ももちゃんの一分間説教


1997年12月28日() ルカ 2:41〜52
 
今週のKey Word
「母はこれらのことをすべて心に納めていた

(ルカ 2:51)


 イエスは「この世」において苦難を負っている人々の友として生れてきましたしかし「この世」における苦難はマイナスであり避けて通るべきものとなっています人々は苦難を自己の勤勉さ努力のなさに起因するものと考え出世競争の落伍者に与えられると見なします従って親たちは子どもにそれを味あわせたくなくて受験競争に邁進させています「この世」の親も子も苦難を避けて個人主義になっています
  実は「この世」において苦難を負っている人たちとはそれらの個人主義即ち目先の出世利益安全を手に入れるため無視され陥れられ差別抑圧されたりする人たちなのでありますイエスはまさにその人々に解放を告げられたのであります
 母マリアはイエスがそのような者になるとはまだわかりませんでしたけれども羊飼いたちが語られたことシメオンアンナが告げられたことに面食らったことでしょう息子イエスが苦難を避けるどころか立ち向かうというのですから更に神殿でのイエスの言動にはマリアやヨセフは戸惑ったことでしょう神こそ自分の父であると宣言されたのですから
 マリアたちは息子が無難な一生を送るように願ったことでしょうしかしイエスは彼女らの思いを超え神に従うこと即ち苦難にある者の友となることこそが自分の使命であると両親と訣別したのですマリアたちにはイエスを押し止めることはできませんただ「心に納め」るだけでありました彼女たちはそれによってイエスの人生を共に歩めたのであります
 さあ私たちも子供たちが神に従い人を愛し人に仕える苦難の道を歩めるように陰になって見守る親になりましょう
 


1997年12月25日(木)主の降誕 ルカ 2:1〜14
 
今週のKey Word
「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる

(ルカ 2:10)


 少女マリアと老女エリザベツは自分の生涯を「この世」の悲痛な境遇にある人々に喜びをもたらすため捧げました神はその働きを「この世」で最も小さい者彼女らのような人を通して為されます
 同じく救い主イエスの誕生の第一報は他でもない野宿していた羊飼いに告げ知らされました当時のユダヤ教社会では羊飼いは一切の人間的権利を奪われた者たちでありました※@(「荊冠の神学」栗林輝夫p.239)
 洗礼者ヨハネのように何故神の言葉は「この世」の支配者・富者にではなく小さい人々に降るのでしょうか(ルカ 3:3)それは彼・彼女らはその境遇ゆえに神から最も離れた者として神が救うべき人々であったからです
「貧しい人々は幸いである神の国はあなたがたのものである」(ルカ 6:20〜21参照)
 現代においても救われるべき人々はだれでしょうかそれは飢え裸で暴力を受け虐待され続けている子供難民女性たちであって決して先進国の中流以上の者たちではないでしょう「富んでいるあなたがたは不幸であるあなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ 3:24〜26参照)
  神はまっさきに朗報を羊飼いたちに届けたのです
「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ 2:11)
 遠くにいた神が自ら近くへ来られたことを告げられた羊飼いたちは今や「神の到来」を全世界に宣言する者となったのです
「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(ルカ 2:10)
 クリスマスそれは私たちがイエスが来られた人々のことを思い起こす時であり悲惨な境遇にある人々に喜びと平和がもたらされるように私たちがイエスに従う時である
 


1997年12月21日()待降節第四主日 ルカ 1:39〜45
 
今週のKey Word
「主がおっしゃたことは必ず実現をすると信じた方はなんと幸いでしょう

(ルカ1:45)


 福音を告げるとは神の愛のバーゲンセールではなく洗礼者ヨハネのように神に足を固めて毅然と大胆に死を賭して語ることに他なりませんでした
 少女マリアと老女エリザベトは共にイエスと洗礼者ヨハネの母になるよう招かれましたまさに彼女らは思いもかけない神からのプレゼント即ち福音を語られたのであります
「身分の低いこの主のはしためににも目を留めてくださったからです」(ルカ2:48)
 しかしこのプレゼントは手放しで喜べるものではありません何故ならばイエスは「思い上がる者を打ち散らし権力ある者をその座から引き降ろし富める者を空腹のまま追い返され」(参照ルカ2:51〜53)るのでありヨハネはそのイエスに「先だって行きその道を整える」(ルカ2:76)方だからですその彼らの母となることは喜びにちがいありませんが十字架を背負うことにもなるのであります
 彼女たちにはもっと安易な人生を選ぶことできましたがなぜ彼女たちは苦難なそれを引き受けたのでしょうか福音を受け入れるということは個人的なgood newsではなく全世界の人々なかでも貧困抑圧差別されている人々の善き訪れを聞くことであります従って二人は全世界的救いの実現のために自己を空にしたのであります
 さあ私たちもクリスマスを前にアットホ−ムな一時を楽しむことも大事でありますが悲嘆と苦痛にある人々に「喜び」をもたらせるようおのれを空にしましょう

 


1997年12月14日()待降節第三主日 ルカ 3:10〜18
 
今週のKey Word
「ヨハネはほかにもさまざま勧めをして民衆に福音を告げ知らせた

(ルカ3:18)


 福音は英語でgood newsと言われるように良き知らせでありますしかし それは手放しで喜べるあるいは即席で手に入れられる安易なものではあり ません
 洗礼者ヨハネは福音を述べましたしかし彼は「斧は既に木の根元に置かれている」(ルカ3:9)と言ってそれを語られました更に次に来られるイエスを指して「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)と人々に紹介されたましたところが私たちは「この世」においてあまりにも即物的快楽に馴らされて骨を折ること痛むことを忌避しまた互いに傷つきたくないという「優しさ」から人々を批判出来なくなっていますそれゆえに私たちは福音をその厳しさ切迫さを削って「優しい」単なるお説教としヨハネの悔い改めの言葉には耳を塞ぐか非難し安逸な「信仰生活」に浸りつづけるのであります
 洗礼者ヨハネはヘロデに首を切られイエスは大祭司たちによって十字架に架けられましたそれでも彼らははっきりと福音を語ったのであります
 今や「この世」的生は温暖化防止問題にみられるように生き方を変えずには解決不可能な問題が山積しています
 さあ私たちはイエスの福音を聞きましょうそして福音を伝えましょう汗と涙苦痛を伴う時には生命を捨てる生き方においてこそ私たちは「この世」から解放され真の慰めと人類全体の喜びが与えられるのだと
 


今週の一分間説教 Gospel on this week