講師 アロイジオ相馬信夫司教
1996年3月


解放とは

 私が頂いたテーマが、解放の為の神学講座です。解放のことをどう考えたらいいか、英語で言うとリベレイション(Liberation)、これにはいろんな意味があると思います。今のカトリックにとっては解放の神学というのは非常に新しい考え方と言われています。そこで、解放の神学の基になっているのは一体何か、そういうことからいうと、解放の神学がある意味においてマルキシズムの影響を受けているというのも、ある意味で本当だと思います。しかし、今教会で言う解放はマルキシズムの解放とどう違うのかということも、一つの大きな問題でしょう。
 私は先月、中南米、メキシコとガテマラへ行って来ました。私達が現代の問題に関わり合っていく時、何処へ行っても、そこで見たことは非常に解放ということにつながります。つまり虐げられた人をどの様にして解放するか、という問題、本当の問題はそこだと思います。理念的な解放というよりも、本当に虐げられた人をその虐げから解き放つ、日本語で言うと解放、解き放つという事が非常に大切なことだと思います。これはやはりキリスト教とも根本的に合致して、キリスト教も一つのリベレイションの信仰だと言ってもいいでしょう。というのは人間を最も束縛する根本的なものは罪があるということです。つまり、善を無視した行為という事は罪なわけです。その中には神の思し召しと言いますか、神の意志に反して何かをすることが正に罪です。その罪に捉えられているという状態がある。これはカトリックの原罪という教義の奥にあるものだと思います。ただ我々は皆、善意で生きて来ているのだが、時々間違ってしまったという事ではなくて、人間の歴史、人間存在の中に神の意図と反するものが定着しているのです。というのか、つまり罪に捕らわれた人間、或いは人類ということでしょう。キリストの救いというのは、今、非常に大事なことだと思いますが、或る人が罪を許して頂くという事だけではない。罪の状態、人類全体が陥っている罪の状態から解き放つという意味があるので、キリスト教でも解放という事をリベレイションというのは、まさに、古い言葉では悪魔からの解放といってもいいでしょうが、これは余り現代人に通じないので使いませんが、そういう意味があるわけです。
 解放というのは何か、夏座敷というのは開放された座敷ですね、風通しが良くて涼しい。そういう開放という感じもある訳です。清々している。だから言葉というのは非常に難しくて、そういう訳を作ると一人歩きしていってしまいます。解放の神学というのは面倒くさいことを全部止めて、ぱっと開け放しなんだというと、解放というのは、もう、無制限というか、無規範、定まりを無くしての状態が解放なんだという感じもするわけです。解放という言葉は広く使われています。それで、私達の中で解放というのは、特に政治的には抑圧的な政治体制から人々を解き放つという感じがあります。その意味で極端に言うと、君主制というのは、王様がぎゅっと国を抑えているんだ、その王様を無くして解放しようという感じもあります。ですから、解放という言葉はうっかり使えないなと思っています。解放とはいろんなのがあるので、夏座敷の開放もあれば、休みの時は普段の業務からも解放されて昼寝が幾らでも出来るとか、ハイキングにも行ける、そういう意味で普段の仕事の義務感から解放されるなど、日本の解放には色々な意味があります。
 しかし、ここで言っている解放というのは、そういう事も含まれていると思いますが、解放の為の神学というのは、我々が本当の意味で自由になる、本当の意味で自由をもっている、という事を獲得しなければならないということだと思います。キリスト教では、何と言っても人間の自由を束縛するのは罪です。罪に捕らわれた人間というのは、結局、説法論を唱えれば、自分が欲しない事を、悪を行って、自分が欲している良い事も行えない。ああ、惨めな人間かな、という事をパウロは言うわけですよね。つまり、何かに捕らわれている、罪の絆に捕らわれているから、自分はそういう事はしたくない、いつも人には親切をし、どんな人をも許して上げて仲良くしようと思っていても、あいつに行き合ったらいじめてやろう、こういう事になってくるのです。それは罪に捕らわれていることです。だから、そういう意味で、解放というのは、解放の為の神学という題を頂いて、なかなか難しいと思いました。


解放の神学とは、罪からの解放

 グティエレスというブラジルの、ペルーの神父さんですが、お会いした事があります。日本に来た事もあります。とても良い方で素朴な人です。最近、岩波からカトリックの本が出たのは、グティエレス神父さんの「解放の神学」、Theology of Liberationです。この本の日本語訳は関神父さんと上智の山田神父さんの共訳です。ちょっと難しい本ですが、非常に良い本だと思います。ですから、解放の為の神学という意味で、主催者がどんな考えで、解放の為と言っているか、聞いたわけではないから分かりませんが、解放という言葉と現代のカトリックの情勢と比べると、そこにはいろんな意味があるとおもいます。と同時に、本当の意味の深いキリスト教的な解放とは、まず、罪からの解放でしょう。それは非常に大事なことで、それを抜きにした解放では、勝手気ままにしたほうが気楽で良い、うるさい事を言う先生は追っ払ってと、学校ではそうなってしまいます。それは解放の神学の本当の意味ではないと思います。
 解放の神学について、私は少しは本を読みましたが、それほど専門的にやったことがないので分かりませんが、解放の神学というのは、何と言っても、南米、中南米の人達、労働者、農民が、いわゆる植民地主義の影響が大いに残っている大地主主義と、それにプラス、最近は大企業・多国籍企業も入ってきて、それが最も貧乏な人達を搾取している、そういう事に対して、キリスト者としてどう考えるか、ということから始まっていると思います。そういう点で貧困の問題と深く関わっています。そういう貧困をどう考えるのか。
 一つは、キリスト教というのは、イエス様も貧しかったから貧しくて良いじゃないか、我慢しなさい。そういう言い方もありますが、しかし貧困、単なる貧困というより、極貧という言葉のほうが良いと思いますが、つまり、人間として生きる事が出来ない程貧しくさせられている人、そういう人を、そういう状態をどう考えるのかという事から、解放の神学が出て来たと思います。
 僕の部屋に置いてある唯一の像は、ペルーから持ってきたイエス様の像、十字架の像です。それは、素焼きのまずい像ですから、カバンの中に入れて日本に着いて見たら5つに割れていました。象徴的でなかなか良い像です。最初大きいから要らないと言ったのですが、向こうの人が是非持って行ってくれというので持って帰ってきたものです。それがバラバラになったので、もったいないと思ってボンドで付けて、見たところ全く原形に復したわけです。その像とはどんな物かと言うと、手足が凄く大きい、ごつごつした手、十字架にかかった、釘がかかった足も、そんな風に、がつっとしている。それでいてキリスト様はどっちかというとやせ細って、顔は凄く柔和なんです。あんなに柔和な十字架像を見た事はない、実に柔和な十字架。手足は苦しめられながら、しかし顔は柔和で人の苦しみを見、それを許すという、実に良く出来ています。あれはペルー以外では手に入らないと思います。大好きなので、今でも僕の机の上に乗っています。これを見ると、イエス様は優しい顔と同時に、手足が大きい。何故かと言うとペルーの農民だと言うんですよ。農民は貧しいから、裸足で働いているから、手と足が発達して、ごつごつして大きいわけです。ペルーの苦しみをキリストが背負っているという意味だと僕に呉れた人が言いました。なかなか意味があると思います。つまり、ペルーの苦しみを植民地主義の結果であってけしからんと言い、腹立てているだけでなくて、その中にキリストがいる、ということをペルーの神学、信者は感じているわけです。手足が大きくなる程働いても、貧しさは克服できないのです。そのペルーの人達の貧しさというのは本当に、現代における、第3世界の貧しさの象徴だと思います。それに対して南米はカトリックの国ですから非常に信仰が篤い、それをどういう風に考えたらいいのでしょうか。
 もう一つあります。解放の神学が現れたもう一つの理由は、そういう事に対して教会は本気になって、本質的に考えていないのではないかということです。やはりペルーの教会は大きくて立派で、金ぴかなのです。それはやはり腹が立つのでしょう。そういう点で、ウケイスという神父さんが考えたのは、いや、ここにこそ、キリスト教の本当の存在理由がある、この苦しみの真っただ中で、しかも、キリストは今も生きている、といういわゆる受肉の思想ですね。そういうものもあるんだということです。私もつくづく、キリスト教というのは何なんだろうとこの頃よく考えます。キリスト教というのは面白い事に非常に歴史的で、歴史の事実の上に立っている。理論の上ではないのです。理論は後で、事実は神の子が人間になって、最も貧しい者、生まれる時は人間の家でなく馬小屋で生まれ、死ぬ時はベットの上ではなくて木に吊るされて死んでしまった、そういうことで神は人間を救ったのだ。それがキリスト教です。


「金冠の十字架 」 金芝河氏の場合

 それがいつの間にか、風刺の文学者、金芝河の、金冠のキリストという劇があります。名古屋の名古屋劇団というところで上演しました。その時呼ばれて、難しいから分からない、金冠のキリストって何を言っているのか説明して下さいと言われて、楽屋へ行って説明したわけです。何故金冠のキリストなのか、キリストは金ぴかの十字架にかかったわけでもない、金ぴかの冠をかぶったわけでもない。だけども、そういう金冠にしちゃった現代の金持ちのキリスト者、すごく皮肉な劇なんですと。痛烈な金芝河というカトリックの詩人が放った一つの批判です。彼はそういう事をやり過ぎたので結局、共産主義者だということで死刑の判決を受けたわけです。それは僕らも非常に印象が深いのです。死刑の判決を受けた、カトリックですから、そこの神父はちい司教というんですが、その司教も捕えられました。共産主義は殺してもいいというのが、朴時代の韓国の右傾方向だから殺しちゃうわけですが。朴独裁、かたっぱしから神父が逮捕されました。中に司教も入っていた、ちい司教です。金芝河が捕まったのは、あまりに痛烈にそういう独裁者、政府、為政者、金持ちを詩や小説で徹底的にやっつけたためです。そこで、彼を捕まえて、それを庇ったちい司教を捕まえて、ちい司教は7ケ月ぐらい牢屋にいて出てきたわけです。金芝河は牢屋にいて、結局最後の判決は死刑だった。これは大変だというので、日本の有志も彼をなんとかして救おうというので世界中の人に、神学者、哲学者に300通くらいアンケートを送って、金芝河という人は本当に共産主義者でしょうか、というアンケート出したんですよ。そしたら全部、少なくともヨーロッパからは、ヨーロッパではああいうのは共産主義とは言わない、という返事がたくさん来て、それを全部コピーして裁判長と司法、法務大臣に送りました。結局、段々、減刑されて今は家へ帰っておられますが悲壮な人です。彼は拷問を受けて、「私は共産主義者です」とサインしてしまいました。証拠は残っている、サインしたから。それで、彼は、判決の前だと思いますが、良心宣言というものを書いたのです。実は、あれは拷問の極致で、書かされたのであって、あれは私の本意ではないという事を5枚くらいの紙にびっしり書いて、送って来ました。日本の有志にです。それをみて僕は吃驚しました。そういうのを日本に送った人も発覚すれば捕まるし、誰が送ったのかいろいろ聞いて見たところ、何と70歳くらいの神父さんだそうです。俺はもう70年生きたから死んでも良いから俺の名前で送れよ、と言ったらしいのです。その神父さん捕まったかどうか知りませんが、そういう風に、国家に不利な事を国民に知らせる事は恐ろしい罪になったのです、当時の韓国では。それで、「良心宣言」で自分は拷問の結果、確かにサインしたが、あれは自分の本意では、全然ないと知らせたわけです。
 僕は拷問の本を読んだ事があります。アムネステイが出している「現代の拷問」という本です。面白い、と言うより血腥い本です。現代の拷問はすごく進歩しているそうです。薬、電気あらゆる物を使う。それで、全然、自分がした事のない殺人を、自分がしました、と言わせる事は、今の拷問の技術では難しい事ではないのです。普通の人はみんなひっかかってしまう。それを利用して、幼稚園の生徒が先生の言う事何でも鵜呑みにするように、鵜呑みにさせる技術もある。一つの例を上げてありましたが、物凄い拷問をして、拷問している本人がもう止めておけ、やめとけ、タバコでも飲めよ、と言ってホッとさせて、上手にやっているというのです。その人の言う事は幼稚園の先生のいう事聞くように聞いちゃうと言います、心理的に。はい、いいです、と言えばタバコが飲める、という条件反射になってしまう。そういう事がその本に書いてありました。世界で拷問しない国は殆どないと書いてありました。ただ拷問するというのではなしに、拷問を法の執行の組織的部分にしている国が殆どで、白状させる為には拷問使って、白状させて、そして裁判にかけるという、つまり、法廷手続きの中に入っている国が大部分だというのです。その時で嬉しかったことは、日本は不思議にそういう例は一つも出て来なかったことです、その本全部読みましたが。もっと面白いのは、その本に濱尾さんにも読みなさいと渡したのですが、2・3日過ぎて厭だ、あんなものは気持ち悪くていやだから、読みたくないから返すよと言って返して来たんです。濱尾神父さんのこと、気の優しい人だなと思いました。そういう凄い本ですが、その中で拷問というのは、あるテクニックなのです。薬、とか、マインド・コントロールです。薬で、言われるままになってしまう、そうなるように仕組んでいくわけです。電気ショックもあるし、拷問もあるし、いじめるし、いじめておいて、いちばん悪い奴が親切そうに可哀想、痛いだろうって慰めの言葉と共に、タバコを飲ましたりする。その人が天使みたいに見えてくるらしい。
 そういう術策に落ちて、金芝河も、自分は共産主義であるという調書にサインしてる訳です。実はあれは拷問の結果で、私の本心と全然違うと言うために「良心宣言」というものを獄中で書いて、韓国の牢獄というのはそういう人の味方も沢山いるらしく、悪い奴は凄く悪いんだが、刑務所の下のほうに居る人が、あれは可哀想だ、助けてやろうと思っている人もいるし、味方もいるわけです。それで、結局いつの間にか、減刑になって10年くらいで出て来ました。そのいわゆる拷問の結果、白状する。白状という事も、その前の段階を見ないと、本当の白状かどうか分からない。いわゆるマインド・コントロールされて、ある人のサジェッツションには無意識に従ってしまうような状態に追い込まれる。その頃から韓国では、金芝河の例に従って、捕まる前に良心宣言を書いておく人もでてきました。拷問を受けたら、何言うか分からない、気が弱いから、痛いから。しかし、それを私の心と思ってくれるな、という意味です。良心宣言を書く事が一時はやったんだそうです。金芝河はまさに、圧政者、権力者がやっている事への一つの反抗、最後の抵抗として、書いた後から良心宣言を持ってきて、それをまた日本で訳して公開されたわけです。やはり彼は詩人であり小説家だから、持つてくればよかったけれど、それが凄い名文です。
 権力者が、そこ迄悪い事して、人を自分の思うままに操るということが現代の非常に恐ろしい事実としてあります。麻薬も使うし、大変恐ろしい。そういう事から、解放するという意味も解放の神学はある訳です。今のは、韓国の例ですが。


第三世界と国際資本……いまなお収奪される人々

 中米の例は植民地時代の宗主国、スペインとポルトガルの二つの国が、ヨーロッパ全盛時代にあそこを全部占領したわけです。その人達は、そこの人の事は考えず、そこからどれだけ利益を取るかという事しか考えないで政治をしていたわけです。他人の子で自分の子でない、そういう感じの中で社会が出来て、それで虐げられた人は徹底的に虐げられる。ペルーから貰ってきた十字架のように、手も足も使い果たしてごつごつになる。そういう人の中にこそキリストは居るという、新しい解放の神学があるわけです。解放の神学というのはそういう点でただ、労働問題の解決の為に神学者が言ってるというのではなくて、非常に深いものがあります。最近、腹が立ったことは、ある教会で有名な人が、共産主義は潰れたから、もう解放の神学は要らなくなったねと言ったのです。しかしそれは非常に浅い見方だと思います。解放の神学というのは、共産主義に対しても、そこからの解放という事も入っています。人間の解放ですから。共産主義というのは、共産主義が何故生まれたかというと、初期の資本主義に於いて、その当時の法律は社会法が無かったため、資本家が金を儲けるためには何でもするという状態でした。そういう資本主義の下に於ける資本家の横暴と、いろんな酷い事が起こって、それに対する対抗として、マルクスやレーニンという人が労働者が団結して、それと戦わなくては駄目だ、と言い出したのが共産主義の基です。戦う方法としては、いわゆる逆に憎悪、資本家に対する憎悪とか、為政者に対する憎悪へと駆り立てて、暴力を使っても、そういう世界はひっくり返そうというのが共産主義の根本思想と言っても良いと思います。その基には勿論、労働者も平等である。労働者をいじめる事はけしからん、というそういう正しい反応もありますが。もう一つは、資本家が物を、財産を作って、私有権、個人の所有権を持っている。それは人から侵されない、法律ではそれを守る。そういう事は無制限に認めるから、もの凄く大きな富を持つ人があると、その為に周りの人は全部貧しくなってしまう。そういう事に対して共産主義は富を持つ事まで禁止しようとします。ソ連はは私有財産を認めなかった。資本主義社会の対症療法、資本主義社会の害を無くするためには共産主義だと決めて、暴力革命、そして私有財産を認めないことになったわけです。しかし、今度は共産党は或意味で前の為政者と同じく、独裁的に国を治めて、あらゆる者に全部言う事を聞かせるようにした。共産主義というのは確かに、資本主義の弊害を正すために起こったけれども、使った薬が治す代わりに、飲んだ人を殺してしまったわけです。というのが共産主義の非常に簡単な説明だと思います。ソ連ではそれを使って50年経ったところで、こんな事ではやりきれないといって、ロシアは共産主義を全部止めたわけです。怒ったわけです。共産主義を押しつけてきた政府に対して反対したのが、人間の自由があると言ったゴルバチョフです。もう一つ非常に恐ろしいのは、資本家の財産を否定すると同時に、労働者の権利も否定してしまったことです。労働者は党の言う事を聞かなければならない、と言って労働者自身の独立性を奪った。共産主義というのはそういう点で、資本主義の弊害に対する対症薬として自らを主張して、それを飲むと薬が薬害で、変な例えですが、その社会を悪くしてしまったというのがロシアの例なのでしょう。人間の尊厳と人間の自由を持つという、これは非常に大事なことです。
 共産主義は、また、自分の家族を守る為や自分の働きからでた財産を持って自分の家族を養っていくという家庭生活とそれにまつわる家長の責任という様な事もなくなって、全部国家がやるということで、ある時期、共産党は子供の食事まで全部国でやったわけです。親にやらせなかった。私情が入っちゃいけないと。だから、資本主義は確かに悪い事がある、事実ある、今でもあるが、それへの薬として提出された共産主義と称する特効薬として売り出して見たら、それが今や人が死んでしまう。簡単に言うとそういう事があるわけです。
 私が言いたいのは、共産主義の影響を受けた解放の神学は、共産党が駄目になったからもう要らないんだ、という人を非常に浅はかだと思います。というのは、共産主義が起こってきた理由・原因は未だにあるからです。もとは資本家の横暴で、初期の資本家というのは個人でした。大きな会社を持っていても社長一人、しかし今は国です。国の力でよその国の資源をどんどん吸い上げて、そしてある国は富んでいくし、ある国は益々悪くなる。そういう点で資本主義の害毒はむしろ大きくなってきているのです。資本主義がもう変形して、国家資本主義になっていて、資本主義の害毒が、何処でも表れています。つまり、最貧国が益々貧しくなって、立ち上がる事が出来なくなっています。みんな持って行ってしまう。 私が中南米に行ったり、あるいは東南アジアへ行ってつくづく思うのは、今はいわゆる植民地ではなくなったけれど、しかし、植民地時代に行った政治をそのまま、現地の金持ちや権力者が継承しています。だから、さとうきびの会社を見て見ると、地主は砂糖をフィリピン人に提供する為に作らせているのではなくて、それを売って儲ける為に作らせています。だから、それを作る人は機械の如くさとうきびの栽培に従事しているのです。フィリピンの人は自分の食べる物を作れないんです。フィリピンの地主というのは、大体都会、マニラにいる。マニラに住んでいて、自分の地所を支配してるのは、管理者、あるいは仲買者と称する人が全部管理して、それから吸い上げて、自分はお金を貰うわけです。だから、本当の地主は土地を見た事もありません。ある時、農学の先生と話していて質問したのです。フィリピンの農村って不思議ですね。堆肥小屋が全然ないですね。その人が言うには、堆肥を作るというのは自分の土地を良くする為で、地主は土地を見た事がないから、土地に対する愛着がないし、管理人は自分の土地でないから、そこで胡瓜や茄子を作ると、持って行ってしまう、全部持って行かれるから農民も自分がそこで何かしようとする気がないから堆肥を作らない、ということです。土地に対する愛情というのは農業の基礎、基本なんですね。土地を耕して、良い土地にして、豊かな収穫を上げようというのが農業の基本ですね。そいう事はないですよ、と言われて吃驚しました。その先生は、フィリピインの大学の農学部を出て、土地をいじる人は一人も居ません、と言いました。泥いじる事は軽蔑されている、とも。じゃ農学部出て何になるんですか、と聞いたところ、役人になるというのです。フィリピンに於ける貧しい人とその働き、フィリピンだけではない、韓国も同じ、中南米も同じことです。フィリピンでの小作料は大体法律では2割ですが、実際では5割ということで、作物2つに分けてこっちは地主、こっちは百姓というふうだそうです。こっちはそれで自分が食べなくてはならないのだが、それを売って肥料も耕運機も買わなくてはならない。結果は赤字だとよく言われます。フィリピン農業は常に赤字です。日本も農業機械買う為に借金するとよくいわれますが、不法地主がどんどん吸い上げて行くし、それプラス世界の多国籍企業がどんどん入ってきて、農産物を作らせて、それを買いあげ売って儲けている。第3世界のひどい状況にはなんと言ってもアグリビシネス、農業会社ね、世界の非常に大きい世界農業会社というのは、食糧の値段のコントロールもしています。日本でお米が余っても、よそへ安く上げられない。お米の値段下がるからと断られてしまう。人が飢えても値段下がらないように、そういうアグリビシネスと大地主の影響で、農業も工業も結局、第3世界を絞り上げられるだけ絞りあげているのです。


貧しさからの解放こそ世界の急務

 そういう意味で資本主義の欠陥は、人はいくらでも儲けて良い、儲ける為に何でもしてよいという出発点があるわけで、共産主義がなくなったからといって、これらは無くならないのです。そういう意味では共産主義は今も残っている。共産主義が良い薬だったら資本主義の悪の原因を治してしまうが、駄目な薬なので原因は全然治していません。
 そういう意味では今もリベレイション、貧しさからの解放は、国家的・世界的レベルで今本気で問題になっていると思います。地主とか金持ちは国際的に連合して世界銀行とかIMF、そういう金融を通して支配しています。IMFは嫌われています、吃驚するくらいです。日本ではあれがお金をだして呉れれば、国は生き返るといいますが、すごい条件があるらしいです。投資して貰うためにああしろこうしろと、それを全部すると、投資して貰う国の方が干上がってしまうのです。そこで働いている農業会社とか、多国籍企業がうまくいくようにお金を貸してくれる。言いたい事は一つです。共産主義が無くなったから、解放の神学は要らなくなったんじゃないか、という人は共産主義が起こった原因を忘れている訳です。共産主義は、あれは唯物論で階級主義で暴力革命だからいかんと、教会の人達は言います。そこで今、共産主義がなくなったら、あとは良い世界になるかというと、そうではありません。起こした原因は残っているのです。もっと悪くなったと言えるでしょう。昔の資本主義は個人でしたが、今、国が、国ぐるみ或いは国を超えた会社の、いくら金を儲けても良いという原則のもとに起こっている社会現象ではないかと思います。もう一つ言いたいのは、自由主義といいますが、自由主義社会で何が残っているかというと、結局、人の本当の自由という事については無視して搾取して、労働者の子供たちは学校へ行けなくしてしまう。いわゆる自由社会が大事にしてるものは、いくら金を儲けても良いという自由だけを大事にしているのです。金儲けに対して政府も国も文句を言わせません。特にアメリカあたりは、資本家のいくら金を儲けても良いという自由が、いちばん大事な自由になっている。人の意見とかの自由じゃなくて。
 自由の中には何処に住むとか、何処で結婚するとか、なにを買うとか、それは自由だ。自由を守るわけですね。世界人権宣言という有名な日本の憲法のお手本みたいなものもありますけれども、国連で出した、1984年に出した、世界人権宣言というのはとても良い凄い文章だと思います。それにも書いてあるように、いろんな自由を守らなくてはいけないんだけれど、いわゆる資本主義的自由、いくら金を儲けても良い、金は集まると益々増えるという自由は、小さいお金はどんどん減る、小さな財産はすぐ無くなるということでもあります。ちょっとした社会の変動で大きい金は雪だるま的にふえ、世界のお金が少数のブロックに集まっている。それをあまり集まりすぎると危ないからといって、調整しているのがIMFであり世界通貨基金GATTといいますね。G7などは大きな金持ちの間の調整みたいな事をしているのですが、根本的に貧しい人との調整は全然やっていません。


「解放の神学」の目指すもの……ひとりひとりは神の似姿

 そういう意味で「解放の神学」の大事さは何かというと、人は全て平等で一人一人を大事にしましょう、というキリスト教的、一人一人は神の似姿だということに基づいて、そういう経済的問題に真面目に取り組もうとしていると思っていいのではないでしょうか。少し簡単過ぎますか。お金はいくら儲けてもそれは自由だから、絶対に保護さるべきだ、という事は、実は資本主義社会も社会主義の影響を受けて少しは税などで緩和してますが、根本的にはそうです。国際的な資本主義には法律が掛からない。多国籍企業というのはどういうのかというと、世界中で働いているでしょう、本社は日本にあっても、働きについては何処の国とも無関係に働いちゃうから、法律で抑えられません。  それではどうしたらいいのかという事をカトリックの神学の教えはどう考えているのでしょうか。いちばん凄いと思うのは、1891年、100年前にレオ13世という教皇が、偉い人で予言者みたいな人だと思っています。あの共産主義のいちばん盛んな時に、共産主義は結局人を不幸にするという事をはっきり言っています。今から読んでみると驚きます。レールン・ノワール、新しい時代、新しい状況とでも言いますか、「レールン・ノワール」を書いたレオ13世が予言者的に共産主義の欠陥、これは決して人を幸福にしない、という事を非常に断定的におっしゃったのです。一般に、当時の資本家は労働者を圧迫して奴隷の如く扱っていたと書いているんです。そういう社会を直すために出した共産主義を、これはまた酷い事になって、労働者の権利まで奪ってしまい、自分たちのやりたい事をやりだすであろう、これは絶対にいけないと言っています。レールン・ノワールというのを、一度お読みになったらいいと思います。今読むと良く分かります。何故かというと、共産主義が潰れたわけですから。中国とか北朝鮮とか残ってますけど。大学でマルクス経済学教えた先生、いま何してるんでしょうか。駄目な経済学教えても駄目だから。レールン・ノワールでは、人間性に反してるという事を非常におっしゃっている。つまり、財産というものは、各家庭が円満に行く為に、人間が自分の働きの結果を自分で所有して、それを通して子供たちを養い家庭を養い、できればわが子を養うというその努力というのは非常に大事な事で、人間社会の中心である。そういう事を認めない、私有財産を認めないという事は社会として必ず破綻するという事をいってるいます。(速すぎて聞き取れず)凄いと思いました。そういう点で、私達は、いわゆる私有財産の弊害の大きさばっかり言って、私有財産のもつ大事な意味をとらえていないのではないでしょうか。自分の家と財産を作る為に、努力していくという、そういう点では人間の大事な本性に比べて、ここでは社会主義と言う言葉を使っていますが、完全に唯物的な、そして革命思想の社会主義は、本来人間に反しているということをずばっと仰った。丁度100年前ですから。
 いままでは、社会主義、資本主義の害毒の話とか、共産党の話をしましたが、もっと積極的な話をしますと、1984年に有名な世界人権宣言、というものを国連で確立しました。全世界の国が賛成しました。教皇ヨハネ23世もパウロ6世も、国連の素晴らしさは世界人権宣言だ。その第1条はこんな風ですね。全ての人類の構成員は、すべての人に共通で、すべての人に対して共通で、全ての人の間で差別が無くて誰でも持っている人間の尊厳を……(テープおわる)


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