんなふうな生活を送らせたくない、自分があんなふうな生活を送りたくない、という考えからどうしても別格扱いしてしまう部分があると思う。彼らがあのような生活をしているには何か理由があり、我々はその理由を知らないからそのような状況に陥るのだと思う。例えば難民を見て偏見を持つだろうか。彼らは食料がなかったり社会的立場によって何も出来ないでいたりすることを我々は知っているから我々はそのようなことはしない。同じようにホームレスの人たちの状態を我々は知る必要がある。意外と障害となっているのは我々のことかもしれない。また、少し話は変わるが、我々も何かが起こってホームレスになるということがないことはない。むしろ誰にでもなる可能性があることを忘れてはならない。自分がなったときに一般の人はどう接してほしいかを考えて見てほしいと思う。

 人間は誰に対しても平等である。大統領であろうとノーベル賞受賞者であろうとホームレスであろうと対等なのである。その点に関して我々は少し思想が違う。自分の好き嫌い、感情をその道徳に注入してしまっている人が多数であろうと思われる。プラスの方にやっていくことは特に問題はないが、マイナスのほうにやられたほうはいい迷惑であるといえる。たしかに一般的に見てマイナスのことをやっている人、マイナスの状態の人をプラスに見れる人は少ないであろうが、そのマイナスのこと、マイナスの状態ということが現代の思想であるから、それを注入することがどうかといっているのである。聖書などの思想によるつもりはないが、人間は常に平等であることはいいと思う。逆に言うと差があったとすると、なぜその差は存在するのかと問いただしたい。これはホームレスに対してだけの問題でなく、現代の社会問題であるといえる。我々はこの社会問題を早いうちに打破する必要があると思う。また間違って戦争など起こる前に・・・


●今回の2回の講義を受けて、私はホームレスに対するイメージを大きく変えられました。正直に言うと、今まではホームレスというと汚いとか、怖いというマイナスなイメージを抱いていました。現代社会においてもホームレスは邪魔者、怠け者、迷惑といったイメージがあり、排除しようという考えが一般的だと思います。しかし、今回の講義を通してホームレスは決して怠け者なんかではなく、むしろ就職している人たちよりも頑張っている部分もあるということを知りました。そして私は今まで大きな勘違いをしていたことに気付かされました。それはホームレスは社会で働く気がないのではなく、働くことができないということです。今になって考えると、どれだけたくさん集めてもたいしたお金にはならないアルミ缶を必死になって集めたり、建設現場などでかなりつらい肉体労働をしたりして極めて苦しい生活をしている姿を思い浮かべれば、そのような生活が普通に就職して生活するよりもどんなに厳しいものかがすぐにわかり、そんな簡単なことにも気付くことができなかった自分が情けなくさえ感じます。それに加え、ホームレスは生きる支えとなる家庭もなく、気持ちを安らげることのできる家もないにもかかわらず、社会の批判的な態度にも耐え、必死に生きています。そのようなことにどれくらいの人が気付けているのだろうかと私は考えさせられました。非常に残念なことに大部分の人が、現在は気づけてないと思います。その証拠として、現在、若者がストレス解消のためにホームレスを襲うという事件が増えています。そして、そのせいでホームレスは夜に安心して眠ることもできないというのが現状です。ホームレスの気持ちが少しでもわかっている人ならば、そんな非情な行為は絶対にできないと思います。さらにひどいことには、ホームレスが少しでも反撃したならば、すぐに大問題となり新聞やテレビで一方的に非難され、やっぱりホームレスは怖いというイメージが社会に広まってしまいます。こんな状況に置かれても必死で生きているホームレスの気持ちを少し考えただけでも、やりきれなくて、胸が苦しくなります。これは、ホームレスというものを全く理解していない若者だけに問題があるのではなく、若者にホームレスに対する現在のような間違った固定観念を植え付けてしまった社会にも大きな問題があると思います。このような社会を変えていくには、多くの人にホームレスの本当の姿を理解してもらい、ホームレスに対するイメージを根底から変えていくことが必要だと思います。この講義を通して、ホームレスの自立支援活動を行っている団体があり、身近なところでいうと、南山大学に主に炊き出し(ホームレスに食事を配ること)の手伝いを中心に活動しているサークルがあるということを知りました。このような活動に参加することはホームレスというものを理解するためには非常に効果的だと思います。多くの人がこのような活動に積極的に参加し、もっと活動の規模を大きくしていくことでたくさんの人にホームレスというものを理解してもらうことができれば、近い将来、社会のホームレスに対する考え方を変えることができるのではないかと思います。


●ユダヤ人学者の E・フロムは、人の存在の様式には2つあり、1つはto haveすなわちそのひとがもっているもので、2つめはto beすなわちそのひとそのもの、であるといいました。さんは、ホームレスの救済活動を通して今の社会はto beを軽視がちであると気づかれたそうです。

 社会は確かにその人の持っているものに注目しがちかもしれません。人の一面だけをみてその人を判断してしまうことは、世の中に非常にたくさんあると思います。僕自身、ホームレスの人に対してわずかながら偏見を抱いていることは否定できませんし、そう思うのは彼らの外見や社会的な立場を見ているからです。しかし、僕はそれだけを見ているわけではありません。この人にはここに至るそれなりの事情があったのだとか、もしかしたら社会が彼らをこういう状況に追いやってしまったのかもしれないだとか、今自分が目にしているものからいろんなことを考えるようにも努めています。だからといって僕はホームレスの救済活動などはしていませんし、僕がそう考えることですぐになにかが形となって残ることはありません。しかし、僕はそれでもいいと思っています。ちょっとでも今見えているものから一歩考えを伸ばしてみるだけで、少なくとも思いやりの気持ちは生まれると思うからです。この思いやりはいつか形になります。

 今回は講演を聞かせていただいて、実際のホームレスの人の様子などが知ることができ、たいへんいい機会になりました。せっかく“アバンギャルド”という炊き出しサークルの紹介もしていただいたので、経験として是非一度参加してみたいと思いました。


●今度の講義はホームレスに関するものだった。何の影響かはわからないが、ホームレスに関しては少し大きな関心があった。講義を聴き終えて、いろいろ考えたのだがいまいちまとまらない。いろいろな感情が次々にわいてくる。その1つ1つをつなげようとしても、しっくりこないのだ。

 まずこの問題は解決するのかどうか。この問題というのは、つまりホームレスは無くせるのかということだが、すぐにこれは無理だろうと思った。話によると今のホームレスの人たちはもともと高度成長期に日雇いなどで稼いでいたのだそうだ。しかし高度成長していない今、私たちの世代からホームレスが出ないとは思えない。というのは高度成長時にもホームレスがいたわけだし、もっと昔、江戸の時代にもそんな人はいたからだ。ということから、結局、これは、社会の構造上出てくるもので無くせないもの、というより当然存在するものという気がする。存在するのが普通だ、と考えれば、支えるしかないと結論が出る。話の中の「ともに生きる」という言葉が思い出される。

ホームレスに対する意識について

 別にホームレスは「悪」と思っていない。しかし、実際街の中で見かけると、怖い、薄汚い、かわいそうなどと感じる。そのたびに、これは差別心だろうなと思い、自分の未熟さを感じる。しかしそれでも、公園などにいて欲しくないという思いはある。自分の中で差別心とそれを抑える感情が混ざっている。

 しかし差別心というのは感情なのでなくせない。怒りや悲しみと同じように人間なら当然持つものだ。重要なのは差別心は誰でも持っていると自覚していることだと思う。ホームレスの人に援助する時も、私は差別心はある人ですけどそれでも援助するのです。とそれぐらいの気持ちを持つのがよいと思う。


●5月2日と9日の講義を受けることによって、ホームレスの人々に対する考え方が変わっただけでなく、人間について、また自分自身の存在の意味について改めて考える良い機会になったと思う。

 人間とは何か、自分の生きる意味は何なのか・・・。普段生活していく中でも何度か考えたことがある内容だが、いつも答えが見つからずに悩み、終わってしまっていた。本当は答えというものはなくて、ずっと自分自身で探していくものなのだとは思うが、今回講義でto beとto haveの話を聞いて、かなり納得できた。自分がすべてを失ったときに、人々は自分の何を見てくれるのか・・・。そんなto beの考えが大切だということを知った。私たちは無意識のうちにその人が持つもので判断するというto haveの考えを重要視してきたのだと思う。肩書きを見て、人を判断したりすることがよくある。肩書きも評価に入れてもよいかもしれないが、それだけで人を判断することはよくない。本当に大事なのは、そういった肩書きをすべて取ったときのその人自身を見ること。今の社会ではto haveが重要視されすぎている。持っているものしか評価されないと、自分の価値が見出せずに自殺してしまうものもでてくる。その人自身のことを評価してくれるような社会をつくっていかなくてはならないと思った。そしてこのことはホームレス問題にもつながっていくと思う。私は今回の講義を受けるまでホームレスの人々についてなんとなく悪いイメージを持っていた。ホームレスは職につかず、自ら社会から外れた人だと、漠然と考えていた。しかし、この考えは間違っていた。ホームレスの方々のことを軽視していた自分が情けなくなった。ホームレスの方々も一人の人間なのだから、その存在は尊重されなければならない。社会でも邪魔者として扱われることなどがあってはならない。それに、その人自身のことをよく知らないのにホームレスだからといって悪いイメージを持つことはよくない。ホームレスになりたくてなったわけではない人もいるだろう。というかそういった人が大半だと思う。それぞれにいろんな理由があって、ホームレスにならざるを得なかった、そういった人が多いと思う。本当は社会復帰したいのに、偏見などもあって社会復帰は難しい。私たちはもっとよく考え、理解を深めるべきだと改めて思った。

 人はひとりでは生きてゆけない。誰かに支えてもらっている。そしてそれはホームレスの人々だって同じこと。その支えが普通の人より少しだけ多く必要。ただそれだけのこと。生きる価値のない人間なんていない。みんなで支えあうことが当たり前な、そんな社会になったらすばらしいと思う。