ももちゃんの一分間説教


4月12日()復活の主日 ルカ24:1〜12
 
今週のKey Word
「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか

(ルカ 24:5)


 ペトロを初めとする弟子たちはイエスの「隣り人」になりなさいという招きに従ってきましたしかしイエスが十字架にかけられたときには女性以外の弟子は誰もイエスの「隣り人」にはなれえなかったのでありました
 さてイエスの死を見届けた女たちはイエスの亡骸に香料を塗ろうと翌朝墓にやって来ましたしかしイエスの体がなく途方に暮れてしまいましたその彼女たちに天の声が響きました「あの方は復活なさったのだ
 イエスは「苦難を負わされた人々」と自己を空にして共に在ったのでしたまた同様に弱さを担ったペトロら弟子たちの側にも立ちましたそしてそのイエスは今も彼らの隣人であり続けるため「死さへ空にして」甦られたのであります従ってそのイエスは墓ににではなく「苦しんでいる人々悲しんでいる者たち」の傍らに生きているのであります
 私たちはイエスを教会の中だけに捜していないでしょうかイエスを記念物にして生きたイエスと関わっていないのではないでしょうか
 さあ私たちは生きたイエスに会いに「重荷を負った人疲れた人々」と共に生きましょう

 


4月10日(金)聖金曜日 ヨハネ18:1〜19:42
 
今週のKey Word
「だれを捜しているのか

(ヨハネ 18:4)


 ペトロらを招いたイエスの「十字架の道」は「足を洗う」僕となって苦難を負う人々と共に生きる旅でした イエスはその道において徹底的に己を空にしたのでしたイエスはメシア(=救い主)にでもなく王にでもならなかったのでした
 ユダヤ教の指導者たちはイエスを捜しました「ナザレのイエス」を彼らはこのただの人イエスを「神の子」と自称したから死刑にしろとピラトに告発しましたこの世の支配者たちはただの人はただの人でなければならないとするのであります労働者は勤労女性は家事を学生は勉強を政治家 は国家の大事をと「本業」をおろそかにするな「分相応」が社会を秩序立てているのだが彼らの政策でありますただの人イエスはそのユダヤ教の神殿支配体制下に呻吟する人々の「隣り人」になり支配者たちに「悔い改め」を迫ったのでありました 自己を空にするイエスの「悔い改め」は支配者たちには目障りでありました
 私たちはイエスをさがします自分に都合のいいイエスを今の生活を守りもっと豊さを与えるイエスをそうではなくて「分かち合い」をすすめるイエスにすらそんな話は聞けないそれは共産主義だと罵るのでありますイエスには「ナザレのイエス」すなわち素朴で純良でおこらないイエスを欲するのみであります
 私たちはこのようにして今日もイエスをそして苦難を負う人々を十字架にかけるのです
 しかしそのイエスは私たちの「隣り人」になり続けていますさあイエスの愛に目を覚ましましょうそして出かけて命の「分かち合い」をしましょう
 


4月9日(木) 聖木曜日 主の晩餐 ヨハネ 13:1〜15 
 
今週のKey Word
「この上なく愛し抜かれた

(ヨハネ 13:1)


 ペトロらが招かれたイエスの「十字架の道」は苦難を負った人々との「共生」への旅でしたそしてその「共生」はここで苦難にある人たちの苦しみを共に担うことでした
 イエスは処刑される前弟子たちと最後の宴を持ちましたというのは残された弟子たちのことに深く心を痛めていたからでありました弟子たちには自分の死後同じくユダヤ教指導者たちから迫害され命を奪われる時が来るその時彼らは恐怖と混乱裏切りに絶望するかもしれないとの危惧を抱いてましたそれ故イエスは彼らを何とか力づけようとしたのであります
 「足を洗う」それは奴隷の勤めであり客を主人としてもてなすことでありますから差し出された足を洗わなければなりませんたとへその足の持ち主が裏切り者であろうと敵であろうと断ることはできませんイエスはユダの足もペトロの足も洗いましたイエスは徹底的に奴隷になり自己を空にしのであります他方ユダとペトロにとってイエスは弱く狡く値なしの罪に汚れたこの自分を愛する「隣り人」でありました
 イエスは弟子たちに語りかけます「わたしがあなたがたにしたとおりにあなたがたもするように」(ヨハネ 13:15)迫害の最中お前たちは互いに裏切り合うだろうでもその時こそ互いに愛し合い互いの「隣人」になろうよ愛し合い、許し合うことだけが迫害を乗り越えられるのだから
 私たちは「十字架の道」の途中でほうり投げたり逃げ出すことが幾たびもあるだろうしかしイエスはその弱さも「足を洗って」私たちを「この上なく愛し抜かれた」のであります
 さあ私たちも疲れたとき足を洗い合いましょう

 


1998年4月5日() 受難の主日 ルカ 22:1〜23、56
 
今週のKey Word
「あなたは立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい

(ルカ 22:32)


 ペトロたちを招かれたイエスの道行きは「共生」の旅でしたイエスが共に在ろうとする人々はこの世が「罪人」と呼び隔離排除する「苦難を負った」人たちでしたイエスは彼・彼女らの「隣り人」になりこの世からの責め苦を引き受けたのでした
 この世はそのイエスの生き方に不安をもち官憲に告発しました「この男はガリラヤから始めてこの都に至るまでユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです」(ルカ 23:5)この世の力ある者たちは人々が目覚め連帯して権利を行使することを嫌いますむしろ国民が富国強兵の戦士銃後の母の役割を従順に担う限り善良な国民として恩恵を施します他方国を批判する者共産主義者ドロップアウト者老人障害者らは危険人物厄介者として差別排除しますホームレスが人権を要求し居住場所を移動しないと力ずくで追い出しホームレスと連帯する者たちを扇動者と非難するのであります
  イエスは「姦淫の女」の隣り人になりそれがために石打の刑に服そうとしました同様に「苦難を負った人々」と共に生きようとしたため十字架刑に処せられましたペトロらはそのイエスについて行けませんでした私たちもホームレスの人たちと「共に生きる」と言いながらも官憲から嫌がらせや脅されると弱腰になり言いなりになって彼・彼女の側を離れてしま います
 しかしイエスは裏切ったペトロや私たちに「あなたは立ち直ったら兄弟に力づけてやりなさい」と語られるのですイエスは弱い私たちの「隣り人」になられるのです
 さあ私たちはこれからも何度も「隣人」になることに挑戦しましょう「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」(ルカ 22:32)とのイエスに支えられて
 


1998年3月29日() 四旬節第五主日 ヨハネ 8:1〜11
 
今週のKey Word
「だれもあなたを罪に定めなかったのか」

(ヨハネ 8:10)


 ペトロらを招かれたイエスの旅は苦難を負う人々の隣り人に「成る」ことでした
 古来から男性は女性を支配し続けてきました例えば日常何気なく使う言葉の中にも男性優位の価値観が見えます「主人」と「奥さん」「家内」また賃金においても男女の格差が大きいあいていますこのような性差別に女性たちが反抗するとき男たちは暴力をもって抑えこんできました
 男性は性欲の吐け口としても女性を利用してきました「買売春問題」や「従軍慰安婦問題」に典型的に見られますその中で男たちは犠牲者である女性を非人間として貶めて来ました「遊女」「売女(ばいた)」と蔑視したのであります
 イエスの前に引っ張られてきた「この女」はまさに男たちの立派さを際だたせる犠牲者となったのです男たちは彼女の「姦通」をせざるを得ない悲しみ痛み苦しみには一顧だにしなかったのです
 イエスは男たちに言いました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女を」罪に定めなさい即ち,お前たちはこの女の「隣り人」に「成った」ことがあるのだろうか
 イエスはここにさらし者にされた「この女」の側に立ったのです「この女」と共に「石打ちの刑」になろうとしたのでしたイエスは苦難を負った人々の側に立ったがために十字架につけられたのです
 イエスはこの私のために命を捨ててくださいました
 さあわたしたちも「この女」の傍らに立ちましょう

 


1998年3月22日() 四旬節第四主日 ルカ 15:1〜3,11〜32
 
今週のKey Word
「あなたのあの息子が」

(ルカ 15:30)


 イエスに従うペトロの旅は人々に「悔い改め」を勧めるものでしたそれは苦難を受けた人々と共に生きるためでした
 「共生」にはその人の苦難への共感が大事でした私たちがその人の苦しみに心痛めないときその人は「あかのたにん」として自己正当化の手段になり非難と差別の対象になるのです
 弟の行為は身勝手ででたらめですそしてその結果、身を滅ぼしても「自業自得」と言われ誰も救済しないのが当然です兄はそうだと思っていましたそれゆえ兄にはもはや弟は「私の弟」ではなくなりむしろ家名を汚した出来の悪い奴帰って来ないでに野垂れ死にしてくれればよかったのにそれにひきかえ俺は勤勉で質素・倹約家で何一つ迷惑も間違ったこともしていない何と出来のいい男だ親父もこの俺を誉めて相応の財産をくれるだろうと自惚れられる「あかのたにん」になってしまったのです
 兄は弟の苦しみに心を痛められなかったのです
 弟は取り返しのつかない過ちを犯しましたしかし弟は飢え死にするほどの苦しみに喘いでいますホームレスの人々はいろいろな理由でその境遇になってしまいましたなかにはギャンブルアルコール依存症犯罪等々まさに自業自得の人たちもいますしかし彼らは苦難にありますその彼・彼女らの心に思いをおくとき「あかのたにん」ではなく私の痛みに変わるのであります
 父は兄に言いました「お前のあの弟は」
 「悔い改め」とはここで苦しんでいる人の側に立つことですなぜならば神こそがイエスを通して今のこのわたしを「あなた」と愛し続けているからであります
 さああのサマリア人のように駆け寄って「あなた大丈夫ですか」と声をかけに行きましょう
 


1998年3月15日() 四旬節第三主日 ルカ 13:1〜9
 
今週のKey Word
「あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる」

(ルカ 13:3)


 ペトロは休息を望みましたがイエスの旅の途中ではかなえられず苦難を負う人々との共生の道を歩み続けるようイエスに呼ばれました
 イエスに従うペトロらの共生の道は一方では洗礼者ヨハネのように「悔い改め」を告げることでしたそれでは「悔い改め」とは何でしょうか
 安息日に18年もの長い間、病に悩まされていた女をイエスが治した話があります(ルカ 9:10〜17)そのところではユダヤ教の指導者が安息日に病人を癒すことは律法の教えに違反することだとイエスを非難しています指導者にとってこの女は見えていませんこの女がそれまでどんなに苦しんでいたのか人からもまた神からも見捨てられいかほど絶望の淵を歩いていたかを彼は想像できませんでしたむしろ宗教指導者としての自分の無能力を暴露される厄介者として無関心無視していましたまた病人に関わることによってユダヤ教のタブーを犯し罰せられないよう自己を守るため律法を盾にしましたそんな指導者にイエスは語りかけました「この女は18年もの間サタンに縛られていたのだ」彼女の痛みに身を沈潜すれば叫ばずにはおられないおだろうと
 「悔い改め」とは他者の苦難に参与することすなわち苦難を負っている人のそばへ駆け寄ることでありその結果自己を滅ぼすこととなってもそれを引き受けることでありますまさしく「行ってあなたも隣人になりなさい」(ルカ 10:37)に通じることであります
 さあ私たちは周りの嘆きの声々に耳を傾け体の向きを変えましょうそこには人々が私たちを招いています

 


1998年3月8日() 四旬節第二主日 ルカ 9:28b〜36
 
今週のKey Word
「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが

(ルカ 9:32)


 イエスはペトロを苦難を受ける人々と生きるために自分の苦難を避けない人々の苦難と共に在る旅に同行しました「わたしについて来たい者は自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(ルカ 9:23)
 そしてイエスは百人隊長という敵の異邦人の僕を癒したり「罪深い女」を赦したり「悪霊つき」や「出血症」の女を治すなどのところへペトロをはじめ弟子たちを連れて行きました
 これらのイエスの行為はペトロたちにしてみればそれまでの彼らの生き方を規定してきた当時のユダヤ教に反する危険で「涜神罪」として告発されても当然なことでしたにもかかわらず弟子たちの危惧をよそにイエスが苦難を受けている人々の苦しみを取り除くことこそが大事と無頓着に突き進んで行くのを見ていつ自分たちが官憲から捕縛されるかとびくびくし眠れない日々をペトロらは過ごしていたのでした
 そんな彼らにイエスは尋ねたのです「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(ルカ 9:20)ペトロはとっさに答えたのです「神からのメシアです」(ルカ 9:20)ペトロたちには確証が欲しかったのです自分たちが同行しているこの人は一体誰なんだ「出来うれば従来伝わっているメシアであって欲しいであれば私たちは迫害されることはやくみんなから大歓迎されるのだ」と
 しかしペトロの思いは夢でした「ペトロと仲間はひどく眠たかったがじっとこらえていると栄光に輝くイエスとそばに立っている二人の人が見えた」(ルカ 9:32)イエスの「栄光の姿」は彼の寝ぼけ眼にしか映らなかったのです
 私たちは「小さい人たち」との関わりで重荷を負い切れず逃げ出したくなることが度々ですそして私たちは十字架のイエスではなく「栄光のイエス」を求めてるのですしかしくたびれた私たちには神は十字架のイエスを見続けなさいと語られるのです「これはわたしの子選ばれた者これに聞け」(ルカ 9:35)十字架のイエスは私たちの重荷をも背負ってくださるのです
 さあ私たちも苦しみにあるときこそ十字架のイエスを仰ぎみましょう。
 


1998年3月1日() 四旬節第一主日 ルカ 4:1〜12
 
今週のKey Word
「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」

(ルカ 4:1)


 ペトロのイエスとの旅は暴力の日常化されている貧しい人々との連帯の生でしたそこにおいてはペトロ自ら暴力を振るわれ振るう現場でしたその現場においてイエスは「あなたの敵を愛せよ」とペトロと私たちを招かれるのでした
 私たちの日常生活は世の中の流れに従っているとき敵もいないまあまあ平穏無事に過ごすことの出来る場ですしかし世の中に矛盾を感じ批判するとき日常生活は急変し敵が現れ排斥され暴力を振るわれる現場に変わるのです今般の米国がイラクに対し軍事行動を取るといったことも日本の私たちの生活には大した影響のないことだからと無関心であっても平素のように変わらない暮らしが出来るのですしかしその軍事行動には日本が金を出しその爆撃によって無数の子どもの犠牲者が出ることを想像したとき私たちは無関心ではいられなくなるのです勇気ある人は米国や日本政府を批判し行動に出るでしょうそうすると嫌がらせ電話とか手紙によって強迫を受けたりするのですキング牧師は黒人の公民権運動に立ち上がったとき自宅に爆弾を投げ込まれたりついには暗殺されたのです
 それはイエスが病人や貧しい人々の側に立ったことによりユダヤ教指導者たちから排斥され十字架につけられたのと同じです
 神の霊は私たちをその現場へと連れて行くのです現場では私たちは何度も悪魔に打ち負かされて暴力を振るい敵を罵るったことでしょうしかしそれでも神は待ち赦し続けられるのですぶどう酒がつきないように
 さあ神の霊に従い「弱い立場の人」のところへ出かけましょう
 


1998年2月22日() ルカ 6:27〜38
 
今週のKey Word
「敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にしなさい

(ルカ 6:37)


 ペトロがイエスに招かれた「十字架の道」は富者に媚びへつらう生ではなく貧しい人たちとの連帯の生でした
 ところで病人や貧しい人々「罪人」と差別されている人々の境遇は私たち中流階級の者には隠されていたりして知らないことや想像できないことが多くあります例えばホームレスの人たちが寝ているところへ酔ったサラリーマンが小便をひっかけたりタバコを投げ捨てたりまた子どもが暴行したり青年によって川へ投げ込まれて殺されたりあるいは500円の貸し借りで殺人してしまったり「しのぎ」といってホームレスを半殺しにして金品を強奪する者が警察の知らぬふりをよそにやりたい放題しているとかでありますこのようにホームレスの人たちは日常的に暴力に晒されていることそして身を守ためには力しかないことを私たちは知っているでしょうか
 その貧しい人々に関わるとはわたしたちもその暴力に身を晒すということですその時あのイエスの言葉が私たちに迫ってくるのです日常暴力と縁のないところで生活している(?家庭内暴力精神的暴力は日常茶飯事)私たちにとってイエスの言葉は観念的でしかないのです
 ペトロがイエスの後について来たところはまさにユダヤ教徒から差別搾取され暴力を振るわれている場でありましたまた後にはイエス自身が殺された場でありましたそのイエスが言われた「敵を愛せよ」はその場において問われる言葉です
 さあ私たちは貧しい人々のところへ出掛けこの言葉を学ぼうではありませんか

 


1998年2月15日() ルカ 6:17,20〜26
 
今週のKey Word
「貧しい人々は幸いである

(ルカ 6:20)


 イエスの招きは、ペトロの人生を私的幸福追求から他者と共に生きる人生に転換させましたその後のイエスとの道行きにおいてペトロは多くの病人が癒されるのを目撃しました(参照ルカ5:12〜6:17)
 当時のユダヤ教においては病人であることはもはや生きるに値しない神から最も遠い人でありました彼・彼女たちは社会からも家族からも閉め出され極貧のうちに生きるしかありませんでしたまたその病人たちに近づき手を触れることは病人同様「汚れた者」=「罪人」となるのでした従ってイエスの病気癒しの働きはユダヤ教社会において当然拒否追放されることだったのです※@
 イエスに同行したペトロは何故そこまでイエスはするのだろうと訝ったに違いありませんペトロのそれまでの人生は蓄えることが幸いであり人との関わりでも身を削らない程度にしかして来なかったからですしかしそのような生き方は自分さへ良ければと人と人を分断するだけで幸いはもたらされないのです一方枕する所を持たず生命さへ放棄するイエスにおいて病人や貧しい人たちは神の近さを味わい幸いを知ったのでありました今や神は病人や貧しい人々のもとへイエスを通して共に在る者となったのであります「貧しい人々は幸いである神の国はあながたのものである
 ペトロがイエスから招かれた「共生」とは今までのように自己を安全の場において人に協力するのではなく自らを痛め汚れ削る関わりを持つことまさにイエスが十字架にかけられるまで病人を癒した生き様だったのです
 さあ私たちは自分だけの「ちっちゃい幸福」を捨て身を減らしましょう貧しい人々はその私たちと共に生きてくださるでしょう
※@参照 宮本久雄『聖書の言語を越えて』P.134 東大出版会
 


1998年2月8日() ルカ 5:1〜11
 
今週のKey Word
「お言葉ですから」

(ルカ 5:5)


 イエスの福音は私たちを安直な私的赦しの恵みにではなく身を切る「十字架の道」による他者と共に生きる恵みに招かれました
 従ってイエスの宣教が悪霊を追放し病気を癒したのは(参照ルカ4:31〜42)重荷を負う者たちと共にあったことに他なりませんしかしそれは故郷の人々には悪魔的業として拒否されました今日の教会が政治的経済的圧迫を受けている人々と共にある「解放の神学」を忌避するのと同じことであります
 ペトロたち漁業を生業にしている人たちにとってはイエスの福音は自分たちの一生懸命の生活を賞賛し愚痴を聞き慰め天国の切符を与えてくれる限りのものであって生き方を根本的に替える痛みの伴う福音はごめんだったのですペトロらは今まで自分の生き方は自分で決めていたのですそれ故イエスの言葉には胸中拒みながらもいやいや従ったのです「お言葉ですから」私たちも教会に対しては生き方までには口を出してもらいたくなく(「生活の苦労は自分が一番知っている」)信仰生活はせいぜい教会行事への参加のみに止めるのです
 しかしイエスはペトロの態度にまかせますイエスは渋々従うペトロを待ちつづけられますペトロがイエスの十字架直前に裏切っても望み続けたように
 身を切ることにイヤイヤしている私たちさへもイエスは見守ってくださるのです
 さあ「お言葉ですから」と他者の重荷を持ちましょう

 


1998年2月1日() ルカ 4:21〜30
 
今週のKey Word
「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し」

(ルカ 4:28)


 洗礼を受けた私たちはイエスに導かれイエスと共に「捕らわれた人々」を解放する人生に招かれましたしかしその解放を告げるまさに福音Good Newsは多くの人々に拒絶されることになります
 「今日救いが実現した」とイエスから聞かされた故郷の人々は跳びあがって喜びましたというのは洗礼者ヨハネから悔い改めを警告されていた人々は心安らかではなかったからです神の怒りに戦々恐々としていたのですそのような彼らにイエスの救いの実現の宣言は願ったり叶ったりでした彼らは手放しで喜んだのです
 ところが人々は思い違いをしていたのですイエスの救いの宣言は安直な罪の赦しではなく痛みを伴う身を切る恵み即ち利己的生き方から他者と分かち合う生き方への方向転換によって実現されるのです
 イエスは預言者の例を出しましたそれは彼らに古代イスラエルの人々が「安価な恵み」だけを求めて仮借なき預言者の警世の声に耳を傾けずついには滅んでいったことを思い出させるためでありましたイエスの言葉に彼らは手の平を返したように憤慨しそれだけではなくイエスを崖から突き落とそうとしました
  現代の教会においても安直な恵みを語っているうちは喜ばれますが痛み苦しみ放棄の伴う福音を語るときイエスのごとく追放されてしまいます
 イエスに伴われた私たちの人生は「十字架の道」でありますしかしぶどう酒の尽きない恵みと赦しの溢れる道なのでありますさあ今日もこの道を祝おうではありませんか

 


1998年1月25日() ルカ1:1〜4、 4:14〜21
 
今週のKey Word
「主の霊がわたしの上におられる

(ルカ 4:18)


 私たちの洗礼による神における生への旅立ちは、祝宴であり、汲めども尽きぬ神に支えられて続けられるのでした
 それでは、洗礼は私たちをどこへ向かわせるのでしょうかよく言われるように、来世への個人の救済と安心、即ち、洗礼によって天国への切符を入手するのでしょうか
 しかし、今日の福音では、それは、私たちを「来世」へではなく「現世」へ向かわせる、と語られていますしかも、「現世」の恵まれた所にではなく、「貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人」のもとへ「喜び、解放、視力の回復、自由」をもたらすため、だと言っています換言すれば、洗礼により私たちは、現世においてすべての人々がその生を喜び祝う使命を与えられたのであります従って、少なくとも、教会は他者の困窮、悲しみに無関心であったり、あるいは他者を差別・抑圧したり、締め出したりは出来ないはずでありますところが、現の教会は社会との関わりを持たず、ゲットーとなり、見えなくなっているのではないでしょうかそれは、イエスを忘れ、自己に頼っているからではないでしょうか
 私たちは、今一度、「主の霊がわたしの上におられる」とイエスのように人々の前で公言しましょうそして、私の生涯は、人々と共に人生の祝宴を開くためにある、と宣言しようではありませんかぶどう酒は尽きないのだから

 


1998年1月18日() ヨハネ 2:1〜12
 
今週のKey Word
「水がめに水をいっぱい入れなさい

(ヨハネ2:7)


 洗礼を受けたイエスは生命さへも神に返し無となった「神の子」となりました従って私たちの洗礼はイエスと同じく生を「この世」から神に置く方向転換への招きであります
 「この世」的生は汲めども汲めども尽きない欲望の獲得競争でありますその果ては空しさしか残りませんあのサマリアの女は男との間だけに人生の意味を求めていましたしかし互いの愛は求めても求めても満たされない手から砂がこぼれて行くものでありましたまるで水を毎日かめにいっぱいにしてもなくなると同じようなものでありましたその彼女にイエスは「決して渇かない永遠の生命に至る水を持っている」と語ったのでありました(参照ヨハネ4:1〜15)
 神における人生は婚礼の席のぶどう酒のように尽きれば終わるというその場限りのものではありません神はイエスをとおして無尽蔵の愛を私たちに満たし続ける終わりのない祝宴なのであります私たちの人生は決して禁欲的なのではありません
 このようにして私たちの洗礼の歩みはイエスから渇かない永遠の生命に導かれイエスが共に居続けられて行われるのであります
 さあぶどう酒はいくらでもあります安心してイエスについて行きましょう
 


1998年1月11日()主の洗礼 ルカ 3:21〜22
 
今週のKey Word
「あなたはわたしの愛する子

(ルカ3:22)


 私たちの誰もが「乳飲み子」を前にしたとき生命への愛しさを感じざるをえないでしょう「生命への愛しさ」は他者の困窮苦悩悲しみに無関心ではいられなくなるでしょうしかし私たちの社会はヒトのことよりまず自分のことをしなければ生きて行けないと思わされているのです
 さてそのような私たちの社会にイエスは福音をもたらしたのです
 ところでイエスは福音を語る前に洗礼者ヨハネから洗礼を受けましたヨハネの洗礼は「悔い改め」のしるしでありました即ち私たちが「生きる」ことを自力に頼り自己に宝を積むことにではなく神において神によって他者と共に生きることにあるとする方向転換なのであります
「悔い改めにふさわしい実を結べ…下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ食べ物を持っている者も同じようにせよ」(参照ルカ3:7〜14)
 私たちは食糧を買うとき明日明後日の分まで仕入れようとしますその時私たちの心にはここで食べ物に不自由している人たちはいませんこのような私たちの生活にまったをかけ分かち合おうというのであります
 イエスがその洗礼を受けたということは福音とはこの方向転換から始まるのでありますまさにイエスは神において神と共に神によって自分自身を「空」にして「神の子」となったのであります
 今や未来の子供たちの命運は私たちの生き方に左右されると言っても過言ではありません
 さあ私たちが洗礼を受けたしるしとして冷蔵庫がいつも「空」である生き方をしましょう
 


1998年1月4日() ヨハネ 1:1〜18
 
今週のKey Word
「命は人間を照らす光であった

(ヨハネ 1:4)


 イエス・キリストは幼子として私たちの前に姿を現しました
 生まれ出た無垢の幼子を前にしたとき私たちの誰もが頭を垂れるのではないでしょうかその生命は誰が与えたのでしょうか「子はさずかりもの」と言いますがそれは人間がどんなに的努力しても与えられるものではなく神の働きがあることをしめしています「主なる神は土の塵で人を形づくりその鼻に命の息を吹き入れられた人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)また同時にその成長も神の守りがあって出来ることであります
 与えられた生命を私たち人間は恣意的に利用することはできません与えられものを最大限生かさなければならないのです「天の国はまた次のようにたとえられるある人が旅行に出かけるとき僕たちを呼んで自分の財産を預けた」(マタイ25:14)イエス・キリストは幼子の生命が豊になるように自分の生命を与えつくしました「わたしたちは皆この方の満ちあふれる豊かさの中から恵みの上に更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)イエス・キリストは私たちに生きることを教えられましたイエス・キリストは「人間を照らす光」であります
 さあ私たちはこの光に導かれて生れてきた幼子たちの生命を守り豊になるように私たちの生命を与えて行きましょう
 


1998年1月1日(木) 神の母聖マリア(世界平和の日) ルカ 2:16〜21
 
今週のKey Word
「乳飲み子を探し当てた

(ルカ 2:16)


 もう10年以上前アフリカのエチオピアが大飢饉に襲われ何百万の人々が死線を彷徨っていましたその光景のテレビ放映されたなかにその絶望的状況の最中でも赤ん坊が誕生するところがありました私はそれを見たときとても感動しましたしかし彼の待ち受けていた生涯は残念ながら飢えと難民生活でしかないという生れてこなかったほうが良かったという苛酷で残酷な生涯ではなかったのではありませか
 昨年10月にインドのボンベイに行った時路上で生活する乳飲み子を抱えた若い母親がその子どもに何か食べ物をくれとひっきりなしに物乞いする姿に私は首をふってノーというのが精一杯でありましたその子供の将来も多分何も望みがないのではありませんか
 現代世界ではこのように毎年何百万人の子どもたちが飢え貧困により死んでいます彼・彼女たちは何のために生れてきたのでありましょうか
  イエス・キリストは当時ローマ帝国の支配下にあるユダヤに生れましたまた家庭的には貧しい日雇い大工の息子として日々の糧に苦労したのでありました彼の生涯もまた被征服民族として抑圧搾取される対象としての生だけなのでありましたしかし彼はその生れ故に抑圧差別された人々の生を自分の生として人間らしく生きたいと彼らの側に居続け権力者たちを告発したのでありました
 「乳飲み子を探し当てた」羊飼いたちはその子に自分たちの境遇を重ねたことでしょうけれども同時にこの子が幸せになることを人として祈ったことでありましょう
 私たちは今日生れてくる子供たちの人生が祝福されたものとなるよう 「この世界」を愛と正義と平和に満ちたものにして行こうではありませんか
 


今週の一分間説教 Gospel on this week