「四人の友だち」

竹谷 基(神言会司祭)

 先日、ある大学でキリスト教についての授業を担当している教師から聞いた。学生450人のうち50人が自殺願望を持っている、と。これにはびっくり、日本では1998年から14年間毎年3万人以上自死している、ことにも驚くが、20歳前後の若者にそれ程の願望者がいることに、驚きと同時に悲しくなった。それほど今の日本には希望がないのかと。私の関わっているホームレスの人々への炊き出しには減っているとは言え、毎回、200名前後の方が利用に来る。そんなに多くの人が「豊かな国」日本に真冬でも野宿生活を強いられているなんて、経済大国と肩肘張っている日本が悲しい。

 若者が希望もって生きられるのは、どうしたらいいのだろうか。ホームレスの人が野宿生活を脱して、当たり前の生活ができるようになるにはどうしたらいいのだろうか。日本だけでなく、今の世界を眺めれば、失望ばかりではないか。政治、経済、環境と悪化の一方、一部の国と人が利益を得て大多数の国と人、自然は命を失っている。今回の福島原発事故はそれを象徴している。今の世代だけではなく未来の子どもたちの命を危険に晒している。グローバル化の下、1%の金持ちはチャップリンのモダンタイムスのように99%の人間を利潤追求の道具としてしか見ない。有用なものと無用なものに分け、使い捨てにされる。捨てられた人はホームレスか病院、刑務所に行くしかない。そうならないように、人は競争を強いられる。過労死にさらされながら、首切りにあわないよう頑張っている。勝つか負けるか、生き残るか、落ちこぼれるか、連帯や共生なんか考えられない。こんな世界では、若者に希望を、ホームレスに再出発を持たせられることは出来ない。キリスト教が祭儀や信心ばかりに熱心で社会から遊離し、その世界に無関心であれば、若者は自殺し、街はホームレスで溢れ、地球は滅亡するだろう。イエスの死を賭けた福音はそれだけなのか。

 人生は「死の陰を歩む」と言われるように、艱難辛苦は避けられない。人生を全うするにはうまく付き合うしかない。イエスは旧約聖書に則り、私たちに一つの生き方を示された。互いの重荷を持ち合って生きることを。 新約聖書マルコ福音書の「イエスは中風の人を癒す」物語には人との関わり方の典型がある。ある町の中風の人は神や社会を嘆き恨みながら家の隅で生きていた。と思うのは、何時何処でもそうだが、因果応報論で病を「罪」によると考え、また、「罪」を汚れとする宗教に生きる社会では、病気の人は立ち上がり、人として生きて行くことは出来なかったからだ。しかし、彼には、辛い苦しい人生にも唯一、幸いがあった。彼にはその苦しみを訴えられる友だちがいたのだ。友だちは見舞いに来るたびにその嘆きを聞いた。だから、彼らはその病の友人を、近頃、評判になった病気癒しのイエスが村へやって来たことを聞いたので、そこへ何が何でもと連れて来たのだ。病人は一人では立ち上がれない。友人がいて初めて動ける。しかも、友人が一人では,友人を担げない。四人以上いなければ、板に乗せて担げない。そうした四人の友人と病人の必死さはイエスの心を動かした。イエスの「罪のゆるしの宣言」は反社会的、反宗教的、反政治的な危険行動だ。しかし、イエスはそう宣言しなければ病人の置かれた状況は何も変わらない、立ち上がれない社会を肯定することになってしまい、病人には相変わらず何の希望もない生を送らざるを得なくなるが故に、非難、攻撃、あげくは十字架刑死になろうと、敢えて、叫んだ。病人を「罪人」と呼んで権利を奪い,正当な関わりを持たない社会に向かって、病者は「罪人」なんかじゃない、私たちと同じ仲間だ。神から命、健康、豊かさを戴いた私たちの責任は彼が希望に向かって立ち上がって前に進めるように手助けすることがではないか。弱者が胸を張って生きられるよう暖かい配慮する社会にして行こうじゃないか、と叫ばれたのだ。

 病人が立ち上がり、前へ進めるようになるには、四人の友人の力だけでは出来ない。病人を排除し権利を奪う社会、正当化する考え方、宗教を変えなければならない。言い換えれば、キリスト教徒がいくら祈り、典礼を祝っても、病人は立ち上がれない。病人を担ぎ、社会を変える働きが必要だ。

 聖書を書いたユダヤ教の民は、元々、奴隷などの最底辺のヘブライの人々であった。彼らは奴隷にとどまることをよしとせず、誰もが大切にされる社会、つまり「神の国」を造ろうとした。聖書としてまとめられた神のことば、掟と言われるのはそれを目指す「足の灯火、道の光り」であるから、彼らは、応えること従うことを自分たちの生き方とした。その教えに生きていた四人の友人、イエスは病人の苦しみを見捨ててはおれなかった。手をのばした、動いたのであった。同じく、マタイ福音書には、聖書の教えはつまるところこれに尽きるとの言葉がある。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい。」マタイはイエスという人をその言葉の体現者として見て取ったのだろう。あるいは、ルカ福音書には『サマリア人の譬え』がある。そこでは、永遠の命を得たい人に自分を優先するのではなく、まず、倒れた人を優先にする「隣人」になれ、と呼びかけている。ルカもまたサマリア人をイエスと同一した。 これらの物語や言葉は、即ち、イエスは私たちが周りにいる「重荷を負った」人々とどう関わるのか身を以て教えている。

 イエスの生き方は貧しく虐げられた人々からは熱狂して歓迎された。しかし、支配者層からは社会秩序を乱す者として十字架で処刑された。

 キリスト教はそのイエスの後に従う者たちが集まって出発したはずだ。若者が夢を持ち、ホームレスの人が人生を再出発でき、未来の子どもたちに豊かな自然を残す社会にすることはイエスの示された道を歩むことなのだ。

戻る