「私に何ができるか−人はパンのために生きているのではない−」

三本木國喜

  イエスは弟子たちを派遣して言いました。「全世界に行って,すべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」―その弟子たちの中には,きっと私も含まれていると思います。すると,私も全世界に行かなければなりません。もちろん,回り尽くすことはできませんから,ごく一部のところだけですし,できることもごく僅かです。でも,とにかく出かけて,何かやらなければなりません。そこで問題になるのは,「私に何ができるか」です。

 乏しい私の才能でやれることは,極めて限られていますし,もはや人生に残された時間も僅かです。「いつまでもあると思うな親と金」という川柳がありますが,私自身の命もいつまであるのか,大変心細い段階に来てしまいました。そこで,私にできるかを考えることが,焦眉の急となったわけです。

 私になんとか人様並みにできることと言えば,「学ぶこと」です。これだけは,何か問題にぶつかると,どうしたらそれが分かるかを調べることは,割とうまくできます。それなら,その「特技(?)」を活かして,たとえば,「福音を宣べ伝えなさい」と命じられたら,周りの人たちに,福音を分かり易く話すことができるように,「福音を学ぶ」という仕事をしたらいいのではないか,と考えた次第です。そこで,80歳を目の前にしながら,大学院の経済学研究科に入って,「経済を福音の立場で考えたらどうなるか」という問題を追究しようと,志を立てました。まず,福音書を最初から読み直す,というところから始めましたが,早速,面白い考え方がいくつか得られましたので,その一つを紹介します。

 イエスが荒れ野で四十日の断食をして,空腹を覚えられた時,サタンが来て「神の子なら,これらの石をパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しました。これを「経済学的」に考えたら,どういうことになるでしょうか。

 これは実は極めてactualな問題につながります。つまり,このサタンのせりふと全く同じことを,東京電力が言っているのです。パンは人間の生活に不可欠のものです。現在,パンと同じく生活に不可欠なものに,エネルギーがあります。その一つが電力です。一方,ウランは鉱石です。すると,サタンの誘惑のせりふは,こう言い換えることができます。「エネルギーが欲しいのなら,ウランを電力に変えたらどうだ。」

 こうして,「東電=サタン」という図式が,見事に明らかになりました。

 しかし,イエスはそれをきっぱりと退けます。「人はパンのためにのみ生きているのではない。むしろ神の口から語り出す言葉のために生きるのだ。」

 原発の再稼働を執拗に企む者に対して,私たちもイエスのように決然としてNOと言うべきではないでしょうか。

 ―ところで,この「生きる」という言葉の元のギリシャ語は未来形です。なぜ未来形なのかを考えると,また一つ面白い知見が得られますが,それは別の機会に。

(※三本木さんは,見事,大学院に合格し,今年4月から通学されています。)

戻る