「誰が強盗に襲われた人の隣人になったのか」

委員長 竹谷 基

 私たちキリスト者は何故キリスト者として留まっているのか。よく言われる「死後、天国、永遠の生命に至るため」なのだろうか。あらためて考えたい。ヒントにするのは、ルカ福音書の「良きサマリア大」の讐えだ。イエスがこの讐えを語った背景はユダヤ教の律法(生き方、歩き方の意)の専門家から「永遠の生命を得るには何をしたら良いか」との質問を受けたとある。その質問の答えにイエスはユダヤ教の根本的生き方、所謂、「神と隣人への愛」を示して、次のように言った「それを守れば生きる」と。質問者は「永遠の生命を得るには」と問いたのに対し、イエスは「生きる」と答えられたのだ。つまり、ユダヤ教は死後の幸いを得ることのためにあるのではなく、[生きる]こと、現生を如何に生きるかを課題としているのだ。出エジプトの物語は奴隷的人生から自律した生き方への旅を示している、モーセが得た律法はその旅への方向指針として神が示された言葉、だと言われている。もちろん、イエス時代のユダヤ教は終末思想、来世への希望が焦眉の問題であった時期だったからの質問であったでしょう。しかし、イエスの眼中には来世の心配より、今、苦難にある貧しい人々を放ってはいられなかったのでしょう。

 さて、「生きる」とは「何か」としてこの讐えを語られた。讐えの主旨は、「隣人とは誰か」を議論することではなく、傷ついた人の「隣人」になることこそが「生きる」ことを示している。関わるべき「隣人」とは誰かと選別して関わるのではなく、まず、目の前に倒れている人に手と心と財布を開けろ、とイエスは言う。と言うのは、旧約聖書では「隣人」とは同じ契約を結んでいる人同志のこと、即ち、「隣人」は誤訳と言われている。ヤーウエ神の提示する生き方に同意し、契約する人を指すのだから、契約を破る人、つまり、「罪人」は「隣人」とはならない。故に、ファリサイ派のシモンがイエスとの会席の場に、「罪人の女」が入ってきたとき、不快感を示し、罵倒した訳となる。他方、イエスは「隣人」の壁を壊し、拡げた。遊女、取税人、「罪人」らと食事し、ライ病人と関わったからだ。また、「穢れた人」は「罪人」と同意語だから、その典型的な「死者」、「血を流した者」とは関わらないのが「正しい」ファリサイ派だった。イエスは旧約聖書の「隣人」を拡げた、そして、関わられた。 さて、この讐えでイエスの言う「隣人」とは『強盗に襲われ傷ついた人』を助けた人を指しているが、現代における『強盗に襲われた人』とは、先日のダッカ、他の各地でのテロによる犠牲者やシリア等からの難民、通り魔殺人の被害者、原発事故の被爆者、避難民、自然災害による犠牲者、また、ワーキングプアや失業者たちを挙げられるだろう。それらは、権力が誰の「隣人」になっているのから来る犠牲者と呼ばれるのだ。現政権は富裕者、支配者層の「隣人」になっている。テロはゆるされないが、それを起こす大国による犠牲を取り除かなければ、犠牲者は増え続けるしかない。

 選挙は、犠牲者を増やす社会構造を変える一歩ではないだろうか。つまり、『強盗に襲われた人』の「隣人」になることなのだ。さあ、選挙へ行きましょう。