ももちゃんの一分間説教


8月30日() ルカ 14:7〜14
今週のKey Word
「へりくだる者は高められる

(ルカ 14:11)


 イエスの他者と共に生命を分かち合う生き方はすべての人に開かれていますが「この世」では分裂をもたらしからし種のように小さく狭い道となっています
 「この世」の私たちの生き方は婚宴の上席に座ることを目的にしていますそのためには一流の学校への進学有名な会社への就職名門の家との結婚という狭き門を突破して勝利者にならねばなりません我が国では大蔵省のキャリア官僚のように接待を強要したり部下の話を机に足を乗せふんぞりかえって聞くことが「偉く」なったことなのであります「この世」では「偉い人」たちは弱い者知識のない者貧しい者病む人々を虫けらのように扱います仕事を失い家を失った人たちにはただ追い払って餓死しようが凍死しようが全く気にかけていません安息日に病人の苦しみに同情しないユダヤ人と変わりありません少し知識があり職を持っている者たちは彼らとの比較で「偉い」と自己評価し彼らは自分たちより劣っているから自業自得と見捨てています
 他方イエスの「神の主権」の下での生はすべての人を食卓に招かれますなかでも「この世」が拒否排斥する貧しい人病人外国人を招待しますしかし招待された「偉い人」たちは彼らと同席することを好まず出席を断わるのですその意味ではやはり入り口は狭いのですイエスの食卓は有償ではありません神からの一方的な贈り物です
 さあ私たちは喜んでその食卓を囲み合いましょう


8月23日() ルカ 13:22〜30
今週のKey Word
「狭い戸口から入るように努めなさい

(ルカ 13:24)


 イエスの生は「この世」に分裂をもたらしましたそれは利己主義的生き方から自己譲与的生「隣り人」に成る在り方への回心に私たちを招いています
 しかし三年もの間実を結ばないいちじくの木のように私たちの多くは自分の生活を守るためその呼びかけを無視していますまた18年の長い間病に苦るしんでいる女性を憐れまない会堂長のように多くの教会は病人や貧しい人々の隣人には成っていません更に今や教会は山の上にはなく声も挙げず「この世」に同化しています回心どころかますます紛争暴力貧困自然破壊が進行していますいったいイエスはどこへ行ってしまったのでしょうか
 今この世は圧倒的に利己主義に支配されていますその中でイエスはからし種という狭く厳しい入口であります私たちはその入り口を塞ぎ安易な生き方を好み身を滅ぼそうとしていますしかしイエスのように自己を分かち合うことによってしか世界は救われないのであります
 さあイエスといっしょに狭い戸口をくぐりましょう私たちはイエスのからし種のパワーで大きく変身出来るでしょう


8月16日() ルカ 12:49〜53
今週のKey Word
「むしろ分裂だ

(ルカ 12:51)


 「目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ」(ルカ 12:37)
 イエスが招かれる「隣り人に成る」ことは私たちの人生の随意的な事柄ではなく責任でした
 しかしこの「隣り人」に成ることは「この世」的生き方と対立しますそれは「この世」的生が倉を大きくし自分の快楽のために富を蓄える金持ちであり 弱い者のことを省みられない有能なマルタであり私たちの糧ではなく「私の糧」を求める祈りであり強盗に襲われ倒れた人を無視して自己の立場を守る祭司であり優秀さを競う律法学者の生即ち自己増殖的生であるからです他方「隣り人」に成る生はサマリア人のように危険を顧みず無になること羊飼いのようにいなくなった羊を損害や非難を恐れず探し続けることそして十字架の死まで己を空にし隣り人になり続けたイエスの生即ち自己譲与的生です
 今日の私たちの生活はますます自己防衛的になっています失うまい手放すまい見逃すまいと隙を窺いつつ利益を得ることに専心しその結果他者の苦悩悲しみに無関心となったり同情しつつも身を切るまでは手を差し伸ばそうとはしません無関心の故私たちの周りには居場所のない子ども老人障害者ホームレス外国人が溢れています利益を守る人々は彼らを排除するばかりであります
 イエスはユダヤの人々から排除拒絶されたザアカイの隣人に成ったため拒否磔刑に処せられました
 「隣り人」に成ることは私たちを分裂させますしかしそれは共生へと向かいます
 さあ自己を空にし「この世」と分裂した生を生きましょう


8月9日() ルカ 12:32〜48
今週のKey Word
「主人の思いどおりにしなっかた僕はひどく鞭打たれる

(ルカ 12:48)


 慈父母である神のもとに生きたイエスは己を空にし無力である人々の隣りに座りましたそのイエスに出会い神のもとに「新生」を与えられた私たちは同じく「隣り人」になるよう招かれています
 さて「隣り人」になることはわたしたちの責任であると今日の福音は語っていますそれは主人の帰りをいつでも用意して待っている忠実な僕として譬えていることからわかります私たちの生は僕の仕事のようなものであります主人から任せられた僕は主人の思いを忠実に果すことが求められています同じように私たちはユダヤ教指導者のように貧しい人たち病人たちを差別し抑圧して利益を得たり(ルカ11:45参照)あの金持ちのように蔵を建てそこに自分の富を蓄えるように人生を自分のものと錯覚してはいけません私たちの人生はイエスやサマリア人のように自分を無にしてあるいは「売り払って施し」貧しい人々と共にある「任せられた生」なのであります
 世界各地の紛争や飢えあるいは我が国の子供たちの叫びが連日報道され続けています私たちがそれらの訴えに耳を貸さず立ち上がらなければ慈父母の神は私たちを「ひどく鞭打たれる」のであります
 さあイエスの命を贈られた私たちは分かち合う生に変えて行きましょう


8月2日() ルカ 12:13〜21
今週のKey Word
「お前が用意した物はいったいだれのものになるのか

(ルカ 12:20)


 「主の祈り」を祈る度毎に私たちは自分の糧だけではなく「私たちの糧」をも求めています
 さて今日のたとえ話は「この世」の至上とする生き方を批判し「神の国」における生への方向転換に導いていますある金持ちは自分の倉に一杯宝を蓄えることが生きがいでありました今日と同様に古代ユダヤにおいても金持ちは貧しい人々を搾取していました「災いだ家に家を連ね畑に畑を加える者はお前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めしている」(イザヤ 5:8)「彼らが正しい者を金で貧しい者を靴一足の値で売ったからだ彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ 悩む者の道を曲げている父も子も同じ女のもとに通い 私の名を汚している」(アモス 2:7)
 この金持ちはあくどく金を儲けることさへ自己の才能のなせる業として誇っていました律法学者は天才と誉められることを求めマルタは有能さこそイエスに認めてもらえると信じていました彼らは一様に自己に宝を積み他者の痛み苦しみには無関心でいました
 しかしそもそも私たちの能力は自分のものでしょうか命が与えられたように才能も私たちに贈られたのですそれは自己への奉仕に用いられるためではなく他者への奉仕のためにいただいたのです
 この金持ちは蓄えた物で「ひと休みして食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言いましたそれに対しイエスは「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と呼びかけましたイエスには無力な私たちを養い育てる慈父母の神へのの全き信頼に生きていました私たちに必要な物は神が備えてくださるだから蓄えることはいらない欠けている人たちに分け与えなさい
 私たちが無力であり空っぽであるならば慈父母の神におまかせしマリアや襲われたユダヤ人の隣り人になることが出来ます自分の才財に頼るならば思い煩いし他者を傷つけるのであります
 さあ自分のパンが私たちのパンになるように「主の祈り」を祈りましょう


7月26日() ルカ11:1〜13
今週のKey Word
「求める者に聖霊を与えてくださる

(ルカ 11:13)


 無力なマリアと共に座りなさいとイエスは私たちを招いています
 イエスを試みた律法学者は自己を誇ろうとして「隣り人」に成れませんでしたマルタは自己の有用性に頼りマリアの心に気づきませんでした同様に私たちも自分の信仰の強さを認めてもらおうと例えば祈りをこんなにたくさんこんなに長くやっていますと自慢げに話しまた私の祈りは聞き入れられただからあなたも祈りなさいと説教したりするのですこの場合の祈りは神を利用する祈りとなっています
 しかしイエスの教えた「主の祈り」は自己を立てるための道具ではありませんむしろ罪深く無価値な私を認めさせ無力な私を嫌悪させてしまいますそんな私をも受け容れ許して下さる神の慈愛を想い起こしたとき神と他者に仕えて生き直そうと私を奮い立たせます無力な私を立ち上がらせるのは聖霊でありますそれゆえにイエスは祈り求める私たちに神が「聖霊を与えてくださる」(ルカ 11:13)と言明しました
 マルタは自分の無力さに気づかなかったのですそのためにマリアの隣りに座れなかったのです私たちも自分を優秀だと思っている限り自分の弱さを認めず他者を非難しいじめているのです
 「主の祈り」は私たちを他者との共生に導きます
 さあ私たちはマリアといっしょにイエスの前に座し聖霊に強められて苦難にある人々のもとへ行きましょう


7月19日() ルカ 10:38〜42
今週のKey Word
「良い方を選んだ

(ルカ 10:42)


 わたしたちの福音宣教は自分を捨て「隣り人」になることであるとイエスは語られましたしかしイエスを試みたユダヤ教律法学者は自己を保存し自己の正当化を主張するため「隣人」の概念を問うのみでありました
 マルタにとってイエスを喜ばすためには自分の能力をフルに使ってもてなすことでしたマルタは今日こそ自慢の料理をイエスに食べさせようと夢中で猫の手も借りたい程だったのですそしてマリアの手助けがあれば完璧な料理を拵えられると思っていたのですけれどもあてにしていたマリアが何もしようとしないのでマルタは焦ってイエスがマリアに命じるよう苦言を呈したのです
 マルタの心は自分のことで一杯で,マリアの立場をおもんばかれなかったのですマリアは体調がすぐれなかったかもしれませんあるいは悩みが一杯でイエス慰められたかったのかもしれませんまたマルタのように働くことは苦手だったのかもしれませんマリアに出来ることは無力な我が身をイエスの前に晒すことだけでありました
 私たちも日々成果を得た人たちには努力家偉い人と賞賛し成果のない人々には怠惰,無能と蔑んでいます
 強盗に襲われ半死半生となったユダヤ人は律法学者にとって関わるに値する人ではありませんでした律法学者には掟の一点一画も漏らさず暗記することの方が利益になり名誉になったのです他方サマリア人にとってはともかく近寄って行くべき人であってたとへ身を削り災難が降りかかることになったとしても介抱しなければならない人であったのです
 マルタにとっての「良い方」とはマリアの傍らに座ることでしたマルタにはマリアと共にイエスの話を聞くことがマリアを裁くのではなくマリアの「隣り人」に成ることだったのですイエスがマリアの「隣り人」であったように
 さあ私たちもこの世の尺度で人を批判するのではなくイエスの目神の心を持ちましょう


7月12日() ルカ 10:25〜37
今週のKey Word
「ある律法の専門家が立ち上がりイエスを試そうとして言った

(ルカ 10:25)


 イエスは弟子たちを派遣したように私たちを福音宣教に招かれますイエスの宣教は悪霊を退治しました(主よお名前を使うと悪霊さへもわたしたちに屈服します同10:17)そしてその驚くべき宣教に遣わされた人たちはこの世の優れた者たちではなく「幼子のような者」(ルカ 10:21)たちでありました
 このようなイエスの働きに対し胸中穏やかでないのがこの世の知恵ある者や賢い者たちです彼らは伝統的価値観に照らして自分たちの正当性を訴えようとするのです即ち自分たちのように他者より秀でて律法の研究とそれを文字どおり守ることこそ「永遠の命を受け継ぐ」(ルカ 10:25)であり病人を癒したり貧しい人々や罪人と会食をするといった「律法に反する」ことを行うなんて言語同断だと思っているのです従ってイエスは正当ではないことを証明するために隣人とは誰かと聞いたのでした何故ならば彼らにとっては病人や貧しい人々は「律法的に汚れた者」として近づいてはならない人たちであり「隣人」は律法的に清い「ユダヤ人同胞」に限られていたからです(参照岩波版新約聖書U『ルカ文章』p70脚注一)
 わたしたちの教会においても正義と平和環境保護といった社会的活動に対し権威とか伝統を盾に非難中傷あるいは無関心が多くみられますしかし正当性の主張は自己を守ることであります一方イエスは神に自己を委ね無になりました愛アガペーも無になることですサマリア人は強盗に襲われた人を助けようと自分を捨てました祭司やレビ人は己を守りました
 私たちの教会も守るのではなく捨てたとき「隣人」になれるのです
 さあ私たちはちゅうちょすることなく倒れている人々のもとへ駆け寄りましょう


7月5日() ルカ 10:1〜12,17〜20
今週のKey Word
「この家に平和があるように

(ルカ 10:5)


 自己に寄り頼まず神にすべてを委ねて生きようと私たちはイエスに呼ばれています
 イエスの福音宣教そのものが神のみに信頼する旅でありました即ち「枕する所も」なく家々の好意を頼り歩く道程でありました現代の私たちは宣教というとすぐ土地だ建物だと言って大騒ぎをし宣教が教会を建設することのみになっていますそして神の主導ではなく金力に頼りそのために宣教どころではなく商売が優先となっていますそんな教会に何の魅力があるでしょうか
 一方イエスと弟子たちには何にもありませんでしたそれは無力さゆえに神と人を頼るためでした人の好意にたいし平和を祈ることしか返せないのです教会の建物の豪華さではなく神への信頼と人へのへりくだりこそが福音なのです
 さあ私たちのパンを空にしましょう神は必ず備えてくださるのです


6月28日() ルカ9 :51〜62
今週のKey Word
「人の子には枕する所もない

(ルカ 9:58)


  福音を告げるイエスの旅は自分を捨て十字架を背負う道行でありました
 さて多くの人たちがイエスに同行しようとやって来ましたその彼らにイエスは言いますその旅は「枕する所もない」野宿放浪生活であること死者の葬りの出来ないこと,家族との縁を切ることであると定住定職死者への供養,家族の尊重これらはこの世が推奨する価値であります人々はそれらを手に入れまた、守ることによって「名誉」を受けます一方定職を持たない人野宿生活者先祖供養を怠る人家族を大事にしない人たちには「なまけ者」「親不孝者」と蔑視します
 この「名誉」を得る人とは他人の目に従って生きる人であると言われています(名誉は自分を常に他人の目を通して見自分の存在のために他人を必要とする個人の道徳律の基本であるというのも彼が自分について抱くイメージは他人から彼に差し出されるイメージと区別できないからである)※@
 従ってイエスは彼らに弟子に相応しくないと語ったのであります何となればイエスの「福音的」生き方とはすなわち神への全き信頼でありますそれゆえに「自己を捨てる」自力に頼まないのでありあのパンの奇跡も自分のパンに頼むことではなく神の慈しみに頼った結果なのでありました
 今や他人の目に縛られ自己を見失い居場所のない若者たちが暴力ドラッグオカルト宗教に逃げ込んでいますイエスの神に信頼する生き方は私たちと彼らにとって福音であります
 しかしまず私たち自身がそれを証ししなければなりません
 さあイエスに従って「福音的」生を生きることにより囚われた人々の解放を手伝おうではありませんか
※@ジョン・ドミニク・クロッサン「イエス」p.122新教出版社


6月21日() ルカ 9:18〜24
 
今週のKey Word
「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい

(ルカ 9:23)


 みなが満腹するように互いのパンを譲り合おうとイエスは私たちを招かれましたそしてあのイエスの神の子性とは自分を空にし私たちに渡されたということであります
 しかしペトロたちにはそのことがわからなかったのです物乞いでしか生きていられない多くの貧しい人たちとイエスに促されてパンを分かち合ったとき互いが満足したことをその目で見たにもかかわらず
 イエスは彼らに尋ねました「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」ペトロが代表して答えました「神からのメシアです」私たちはイエスを「神の子」だとよく言い表しますがその意味をどのように掴んでいるかははなはだ心許ありませんある場合は麻原をメシアだと言うのと変わりませんペトロらも伝統的メシア像に縛られていましたいわゆるローマからの政治的独立をもたらすメシアであります従ってパンを分けるにあたっても自分のを削るなんてケチなことをせずに多額の資金で大量のパンを購入し食い飽きるほどのパンを鳴り物入りで配ることを想像していたにちがいありません
 そのような彼らにイエスは「苦しみを受け排斥され殺されるメシア」であることを教えその弟子であることはイエスと同じように「自分を捨て」ることであると明らかにされたのです
 さて自分を一番に大切にしている私たちが自分を捨てられるでしょうかイエスは言われます「自分の十字架を背負って」自己を捨て切れないその弱さに押し潰されながら何度も何度も挑戦しなさい
 「十字架」恐く重たいことばですがイエスの十字架は何と慰めの言葉でありましょうか  さあイエスに強められて自分のパンを「苦難にある人々」に譲りに行きましょう

 


6月14日() キリストの聖体 ルカ 9:11〜17
 
今週のKey Word
「すべての人が満腹した

(ルカ 9:16)


 混沌と闇に被われたこの世界に光を灯すようにイエスは私たちを招かれました
 聖書にはイエスは弟子たちを「神の国を宣べ伝え病人をいやすために」(ルカ 9:2)遣わしたと書かれています弟子たちは方々の村や町へ出掛け福音を告げましたイエスらの働きを知った苦難を負わされた人々は続々とイエスのもとへやってきましたクロッサンによればそれらの人々は「病気や借金徴用や死によって土地を追われ極度の貧困と物乞いを余儀なくされた人たち」と言っています従ってそれらの人々はいつも飢えていましたイエスの目には彼らの様が映っていましたしかし弟子たちの目には入っていなかったのであります弟子たちはイエスに言いました「解散させてください」(ルカ 9:12)※@
 私たちの教会は説教したり祈りましょとさかんにいわば精神的サポートはしますが生活上の実際の支援になるととたんに口を結んでしまいますお互いの身を削りたくないからであります弟子たちは自分のパンを削りたくなかったのであります
 しかし弟子たちがパンを出し合ったところでみんなが満腹するとは到底考えられません現在私たちの炊き出しには500人以上のホームレスが食べに来ます用意する米は25升になりますが十分でありません一人の食べる量はほんのわずかしかありませんもし彼らの一人が足りないと騒げば暴動になってしまいます幸いそんなことは起きていませんがみんなが互いに譲り合っているからこそ平穏が保たれています
 「すべての人が食べて満腹した」私たちが譲り合うところにそれが実現するのでしょう
 イエスは私たちに身をゆずりました
 さあ私たちも心と労力を譲り暗闇に光を点けに行きましょう
※@ジョン・ドミニク・クロッサン「イエス」p109 新教出版社
 


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