ももちゃんの一分間説教


1997年6月29日(日)マルコ 16:13〜19



今週のKey Word:「あなたはペトロ」(マルコ16:18)

 イエスに従う私たちの宣教活動(悪霊追放)は成果の上がらない結果の見えない働きであります反面「この世」からは敵視され処罰されるのであります
 それ故その働き人は当初の情熱から冷めると脱落して行かざるをえません今日の福音ではそのような弟子たちにイエスは語りかけるのでありますイエスの病気癒しやパンを増やす奇跡は華々しく見えますが病人や飢えた人々は後を断たないし根本的には何の解決にもなりませんその為イエスらを敵視するファリサイ派等の人たちはイエスにもっと効果的に出来ないのかと「天からのしるし見せろ」と揶揄するのであります(マタイ16:1)またイエスは弟子たちに彼らのように目に見える功を求めることに注意を促しています(マタイ16:5〜12)
 この様な徒労感深い働き人たちにイエスは一人一人に声を掛けるのでした
 「シモン・バルヨナあなたは幸いだ…あなたはペトロ」(マタイ16:17〜18)
 イエスの働きへの参加は一人ひとりへの呼びかけに応えることであります機械の歯車のように他者と取り替えられるものではありません「この私」をイエスは用いてくださるのでありますしかも無条件にでありますイエスはペトロにあなたは岩だというのであります何ということでしょう人間的弱さに振り回された軟弱なペトロに「岩教会の土台」とイエス言うのでありますから
 しかしイエスの宣教が大地の働きのように目には見えないけれど確かに実をつけるようにイエスのペトロへの熱い眼差しは確かに彼を岩へと変えてしまうのであります
 私たちのイエスの業への参与も倦み疲れてしまうことがありますでもイエスの想いは私たちをも教会の土台になさしめるのでありますさあ今日もイエスの声に励まされて「重荷を負った人たち疲れた者ら」の荷物を持ちに出かけましょう



1997年6月22日(日)マルコ4:35〜41



今週のKey Word:「黙れ,静まれ」(マルコ4:39)

 大地の内部で、悠久の時をかけて確かに成長し続けている神の国は私たちの目に見えるところ手の届くところにはなくコントロールできるものでもありません従って私たちが逃げて行くところ手元に引き寄せられる『苦しい時の神頼み』的ものではありません
 悪霊追放のイエスと弟子たちの宣教旅行は前回にも述べたように困難と迫害の十字架の旅でありました時には今日の福音にもある彼ら一行が命を失う危機は一度ならず現代にも数多くありますその時々私たちは「神の沈黙」に幾度も泣き喚き失望したのであります
  しかしその取り乱している私たちにイエスは「黙れ静まれ」と叱りつけるのでありますもちろんこの言葉は直接には嵐悪霊に向けられた威圧的なものでありますけれどもそばにいた者たちにはむしろ混乱した自分らに向けられた言葉として聞いたのではないでしょうかイエスはその言葉によって「心を騒がせるな大地の内部の働きを沈黙して耳を澄ませて聞きなさいそして信じなさい」と語りかけるのであります
 私たちは「この世」の力に恐怖し逃げだし時にはインスタントの力に頼ったりします
 さあそんな時耳を澄まして神の国の成長を待ち続けようではありませんか



1997年6月15日(日)マルコ4:26〜34



今週のKey Word:「土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:28)

 イエスと弟子たちの悪霊追放の旅はユダヤ教指導者や家族身内の者たちから「気が変になっている」「悪霊の頭」といわれてこの世からは有害秩序を乱す行為として非難、中傷され後には弾圧・迫害を受けたのであります従って
 イエスらの働きを実を結ばないものとして多くの人びとは悲観失望していました「ある種は道端に落ち…ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち…ほかの種は茨の中に落ちた…実を結ばなかった」(マルコ1:4〜7を参照)今日においても教会の働きはこの世の体制を補完、温存する限りにおいて実を結んでいます
 さてそのような人びとにたいしてイエスは今回のたとえ話しを語られたのでありますすなわち種が成長し実を結ぶには豊穣な土があってはじめて出来るのであるそしてその土とは神にあって自然のありとあらゆる生命が互いに結びあって何億年という時間をかけて造られていくのであるそれゆえ実とは人間の生きている間にはならないものであるがその土に種を蒔き続ければ必ず実を結ぶのである
 ともすれば結果を早急に求めがちな私たちはイエスの働きにも目に見える成果を要求してしまいます今日の教会にあってもこの世の衆目を集めるステンドグラスパイプオルガンアンジェラスの鐘を備えた教会堂を作ろうとしていますそれに対し神の国の成長は私たちに見えるものではありませんしかしながら土においては生命体が働き続けているように確かに成長しつつあるのであります
 さあ私たちの宣教も神の国の成長に欠かせないミクロの働きであり続けましょう



1997年6月8日(日)マルコ3:20〜35



今週のKey Word:「身内の人たちはイエスのことを 聞いて取り押さえ に来た」(マルコ3:21)

 週の初めミサにおいて私たちはイエスと共に自由を祝いイエスご自身の生命をいただいて「この世」に神の愛を広げるべく宣教(=悪霊を追い出すマルコ3:15)に向かいます従って私たちの「居る場所帰る所」は「この世」ではなくイエスのもと神のもとなのであります(ぶどうの木と枝大地との関係であります)しかし「この世」はわたしたちを手許に留めコントロールしようとしますイエスを悪魔の頭と呼び亡き者にしようとしたユダヤ教指導者に追随したイエスの身内母と兄弟のようにでありますまた我が国では儒教や天皇制家父長制の影響や管理競争社会により親子関係が「共依存」と呼ばれ親は子を縛り依存して子はいい子であろうとその親に依存してしまい両者とも自己を喪失してイヤイヤ生きているのが実情でありますかくして「この世」はわたしたちの生命を「奪う」のであります
 イエスの福音は「貧しい者は幸なり」と当時ユダヤ教の価値観規範によって「生命を奪われ」抑圧差別されていた人々に神の近さ(=命の回復)をもたらしたのでありましたそれ故にこそそのイエスに接ぎ木され新生した私たちは再び「この世」の「良し」とするものに搦めとられては枯れ死するのみでありますむしろイエスとの強固な結びつきは親子関係社会との関わりを自由で対等なパートナーシップに作り変えられるのではないでしょうかイエスは言いました「わたしの母わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33)さあ私たちもまた相殺し合う家族社会との関わりを破棄し互いに生かし合う神の御心を行う親と呼ばれようではありませんか



1997年6月1日(日)キリストの聖体 マルコ14:12〜1622〜26



今週のKey Word:「過越の食事」(マルコ14:12)

 ぶどうの枝として招かれた私たちの教会は「父と子と聖霊」の生命とエネルギーに養われ活かされて他者への愛という実をならそうとしていますしかし
 その有り様は「この世」の価値観に縛られ他者との競争に疲れ果てています即ち人よりも美味いものを食べようきれいなものを着よう大きな車に乗ろう立派な家に住もう子どもをいい学校に入れよう…等々にでありますそのため世界での飢え,貧困紛争のニュースには心を痛めながらも生命を分かつことはしないのでありますそれよりも自己の生活を満たすことに励んでいるのでありますもうそこではぶどうの木であるイエスを忘却し枝は枯れていますあたかもユダがイエスを敵に金で売ったように「はっきり言っておくがあなたがたのうちの一人でわたしと一緒に食事をしている者がわたしを裏切ろうとしている」(マルコ14:18)
 そんな自滅的生き方をしている私たちの目を覚まし鼓舞しようとイエスは訪れるのであります
 今日の福音にはイエスが弟子たちと別れの宴を行いそれを「過越の食事」と意味づけたと書かれていますつまりイエスがその食事をユダヤの人々が毎年行うエジプトでの抑圧状況からの解放を祝う食事と同定したということはイエスと共に食する宴では「解放を祝う」ということであります私たちはイエスと食する毎に見栄から利己主義から悪霊から抑圧から差別から自由になるのであります
 さあ「この世」との闘いに疲れた私たちは週の初めのイエスとの出会いの場であるミサにおいて互いに裸となって他者と分かち合う「愛」の実をつけようではありませんか



1997年5月25日(日)三位一体の主日 マタイ28:16〜20




今週のKey Word:「いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)

 イエス死後の最初期のキリスト者たちは少数でありユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受けて四面楚歌でありました現代日本的キリスト教感覚では教会は魂のことだけに関わって社会や政治には口を出さない式に彼らも信仰していれば何も起こらなかったのにと判断されるでしょうしかしイエスを救い主と信奉するキリスト者にあって政教分離はあり得ないのであります即ち神に従うか悪魔(この世の支配者)に膝を屈めるかの決断なのであります前回述べたように今の日本キリスト者は「この世」を土台としているためこの世とは軋轢を生じない生き方を取らざるをえないのでありますいわゆるダブルスタンダードに私たちキリスト者が立ち続ける限り「この世」はキリスト教の教会に痛くも痒くもありません同時に私たちも聖霊とか共にいてくださる神を必要とはしないのであります
 今週の福音ではそのような私たちの在り方に問いを投げかけています最初期のキリスト者はその困難な状況の下自分らの拠って立つ所を常に確認し支えにしていなければなりませんでしたまさにこの世の暴風になぎ倒されないため神を土台にしキリストの木に身を任せ聖霊の力により実を結ばせる以外に彼らの生を鼓舞するものはなかったのであります
 さあ私たちもダブルスタンダードという「この世」に命を奪うものへの信仰を捨て他者と命を分かち合う生を喜ぶためにこそ父と子と聖霊にいつも共にいてくださるよう祈ろうではありませんか



1997年5月18日(日)聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26〜2716:12〜15




今週のKey Word:「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ15:13)

 イエス・キリストに招かれたわたしたちが立っているところは「この世」ではなく神でありました「あなたがたは世に属していない」(ヨハネ15:19)
 しかし実際には私たちは「この世」にしっかりと足を下ろしているのでありますそれがためキリストの教会は「この世」からは迫害どころか無視されていますキリスト者は命を取り戻させて頂いたにもかかわらず再び悪霊の下利己主義的生き方に命を「奪い取」られているのであります
 その有り様に心を痛めながら正当化するため真理には見ざる聞かざる従わざるとなり硬直した教義にしがみつくのでありますまるでファリサイ派の人々が彼らの律法主義に固執しイエスの言葉に耳をかさなかったと同じように「人々はあなたがたを会堂から追放するだろうしかもあなたがたを殺す者が皆自分は神に奉仕していると考える時が来る」(ヨハネ16:2)
 聖霊が私たちに与えられるとは真理に心を閉ざすのではなく目を開くことであります聖霊という〈真理の霊〉が導く真理に私たちは自己を明け渡すのであります
 風は思いのまま吹く(ヨハネ3:8)人々の平和と幸福のため自己防衛という重い鎧を脱ぎ捨て神に土台を据えて5月の風のように軽やかに爽やかに空になって生きようではありませんか



1997年5月11日(日)昇天の主日 マルコ16:15〜20




今週のKey Word:「新しい言葉を語る」(マルコ16:17)

 これまで私たちは「この世」に自分の足を下ろして己を支え勤勉勤労によって幹を太くしその枝に人より多くの業績という実をつけることを強いられてきました
 しかしその業績という実は「この世」ではどんどん拡大膨張しそれを追いかけているうちにその枝はおろか幹さえもその重みでへし折られて枯れてしまいました「この世」の支配者である悪霊はこうしてわたしたちの命を「奪い取」って行くのであります
 そんな悪霊に捕らえられたわたしたちを解放するためイエスはぶどうの木として枝になれと招かれたのでありましたしかもご自分の命をわたしたちに明け渡しその命によって他者を生かすという実をわたしたちがつけられるようにしたのであります私たちはこの世界において悪霊に誘われて自己に頼って利己的に生きるとき自滅するのでありますがイエスに身を委ねたとき他者と共に生き合えるようになるのであります
 昇天とは神という大地に根づいたイエス・キリストのぶどうの木につながれた私たちの命が他者の命へと連鎖的に天上まで繋がっていることなのでありますキリストの命に自己を明け渡したとき私たちは「悪霊を追い出し新しい言葉を語る」(マルコ16:17)のであります私が生き在るのではなく私は生かされ、在らしめられているのだ
 さあ日々の命を有り難く頂戴し神と人々のパートナーとなって命をお返ししようではありませんか



1997年5月4日(日)復活節第六主日 ヨハネ15:9〜17




今週のKey Word:「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ15:12)

 ぶどうの木であるイエス・キリストのパワーという栄養物をいただいた私たちは他者への愛という実をならせる枝でありました今週の福音ではこの「他者への愛」とは何かが語られています
 イエスは弟子たちに語りました「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12) イエスの弟子たちへの愛とは「友のために自分の命を捨てる」(ヨハネ15:13)ことでありました「この世界」では命とは所有し守り維持するものであってそのため悪霊に身を屈めるのでありました一方神においては命は空であり捨ててこそ豊かになるものでありますイエスの復活はまさに自分の命を捨てたことへの神の応答なのでありますそれゆえ命を捨てるとはこの世界では不可能でありますが神への信仰においては然るべきなのでありますなんとなればイエスが捨てた命が私たちの内に生きているからであります
 さあ私たちはイエスの命が私たちという枝を貫いて他者に生きるように私たちの命を喜んで捨てましょう「わたしの喜びがあなたがたの内にありあなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15:11)



1997年4月27日(日)復活節第五主日 ヨハネ15:1〜8




今週のKey Word:「わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)

 イエス・キリストの復活を信じる私たちは彼が命を神に明け渡したことにより命を豊かに得たこと言い換えるとイエスが弱く貧しくさせられている人々の側に居たことに倣い,私たちも自己の命にものを蓄えるのではなく空の己を神に明け渡す生に招かれています
 今日の福音ではそのイエスと私たちの関係をぶどうの木とその枝に譬えています枝とその実は自分の力では生きられないし成りません.木からおくられてくる栄養分を吸収してはじめてそれが可能になるのであります.即ち木はおのれの命を枝に明け渡し枝はまた自己を空っぽにして木の命に自己を明け渡すことにおいて枝は生き実を成らすのであります木であるイエスはサマリアの女に言われた決して渇かない永遠の命に至る水なのであります
「わたしが与える水はその人の内で泉となり,永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:15)
 さあ私たちは己を空虚にしイエスからの汲めども尽きないエネルギーを満たして他者に喜ばれる実をつけようではありませんか



1997年4月20日(日)復活節第四主日 ヨハネ10:12〜18




今週のKey Word:「だれもわたしから命を奪い取ることはできない

 現代の「この世界」は私たちの命を奪い取って行きますそして偽りの「命」を引き換えにおいて行きます夫は企業戦士となって会社の利益を得るため、またマイホ−ムのローンや子供の学費のために過労死して行きます妻はローン返済のためパートに出たり教育ママとなってそこに生きがいを求めます子供たちは.その勤勉な両親の期待を一心に受け受験戦士企業戦士へと育てられて行きます私たちの国ではこの道が幸福への道でありそれ以外は落ちこぼれ落伍者と呼ばれるのであります私たちの多くは勤労勤勉を美徳とし郊外の庭付き一戸建てのマイホームと引き換えに命を奪われ偽りの「豊かな命」を生きているのでありますましてや落伍者はマイホ−ムはおろか野宿生活を強いられ餓死凍死に追い込まれ命を奪われているのであります
 イエス・キリストの復活を信じる私たちはこのような偽りの「命」にではなく彼の命に生きるのでありますイエスの命とは他者のために捨てる「わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:15)命であります特に重荷を負い疲れた人々に豊かな命を与えるために惜しみなく神に明け渡されるものであります
「わたしが来たのは羊が命を受けるためしかも豊かに受けるためである」(同10:10)  神から私たちに預けられた命は「この世界」のように自己に蓄えるのではなく与えることによって豊かになるのであります「わたしは命を再び受けるために捨てる」(同10:17)私たちはイエスに堅く結ばれているなら「この世界」から「命を奪い取」られることはありません
 さあ神の豊かさに生きるために自己への貯金をおろそうではありませんか



1997年4月13日(日)復活節第三主日 ルカ24:35〜48




今週のKey Word:「彼らは恐れおののき亡霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)

 私たちのこの世の生活は成果業績と言った目に見える結果を求めています従って余りにも高い目標を掲げた場合夢だ理想主義だと揶揄されもっと現実を見ろと大人からお説教されるのでありますあの荒れ野での悪魔のイエスへの試みはその現実主義からの誘いとして抗しがたいものであります夢よりも私の腹を満たすことを魂の救いより私の家私の車私のブランドものが先決問題だということであります
 イエスの復活というまさに現実にはあり得ないむしろ愚かで虚しい夢でしかないことを信奉するキリスト教会においても飢えた人々へのパンより老朽化した聖堂の補修が優先するのであります
 しかし私たちの命を生かすものは夢であり理想ではないでしょうかしかも私に預けられた生命能力は自己の必要を満たすためではなく神の願いに自己を明け渡す為のものなのですそれに反して現実主義は己を満たすエゴイズムでありますこの世での賞賛を求めるものにとってイエスの復活は「亡霊」であり空しいものでしかありません夢に生きる私たちにとっては復活のイエスは「恐れおのの」く必要のない私たちと共に生き食し悪霊と闘う生きた方なのであります
 さあ今日もイエスと一緒に自分の腹を満たすだけではなく重荷を負っている人々と分かち合いましょう



1997年4月6日(日)復活節第二主日 ヨハネ20:19〜31




今週のKey Word:「そこへイエスが来て」(ヨハネ20:19)

 イエスと悪霊との闘い即ち十字架の道は「この世」的には敗北(空の墓)でありましたしかし私たちの復活信仰はこの世の虚無に服したイエスを私たちの救い主(神のみ旨に生きる)と信じるのであります
 今日の聖書の話はイエスの死後その死の無意味さに失望して立ち上がれない弟子たちを描いていますマグダラのマリアの報告に耳をかさず弟子たちはこの世の価値観に縛られイエスの宣教活動は何だったのかその活動についてきた自分たちのこれまでは何だったのだろうかと後悔と自虐の念に頭を抱え込んでいました「そこへイエスが来」(ヨハネ20:19)たのでありますつまりわたしたちの既成の価値観を破るのは彼岸から(神から上から聖霊から)来るものによってしかできないのであります「真理の霊が来るとあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)マグダラのマリアもイエスから声をかけられてはじめてイエスの復活に出会えたのであります(ヨハネ20:16)しかし私たちは弟子やトマスと同じく証拠や確信を得たいのであります何となればこの世は私たちに目に見える成果や業績を求めるからでありますキリスト教でさえも証拠としての「奇跡」を求めます
 十字架で殺されたイエスを救い主(復活した)と信じられるのは上からの宣言を受け入れるということだけなのであります証拠も証言もありませんまさに墓は空っぽなのでありますそれこそ福音でありますこの世を君とするのではなくこの世が殺した人において生きる道があることを示されるのでありますから。
 さあ私たちは「復活とは何か」と此岸的知恵をもって詮索するのではなく生きて働いているイエスといっしょに悪霊と闘おうではありませんか


今週の一分間説教 Gospel on this week