ももちゃんの一分間説教


1997年3月30日(日)復活の主日 ヨハネ20:1〜9




今週のKey Word:「主が墓から取り去られました」(ヨハネ20:2)

 私たちはイエスとの出会いにより「命」を神に返すことあるいは神の下に生きることを示されましたそしてそれは「この世」が尊ぶ価値観業績・効率・合理性といった物差しではかりきれない神のみ旨に生きることでありましたたとえば神は世を救うと言って万軍の天使を遣わすのではなくイエスというただ一介の男を十字架に上げたにすぎない(ヨハネ3:16〜17)ということであります今日の福音の「復活」の話しはまさに神のみ旨が「この世」の思いとは全く異なることを明らかにしています即ち墓は空っぽだったということであります私たちはイエスがとてつもない大事業をしたと思っています神の意思に完全に従順であった従って死の勝利である「復活」は当然であるし復活のイエスは神々しい姿をしているはずだと想像します福音記者ヨハネも「十字架」を「栄光」と呼び賛美しているようであります「わたしは行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて地上であなたの栄光を現しました」(同17:4)しかしヨハネはその栄光を「この世」では空っぽの墓なのだと言うのでありますつまり此岸的には愚かで無でしかないのだ
 イエスがしてきたことは確かに凄いことでありますしかし私たちが「凄い」と言うときそれは「この世」的価値観でそう言っているのでありますイエスは神に完全に従順だった、と言うことも同様でありますそれゆえに前回のイエスが高価な油を贅沢に使ったという話を聞くとたまにはイエスも脱線するのだなあとこの世的に判断するのであります
神はそのような私たちの思いを見事に粉砕してしまいます私たちがイエスのように行ったら私たちも「復活」の栄光に与かれるという思いをそれに対しイエスが行ってきたことの結果は空っぽであると地上には何も残さなかったのだと
 「復活」それは「この世界」の価値観を徹底的に拒絶することであります私たちはいつも自分が役に立っているかどうかその評価を気にしながら脅えて暮らしています「復活」はこの世界が評価するのではなくそれを越えて神が一方的に宣言するのでありますまさに福音でありますそれはこの世を恐れない神において生かされるという喜びのお告げなのであります
 さあ私たちは自分のために「何かをしなければ」という悪霊に死のうではありませんかそして神と人々へ私たちの命をお返ししようではありませんか私たちの「命」が甦るのです



1997年3月23日(日)受難の主日 マルコ14:1〜15:47




今週のKey Word:「なぜこんなに香油を無駄使いしたのか」(マルコ14:4)

 私たちの悪霊との闘いはイエスの働きに身を委ねて悪霊に囚われた「命」を神に返すことでありましたところがこの神の下に生きるという人間本来の姿は「この世」においては少数派地味暗い堅い重いとレッテルを貼られ煙たがられています
 実際はどうでしょうか否でありますイエスの宣教旅行を見ているとむしろ喜び笑い満足といった楽しい状景を思い浮かべることが出来ますなぜなら死人は甦り病人が癒され孤独な人々が会食し女たちも弟子の一団に加わり貧しい人々は満腹したと報告されているからであります佐藤研氏は特に『罪人』との会食を「カーニバル」的空間(=人々がお互いに『あるがままに』交流しあい地位―役割に基づく特徴をはぎとられて裸のままで対面しあう状況)であったと言っています※1
 にもかかわらず「この世」の多くの人々はイエスとキリスト教徒を禁欲的でまじめで堅物と決めつけてその枠からはみ出たキリスト者には不道徳不信仰不まじめと非難するのでありますまた同じくキリスト者でありながらその枠を強固に押しつける人々もいます
 今日の弟子たちの高価な香油をイエスの頭にかけた女への憤慨も同様なことでありますイエスが弟子たちに持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい(マルコ10:21)と言っていたことをイエス自身守らず贅沢に遊んだとは何ということだ
 それに対しイエスは「良いことをしてくれたのだ」と弟子たちに次のように諭されましたそんなに 業績主義的に堅苦しく考えるなよこれまでの悪霊との闘いは人々にカーニバル的空間を創出してきたではないか私たちは誰にエエかっこう見せるのか人々の前で裸で弱さを見せることこそ神の下に生きることなのだ時には贅沢に高価な油で臭い体を清めてもらおうじゃないかさあ私たちはイエスと共に生を喜び楽しんでの悪霊との闘いにこの世の人々を巻き込もうではありませんか
※1 佐藤研『イエスの使命意識』 P.57〜66「イエス・キリストの再発見」中央 出版社



1997年3月16日(日)四旬節第五主日 ヨハネ12:20〜30




今週のKey Word:「この世で命を憎む人はそれを保って永遠の命に入る」(ヨハネ12:25)

 私たちと悪霊の闘いは人間の力によるのではなくイエス・キリストによってイエスの十字架において行われる闘いに身を委ねることでありました今週の福音でイエスは私たちの「命」とは何かを改めて問い別の観点から悪霊との闘いに招いています
 「この世」を支配する悪霊は私たちの「命」を色々な物で飾るように誘惑します権力地位ブランド品etc.私たちはそれらを手に入れるため刻苦勉励していますしかしその結果その「命」に残ったものといえば人間関係崩壊家族バラバラ過労死なのであります一方「この世」にではなく、神の下にある「命」とは何でしょうか一体私たちの「命」は自分のものではなく神から無償で与えられたものであります「生きる者となった」(創世記2:7)ことじたい恵みでありますそれゆえ恣意的に私たちは「命」を生きることは出来ないのであります
 しかしながら私たちは「命」を自分のものとし「命」に付加価値を多くつけることを生きる目的にしてしまいました実は私たちの悪霊との闘いは「命」を自分の手から取り戻し神にお返しすることなのであります神が私たちに「命」を賜ったのは神の望まれる愛と正義に私たちが生きるためでありますイエス・キリストはその模範を示されました彼は私たちが悪霊の支配から解放されるために己の「命」を神に返した即ち「地に落ちて死」んだ十字架に上げられたのでありますそして悪霊は負けたのでありました「今この世の支配者が追放される」(ヨハネ3:31)
 さあ私たちはこのイエスから力を戴いて「命」の装飾品を捨て身軽になって人々への奉仕に生きようではありませんか「死ねば多くの実を結ぶ」(同12:24)



1997年3月9日(日)四旬節第四主日 ヨハネ3:14〜21




今週のKey Word:「人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:15)

 私たちはイエス・キリストにより悪霊との闘いに招かれましたそれは私たちが「悪」ではなく「真理」を行うようにの勧めでありましたしかしその招きは私たちには到底不可能であります
 なぜならば悪霊に捕らえられた私たちは自己保身のために先週の福音のように「悪」を隠蔽した宗教を作り上げ自分らの弱い人々への差別・搾取を正当化してしまうのでありますそのような私たちにイエスは「新たに生まれなければ」(同3:3)「水と霊によって生まれなければ」(同3:5)「人の子によって」(3:14)でなければ「神の国を見ることはできない入ることはできない永遠の命を得る」と明言されるのであります即ち私たちと悪霊との闘いは人間の力によるのではなく上からの聖霊によるイエスの働きにおいてのみ成就しないというのであります
 悪霊は一人一人の内側に宿るのではなく個人をこえ社会構造そのものを動かしていますイエスが当時のユダヤ教の差別性抑圧性を変えようとしたとき当のユダヤ教自体から排斥され殺されてしまいました従って神はイエスを「この世」から上げその上(=十字架)からユダヤ教を建て直したのであります 仏教のことばに「彼岸に渡る」という言葉がありますがその意味は此岸の価値体系を肯定してものごとを解決しようとするのではなく彼岸に渡り彼岸に立ってものごとを見るほとけさまにおまかせするということであります※1
 私たちの悪霊との闘いもそれと同じ地平(=価値観強い者が勝つ富める者が強い老人子供病者は邪魔だ)に立ってではなく上に立ってつまり神の愛と正義(=無条件の赦し貧しい者こそ幸い)に足を下ろしてイエスの力をもって行われるのであります
 さあ私たちは自分の無力さに嘆くのではなくイエス(=独り子)においてだけ悪霊を打ち倒せることを喜ぼうではありませんか
※1ひろさちや著「仏教初歩」p.120〜127すずき出版



1997年3月2日(日)四旬節第三主日 ヨハネ2:13〜25




今週のKey Word:「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ 2:16)

 私たちはイエス・キリストとの出会いにより自己の内と外なる悪霊との闘いに招かれましたそれに従ったイエスの死後成立した初代教会では当時人間として正当な扱いを受けられなかった女性奴隷移民下層労働者らの対等で平等な人間関係(いっしょに飯を食う※1)の共同体が作られていたと言われていますしかし教会が大きくなり体制の宗教となったとき再び彼らは、隅に追いやられ富裕な男性の支配し権力者の利益を守る教会となりました
アシジのフラシスコらによる「イエスに帰れ」という改革が度々おこりましたが2000年後の今日の教会においても「教会」という組織を守る大義名分により「父の家を商売の家と」しているのでありますその教会においては社会的地位名誉学歴のある富裕な人たちが優遇され貧しい者精神障害者やホームレスアルコール・薬物依存者には居る場所がありません家のない人々のことより教会の建物の雨漏りに関心の第一を寄せるところなのでありますフランシスコのように批判的な人にはその当時の教会と同じく「こんなことをするからにはどんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(ヨハネ2:19)と非難するのであります
そんな彼らにイエスは言います「この神殿を壊してみよ三日で建て直してみせる」(同2:19)。
イエスにとって貧しい人々、病む者たちの痛み苦しみに共感できない神殿は悪霊の鎮座する所に他なりませんむしろ彼らと人生の喜びを分かつために自己を空にすることこそ神への真の礼拝なのであります。
さあ私たちも自己保存のための教会ではなく他者へ喜んで己を捨てられる者となる教会に建て直しましょう

※1渡辺英俊「パウロにおける義認論の射程」(福音と世界1995,10月)



1997年2月23日四旬節第二主日 (マルコ1:12〜15)




今週のKey Word:「服は真っ白に輝き」(マルコ9:3)

私たちはイエスとの出会いにより神の限りない愛を示されましたしかしそれは、忘我的な心地よいものでいつまでもそこに滞まりたいと思うものではありません私たちはよく荘厳なもの神秘的なもの例えば広大な緑に囲まれ巨大な屋根や柱が金銀に輝き、ステンドガラスの光が揺れパイプオルガンや鐘の音が響く神社仏閣教会を訪れたとき一瞬我を忘れて至福の境にいるかと思うことがありますそして出来うれば「この世」から離れそこでずっと過ごせたらと思うのでありますまさにペトロが真っ白に輝いたイエスの神々しさに我を忘れずっとその場にいたいと叫んだようにであります
 何故ペトロはそう叫んだのでしょうかイエスの宣教活動についてきたペトロをはじめ弟子たちにとってそれは思惑違いのしんどいものでありました彼らにとって「救い」(=神の国)はこの世界から脱け出る彼岸的なもの超越的なことであり気持ちよさとか楽とかであって苦しむとか闘うとかまして十字架につけられて殺されるなんて論外であったのですしかしイエスの宣教は悪霊との闘いであり、自己の放棄でありましたペトロたちはその十字架の道から逃げ出したかったのでありますだから思わずあのように言ったのでしょう
 私たちのイエスとの交わりも「この世」と内なる悪霊追放に向かうのではなくそこから逃れて他者との交わりを閉ざす場と化していないでしょうかまるで、ドラツグを飲んで気持ちよくなるのと同じでありますイエスの示された神の愛はそのような覚醒剤ではありませんむしろ私たちが悪霊を打ち倒し喜んで自己を他者に明け渡す者に変えられる赦しと力なのであります
 さあその神の愛の翼に乗って「この世」に立ち向かおうではありませんか



1997年2月16日四旬節第一主日 (マルコ1:12〜15)




今週のkey word:「福音を信じなさい」(マルコ1−15)

 私たちはイエス・キリストとの出会いにより悪霊追放という福音宣教に招かれました
 今週の福音では私たちの福音を信じるとは悪霊を追放することなのであると教えられます前回話したようにイエスはその福音宣教を「時は満ち神の国は近づいた」で始めいたるところで悪霊に囚われた人々を自由にしましたところで悪霊とは一体何でしょうかそれは神と対立するものでありますすなわち人間が他者との共生ではなく抑圧と差別に生きるところに存在するものであります病人を悪霊憑きとみなすことは病に苦しむ人と共感するのではなく分断し見捨てることに他なりませんホームレスを怠け者と見るときやはり彼の痛みに思いを寄せず自業自得だといって餓死を当然とするのでありますここには人間が悪霊になっていますあの戦争でのホローコースト今日の環境破壊も然りと言わざるを得ませんまたイエスを十字架につけたのもそうでありますしたがってイエスの生涯は悪霊となった人間との闘いであったと言えます
イエスは悪霊と化した人間に徹底的に赦す神の憐れみをもたらすことによって他者を愛する人に生まれ変わらしたのでありますこれが実は「時は満ち神の国は近づいた」*1ことなのでありますそして「悔い改めて福音を信じなさい」とはキリスト教の教義を信じることではなくその神の憐れみの中で生きよう,ということなのであります*2すなわち内なる悪霊に従うのではなく神の望まれる愛と正義に身を委ねようということであります
四旬節の初めにあたりイエスによってもたらされた神の憐れみに生かされて他者との連帯に歩みましょう

*1前回2−9を参照
*2岩波版「新約聖書マルコ」1:15の注12を参照



1997年2月9日年間第五主日 (マルコ1:29〜39)



今週のKey Word:「宣教し悪霊を追い出された」(マルコ1:39)

 わたしたちのイエスとの出会いはわたしたちをイエスの宣教旅行へ同伴させるのであります「わたしについて来なさい人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)今週の福音はイエスと弟子たちの宣教旅行の様子が描かれています
 それはイエスが行く先々で病人を癒し,悪霊を追い出したというものでありましたご周知のようにイエスの宣教第一声は「時は満ち,神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でありました大貫隆さんはこの「時は満ち」を「今この時点はすでに満ち満ちている」と訳すと書いておられます*1その意味は神が今や決定的な行動を起こしている時なのです永遠の命がやって来ているわけですと述べています*2従ってイエスの宣教は神の救いの無条件の実現(満ち満ちたもの)として人間の隷属状態(死んだ状態)からの解放(生命)をもたらすものでありました。イエスは到るところで病気に苦しむ人々を神の救いにあずからせるため「悪霊を追い出し」ましたその場に居合わせた人々は驚いて次のように言いました「これはいったいどいうことなのだ権威ある新しい教えだこの人が汚れた霊に命じるとその言うことを聴く」(マルコ1:27)当時病気は悪霊の仕業と考えられていましたしかもユダヤ教の指導者たちは病人に対しては神の罰だとして救いの対象外として彼らを扱っていました従って安息日毎に,会堂で語られる説教は病人らにとって神の近さをまったく感じられないまやかし以外の何物でもありませんでした一方悪霊にとっては人畜無害の戯れ言でしかありませんでしたしかしイエスの説教だけではない振る舞いには悪霊も抵抗せざるをえませんでした「ナザレのイエスかまわないでくれ」(マルコ1:24)イエスが「黙れ出て行け」と叱ったとき悪霊は叫び声をあげて退散したのでありますそれまでの律法学者とは違ったイエスの有様に彼らは上のような感嘆の声をあげたのでありますそして人々はイエスの宣教の業にあずからせるため多くの病人を連れていったのであります
わたしたちの宣教が悪霊も騒がない口先の有り難いお説教で終わるのではなく悪霊を叱りつける権威あるものに変えて行きましょう
* 1,2大貫隆「神の国とエゴイズム」P.161〜162 教文館

四旬節2月12日灰の水曜日〜3月22日「四旬節は信者はすでに受けた洗礼の記念と償いのわざを通して過越の神秘の祭儀に備えるのである」 典礼憲章27



1997年2月2日年間第四主日 (ルカ2:22〜40)



今週のKey Word:「主のために聖別される」(ルカ2:23)

 私たちとイエス・キリストとの出会いは人を介してまずイエスと会い次に持ち物を「捨て」てイエスの滞まる所に出かけて共に滞まることによってイエスをキ リストとして出会うことが出来るのでありました今週の福音ではイエス・キリストを他者に紹介する側にもその人の将来を共に分かち合う覚悟が求められています  マリアは初子のイエスを律法の規定通り神に献げるために神殿にやって来ましたそれはイエスを「主のために聖別」するためすなわちイエスを神に仕える者として献げるためでありましたこれは旧約聖書にも見られます一人はサムソンであります彼の母は不妊だったのですが神の使いから生まれる子はナジル人として神にささげられているからと子の誕生を告げられました(士師記13:3〜)後にサムソンはペリシテ人との戦いで自らの死を持ってユダヤ人を守りましたもう一人はサムエルであります彼女の母ハンナも不妊でしたが彼女の祈りをききいれられた神は彼女に子を授けましたそして彼女は言いました「私はこの子を主にゆだねますこの子は生涯主にゆだねられた者です」(サムエル上1:28)後にサムエルは王を欲しがるユダヤの人々と争い不遇のうちに生涯を終えました二人の母親にとって神から授けられた我が子が神に仕える者になったことはどんなにかうれしく名誉なことと思われたことでしょうしかし神に仕えることが対立を招き自己を犠牲にすることになるとは想像出来たでしょうか「兄弟は兄弟を父は子を死に追いやり子は親に反抗して殺すだろう私の名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる」(マルコ13:12〜13)
 シメオンは母マリアに言われましたイエスは神の僕として十字架の死を負わされているあなた自身の心も剣で刺し貫かれるのだ
 私たちがイエスに従うことは自分の生命を「捨てる」ことになります従って私たちが他者にイエスを紹介するということはその人の将来を見守らねばならないのであります母マリアが「これらのことをすべて心に納め」て十字架の下に立ったようにであります洗礼者ヨハネがヘロデに首を斬られるまで心にあったのはイエスに紹介した弟子達の行く末ではなかったかと想像されます
 私たちも人々をイエスに導くことに喜びを覚えますがそこで終わるのではなく信仰の旅の同伴者であり続けることこそに幸いを見出したいものであります



1997年1月26日年間第三主日(マルコ1:14〜20)



今週のKey Word:「網を捨てて従った」(マルコ1:18)
 私たちがイエスと出会いそのイエスをメシア(=救い主キリスト)と呼ぶにはイエスの滞まっている(泊まる)所へ出かけ共に滞まる(泊まる)ことによってでありました
 今週の福音ではイエスと滞まるつまりイエスに従うためには「捨てる」ことが求められると語られています
 イエスは度々「捨てる」ことに言及しています
「わたしの後に従いたい者は自分を捨て……」(マルコ8:34〜35)
「もし片方の足があなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい」(マルコ9:45)
「行って持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい……それから私に従いなさい」(マルコ10:21)
「わたしのためまた福音のために兄弟姉妹子供畑を捨てた者は……」(マルコ10:29)
「この人は乏しい中から自分の持っているすべて生活費を全部入れたからである」(マルコ12:44)
 以上のことからイエスに従う弟子の在り様は「捨てる」ことだと言えますそもそもイエス自身がまさに「捨てる」生を生きられました親・兄弟を捨て故郷を後にし名誉と地位を省みず十字架上で生命を捨てたのでありましたしかしそんなイエスはだれよりも自由に大胆に「この世界」の権力者を恐れず振る舞い神の愛を身近なものにしていきましたなぜならばイエスは己の生命が能力が衣食住が神の備えたものであると確信していたからに他なりません「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださるあなたがたは鳥よりも価値あるものではないか……今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださるましてあなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6:26〜30)
 わたしたちは自分の持ち物生命タレントを自分の力で獲得したのだからと減らないように傷つけないように失わないように細心の注意を払い後生大事に抱え込んで不自由に臆病に暮らしています捨てるときも要らなくなったものや整理に困ったものだけを処分するのでありますしかしイエスのようにそれらのものを「賜物」とありがたくいただくとき思い切り他者のために活用できるのではないでしょうか
 さあ神の計らいに身を委ねてイエスのごとく「重荷を負った人々疲れた者たち」のパートナーになって行きましょう



1997年1月19日年間第二主日


(ヨハネ1:35〜42) 今週のKey Word:「どこに泊まっておられるのですか」(ヨハネ1:38)
 私たちとイエスの出会いは人を介してなりますこれまで荒ら野の羊飼い三人の占星術学者老シメオンとアンナそして洗礼者ヨハネを通して私たちはイエスに出会うことができました今週の福音では更に突っ込んで紹介されたイエスを「救い主」(=メシア)として出会うことが描かれます
 ヨハネにイエスを紹介された二人の弟子はイエスに「どこに泊まっておられるのですか」(ヨハネ1:38)と尋ねましたヨハネ福音書のテーマの一つにはイエスが「どこにいるのか」がありますまずイエスはたびたび自分がどこから来てどこへ行くのかを語っています
「自分がどこから来たのかそしてどこに行くのかわたしは知っているからだ」(ヨハネ8:14他)
 次にそれがわからない人々はイエスをメシアとして拒否します
「あなたたちはわたしを捜しても見つけることがないわたしのいる所にあなたたちは来ることができない」(ヨハネ7:34)
 また弟子たちもイエスがどこへ行くのかがわかりませんでした
「主よどこへ行かれるのかわたしたちには分かりません」(ヨハネ14:5)
 更にあれほどイエスを愛したマグダラのマリアさえも同様でした
「わたしの主が取り去られましたどこに置かれているのかわたしには分かりません」(ヨハネ20:13)
 弟子たちやマリアにそれがわかるのは直接イエスが語りかけられてからであります(ヨハネ20:16,21〜23)
 私たちもまた彼らと同じ様にとくに困難や苦しみに遭遇したときイエスが「どこにいられるのか」神は「どこにおられるのか」と問うてしまいますしかし聖書を与えられ二千年の歴史を経た私たちにはその答えは明らかであります
 イエスは父のもとにいるのであります「言は神と共にあった」(ヨハネ1:1)すなわちイエスは神のみ心慈しみの向けられるところにいるのでありますルカ福音書には次のように言い表されています「主がわたしを遣わされたのは捕らえられている人に解放を目の見えない人に視力の回復を告げ圧迫されている人を自由に」(ルカ4:18)
 従って私たちは二人の弟子のようにイエスの滞まっている所に行き(岩波版「新約聖書」)いっしよに滞まるときイエスを救い主として出会うことができるのであります
 さあ「解放の旅」へ出かけて行きましょう



1997年1月12日主の洗礼


(マルコ1:7〜11) 今週のKey Word:「わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)
 年老いたシメオンとアンナは幼な子イエスにおいて神の救いの実現することをエルサレムの人々に証ししました(ルカ2:25〜35)
 今週の福音では洗礼者ヨハネが成人したイエスを聖霊による洗礼をさずける(=神の力によって人々を新たに生まれ変わらせる)方として荒ら野に来た人々に証ししましたその際洗礼者ヨハネは己のことを次のように言い表わしました
 「わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」
 しかしその当時の彼は「悔い改め」を宣べ水の洗礼を授ける者としてその名はユダヤ全土に知られていましたまた彼の厳格な禁欲的修道生活「らくだの毛衣を着腰に革の帯を締めいなごと野蜜を食べていた」(マルコ1:6)とその風貌はまさに「荒ら野の預言者」と呼ぶのにふさわしいものでありました一方イエスは突如彼のもとに現れた田舎出の貧しく無学な無名の者であったと想像するに難しくありません
 その名も無いイエスに対し彼は上のことばを語ったのであります何故彼はそうすることができたのでありましょうか
 それは洗礼者ヨハネはシメオンやアンナと同様に神の救いの実現が斯様な無名の貧しい小さな人々においてなされることを旧約聖書の信仰をもって受け容れていたからに他なりません(cf.モーセギデオンエレミヤ他)
 「あなたはわたしの愛する子」(マルコ1:11)はイエスが「飼い葉おけの乳飲み子」であり「最も小さい者」と同定したこれらの人々を言いそこにこそ聖霊(=神の力)が臨むのであります乙女のマリアも天使ガブリエルにそう伝えられました(ルカ1:35)洗礼者ヨハネもまた自らを僕となって低くしたゆえに名も無いイエスに降る聖霊を見る力を得たのでありました「主は打ち砕かれた心に近くいました」(詩34:19)
 私たちも神の救いの実現に参与するために身をかがめて人々に仕える者となりましょう



1997年1月5日主の公現


(マタイ2:1〜12) 今週のKey Word:「わたしも行って拝もう」(マタイ2:8)
 「この世界」の神のみ国への変革は目立たずみすぼらしく小さな「乳飲み子」から始まりますしかし変革を望まない「この世界」の力ある者たちはその兆しを察知すると即座に行動を開始しますある時は暴力をもって潰しある時は懐柔策によって体制内に取り込み骨抜きにしてしまいます
 キリスト教がローマ帝国に公認され国教となった背景には反ローマであったキリスト教を味方につけローマ帝国の秩序を維持する装置として利用されたことがありました
 同様に今週の福音には「救い主」誕生を知ったヘロデ王がその権力を守るための手立てを考えたことが語られています彼はいかにもその「救い主」誕生を喜んでいるかのように「わたしも行って拝もう」と占星術の学者たちに語るのでありました
 「この世界」の支配者たちは自己の利益を守るために実に巧妙に画策しますそしてこれまでキリスト教はその策にはまり体制内の宗教としての役割を担ってきました
 しかしイエス・キリストはまさにそのために殺されたのでありましたユダヤ教指導者たちの安泰のために
 従って私たちのよって立つところはそのイエスであって王として権力者としてまた政治に無関心な精神的指導者としてのイエスではありません体制から殺されたイエスを「救い主」として拝むことは私たちが抑圧され差別を受けている人々と連帯して生きることに他なりません
 さあ私たちも占星術の学者たちのように神の導きに従い変革の道を歩みましょう



1997年1月1日神の母聖マリア(世界平和の日)


(ルカ2:22〜40) 今週のKey Word:「そして急いで行って」(ルカ2:16)
  私たちの多くがまず初めにイエス・キリストと出会う所といえば教会ではないでしょうか教会でのイエスは十字架の刑死を克服した復活者であり勝利者であり神の右の座につかれた王でありますそれは言わばクリスマスの夜羊飼いたちが見た天の万軍(天使たち)が四方の闇を輝き照らして大合唱しイエスをキリスト(=救い主)と称えた様に比せられます
 しかしほんとうのイエスはその様では私たちの前には現れません
 天使たちの光々しさとは反対に見るかげもないみすぼらしい「飼い葉おけの乳飲み子」がキリストだと天使たちは告げるのでありました羊飼いたちはそのお告げに「一体これは何だ」と困惑したにちがいありません同様に私たちがイエス・キリストに出会うところは塔のそびえる巨大な教会やそのありがたい教えにではありません
 「急いで」その場から出て「乳飲み子」のところへすなわち「この世界」から拒否され見捨てられ蔑まれている人々のところへ行くとき出会うことができるのであります
「私が飢えていたとき……のどが渇いていたとき……旅をしていたとき……裸のとき……病気のとき……牢にいたとき」(マタイ25:35〜36)
 そしてまた「この世界」に「命と平和」がもたらされるのも軍事力や経済・政治力によってではなく「小さくさせられた人々」との目立たない働きからであると思います
 1997年の1月1日の今日からその一歩を踏み出しましょう

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