ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 長雨や 中央分離帯に キノコ生え 」
―もとゐ―


1999年9月26日()年間第26主日 マタイ 21:28〜32


21:28
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 私たちはその存在をイエスを通して神に受け入れられています
 この世の力ある者たちは自己の価値を自力においていますそのため自己の正統性を批判する者には耳をかさず力ずくでも排除しようとします洗礼者ヨハネの「悔い改め」の説教にはヘロデと共に彼を殺害しイエスの「神の国」への招きには彼を十字架刑で葬ってしまいました東ティモールで起こった悲劇も同様でしょう
 他方この世の弱者たちはその存在を強者たちによって規定され貶められ蔑まれるのですそれ故に彼らの人生には喜びと感謝を見いださせず嘆きと失意のみあるばかりでした従って洗礼者ヨハネやイエスの呼びかけは彼らにとっては藁にもすがるほどの希望と愛を与えたのでした
 この世の強者(=私たち)が己を見つめ直し神の慈愛に出会いその存在が許され受け入れられていることに気づくならばその恵まれた境遇を弱者たちと分かち合うようになるのではないでしょうか
 今も世界のいたるところでは強者が小さい人々を暴力で脅し支配し続けていますだからこそイエスと出会った者がその喜びと感謝を「自分の生命を捨て十字架を負って」分かち合わなければならないでしょう
 さあ声を大にしてこの世の支配者たちにイエスを語り続けよう

今週の一句
「 峠来て 虫のトンネル ラジオ消す 」
―もとゐ―


1999年9月19日()年間第25主日 マタイ 20:1〜16


20:1
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4
『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5
それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやり なさい』と言った。
20:9
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13
主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16
このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 イエスは罪業深重な私たちを生命を与えつくすほど受け入れて下さいました
 私たちの価値はどこにあるのでしょうか能力体力家系,地位財産にあるのでしょうかそれらはたまたまわたしに与えられたお恵みです朝一番に雇われた人は運が良かったのです夕方近く最後に雇われた人はたまたま不運が重なったのです運が良かったわたしは不運の多かった人のことを嘆かざるを得ませんいつ何時わたしにも不運が降って来るか分からないからです職にありつけたわたしはそれを喜ぶと共に他者と分かち合うよう呼びかけられているのではないでしょうかぶどう園の主人はみんなを喜ばせたかったのです「わたしはこの最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20: 14)
 私たちの価値はこの主人即ちイエスの一人一人への愛にあるのではないでしょうか私たちがこの愛に根差すとき与えられらた恵みに感謝し他者にお返しすることを厭わないでしょう
 さあ今朝も素晴らしい一日を与えられたことに喜びこの喜びの分かち合いに出掛けましょう

今週の一句
「 枕元 広大無辺の 虫の声 」
―もとゐ―


1999年9月12日()年間第24主日 マタイ 18:21〜35


18:21
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24
決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25
しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26
家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28
ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30
しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 イエスはわたしたちをゆるしに招かれました
 イエスはわたしたちの利己的生き方が「共生」に生まれ変わるようわたしたちを十字架上までゆるし続けましたまさにイエスはわたしたちのために自分の生命を捨て十字架を背負われたのです今日のたとえ話における主人の僕への「憐れみ」はこのイエスの生き様に他ならないのです私たちが他者をゆるすようにイエスは生命を捨ててまで人でなしの私たちを憐れんでくださったのです私たちはそれほどまでのイエスのゆるしに感謝する以外他はできません
 にもかかわらず一歩跳躍して私たちは他者との共生に自己を捧げて行きましょう

今週の一句
「 昼下がり 海に飛び込み 肌寒し 」
―もとゐ―


1999年9月5日()年間第23主日 マタイ 18:15〜20


18:15
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16
聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18:18
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18:19
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 イエスは私たちが自分の命を捨て十字架を背負ってついて来るよう招かれましたそれは人々と人生の喜びと感謝を分かち合うためでした
 さて今日の福音にはイエスの後に従う教会共同体における「ゆるし」について語られていますイエスに目を留められた私たちは「子供のような者」「迷い出た一匹の羊」即ち弱さと汚辱にまみれた者でしかなかったのですにもかかわらずイエスは私たちをゆるし受容し人生の喜びと感謝に招いたのでしたその私たちが呼び集められた教会共同体はイエスにおける会員相互のゆるしがその徴であります何故ならばイエスの招きは自己放棄と十字架という人間にはなし得ないことが求められているからですそれに応えるためには相互のゆるし,受容励まし合いこそが不可欠です
 ところが多くの人にとって教会は共同体ではなくミサに与かるための場所だけなのです十字架を共に負う箱船ではないのですむしろ教会で疎外を感じる人が多いのです
 私たちは何のために教会にいるのでしょうかイエスからいただいた恵みに喜び感謝して生きるためではないでしょうかさあイエスとの出会いの原点に帰って教会がゆるしの共同体として十字架を背負い合う群れになるよう働きましょう


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