ももちゃんの一分間説教


1996年12月29日


(ルカ2:22〜40) 今週のKey Word:「聖霊が彼にとどまっていた」(ルカ2:25)
 羊飼いたちは天使のお告げによって「乳飲み子」を見に行くことができました父ザカリアは洗礼者ヨハネがキリストの先駆者であることを聖霊に満たされて預言しましたさらにマリアも聖霊の力に包まれ子を生み神のみわざを称えました
 今週の福音ではシメオンとアンナが聖霊によって乳飲み子を「救い主」と預言しています
 従って私たちがイエスを「救い主」として出会うには人間的わざ(知恵・信仰)によるのではなく上よりの力(神・聖霊・天使)を通してしかならないのであります
 それでは上の力はどこに働くのでありましょうかそれは先にあげた人々の共通点である「上よりの力の働く場を空けていた」というところにであります
 ザカリアは妻のエリザベトを不憫に思い祭司として何んとか神の力が働くようにひたすら祈ったのでした
 マリアは若い娘として神から託された使命を生きるために神の力にまかせる他ありませんでした「お言葉どおりこの身が成りますように」(ルカ1:38)
 羊飼いたちはその職業ゆえに人々から卑しめられていたが故に神の救いを待ち望んでいました
 そしてシメオンとアンナは年老いてホームレスとなっても「救い主」を待ち続けるという人々からは尋常ではない者と見なされていたに違いありません彼らの生きる意味は「救い主」の到来を告げることだけにありました
 かように私たちがイエスを「救い主」として出会うには自身を打ち砕き疎外されおとしめられている人々と連帯するとき実現するのであります
 さあ既に「救い主」と出会っている私たちは「上よりの力」において神のみこころを成長させて行きましょう



1996年12月25日


(ルカ2:1〜14) 今週のKey Word:「あなたがたは布にくるまっている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2:12)
 「この世界」特に「日本」のクリスマスは年々盛大になって来ましたところが実際は資本主義経済の原則で富める者がますます富み貧しい者がますます貧しくなるための市場として機能しているのであります「普通の暮らし」の人々は知ってか知らずか「この世界」の権力者の手の上で一夜限りの「無礼講」に酔っているのでありますまさに「死ん」でいるのであります
 しかし聖書のクリスマスのメッセージは「この世界」の指導者にではなく貧しくさせられた人々弱くさせられた人々への福音であることを語っています
「この世界」はより強くより速くより美しくと他者との差をつけた者こそが「勝利者」と称えられますしかしその「幼な子」そして十字架上のイエスは「この世界」からは省みられずむしろ唾棄されるものであります例えばホームレスの人々や死刑囚のように無視され敵視されているのと同じであります
 神の恵みはそのような「この世界」にではなく「この世界」から追放され無視された所に注がれるのであります
 クリスマスそれは私たちの心が「飼い葉おけの乳飲み子」即ち「この世界」から忘れられた人々との連帯に生きることへ迎わせる誕生日なのであります



1996年12月22日


ルカ(1:26〜38) 今週のKey Word:あなたは神から恵みをいただいた(ルカ1:30)
 「荒れ野」の叫ぶ声に導かれてイエス・キリストに結びつけられた私たちは非人間的状況下にある人々の苦痛と悲しみを取り除く神のみ心実現へ参与させられましたしかしその働きは「この世界」の指導者によってイエスが十字架刑に処せられたと同じく弾圧を受けるのであります
 その点から今週の「マリアへのお告げ」(ルカ1:46〜55)を読みますとマリアには何と恐ろしい将来を託せられたのかと思わざるを得ません彼女の初子が「主はその腕で力を振るい……権力ある者をその座から引き降ろし……富める者を空腹のまま追い返」(ルカ1:46〜53)す僕となることが決められたからでありますそれは当然わが子が「十字架の道」を歩むことを受け入れることとなりますどの母親がそれを望むでしょうかマリアは天使のお告げをどのように聞いたでしょうか
 しかし天使ガブリエルはその当惑したマリアに「あなたは神から恵みをいただいた」と語るのであります何ということでしょうマリアと息子に降りかかる恐ろしい将来が「恵み」だと言うのであります
 この「恵み」には二つの意味が込められていると思います一つは田舎の若い乙女が神のみ心実現への参与に招かれたということもう一つは我が子もまたその実現を一歩すすめる者になれるということでありますすなわち神の恵みとは自己の保全マイホームの安定を求める「この世界」的価値観を乗り越え我が身と我が子を捧げられることなのでありますもちろんそれはマリア一人でできることではなく「聖霊があなたを包む」ことにより達成されるのであります
 さあ私たちも聖霊の力に押されて神のみ心実現に向けて個人主義から脱け出て行きましょう



1996年12月15日


ヨハネ(1:6〜819〜28) 今週のKey Word:彼は証しをするために来た(ヨハネ1:7)
 私たちが「荒れ野」に立って「この世界」を警戒することがキリストの目指した神のみ心実現への参与のはじまりでありました
 しかし「この世界」の指導者たちは「荒れ野」に追放した人々が叛乱することを極度に警戒しますエルサレムのユダヤ教指導者たちが洗礼者ヨハネのもとに使者を遣わしたのもそのためであります「この世界」に疑問を感じた人々が続々と「荒れ野」の洗礼者ヨハネのもとへ水の洗礼を受ける様子に彼らは危惧を抱きました彼らユダヤ教指導者たちには普通の暮らしの人々がマイホームに追われて目覚めないことが得策なのでありましたそこで人々が騙されていることを証拠づけるために洗礼者ヨハネが何者なのかを尋ねさせたのでありました洗礼者ヨハネは答えました「わたしはメシアでも預言者でもない荒れ野で叫ぶ声でありイエスの証し人である」と
 ユダヤ教指導者たちは安堵しました「彼は何者でもないただの人心を惑わす者以外ではない」とま従って洗礼者ヨハネは後にヘロデ王に殺害されるのであります  それでは洗礼者ヨハネは何者でもないのに何故それほどのことをしたのでありましょうかやはりそれは彼が「荒れ野」の人々の苦しみ悲しみに我慢できず神のみ心を実現したいと思ったからにありませんしかし彼は自分の限界を知っていましたそれゆえに彼はイエスに後を託したのでありますすなわち人々を「荒れ野に導き目覚めさせイエスに従わせた」(ヨハネ1:35〜42)のであります
 私たちは何者でもありませんむしろ私たちは弱く罪深い者ではありませんしかしホームレスの人々や薬物依存者の苦しみを前にしたとき何とかしなければと思わずにはいられません自分の力には限界があります
 それゆえにこそ私たちがイエスにあるとき一つとなって大きな力となりうるのであります従って私たちの「重荷を負う人々疲れた者たち」への関わりは人々をイエスにつなぐこととなるのであります
 さあ今日も私たちはイエスを証しする「荒れ野」の声となりましょう



1996年12月8日


マルコ(1:1〜8) 今週のKey Word:荒れ野で(マルコ1:3)
 イエス・キリストとの出会いにより私たちはキリストのうちに「この世界」を警戒して目を覚まして神のみ心である「命と平和」を実現するようにと励まされています今週の福音には「この世界」を警戒するための視点をどこに置くのかが語られています
 神はいつも私たちの先にその道(=イエスとの出会い)を備えていて下さいます「見よわたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう」(マルコ1:2)イエスとの出会いは「荒れ野」の叫ぶ声に導かれます
 「荒れ野」それはサタンがイエスに試みた場所(マルコ1:2)と言われるように人々が容易に近づかない魑魅魍魎の棲む「恐い」所でありますまた「追放された者の行くところ」(創世記21:14)「贖罪の山羊が送られるところ」(レビ16:10)であるように人間社会からその「罪」を背負われた者の行く場所であります言い換えますと「荒れ野」とは人間の生存に耐えられない非人間的状況およびその非人間的状況に追いやられた人々の生きる場であるということであります「この世界」は自己の安定と利益を守るために障害者病人老人外国人難民犯罪者女性ホームレスを「荒れ野」に追放し「恐い汚い怠け者」とレッテルを貼り人々を近づかなくさせた場を作り続けています
 しかしその「荒れ野」から私たちに「主の道を備えよ」と叫ぶ声があるのでありますなんとなればイエスは神のみ心を「荒れ野」にて始められたのであります「ガリラヤ中の会堂に行き宣教し悪霊を追い出された」(マルコ1:39)
 従って私たちが「この世界」を警戒するときの立つ場視点は「荒れ野」でありますすなわち「この世界」から差別され虐げられた人々の悲しみ痛みを共感するところからでありますイエスが病人や貧しい人々と共に生きようとしたとき「この世界」の悪が明るみにされたのであります
 さあ私たちもマイホームから出てイエスにあって「荒れ野」に行き「この世界」を「荒れ野」の人々と共に「緑の原」に変えようではありませんか



1996年12月1日


マルコ(13:33〜37) 今週のKey Word:「警戒せよ目を覚ましておれ」(マルコ13:33岩波版)
 イエス・キリストとの出会いは私たちをして古い自己に死に新しい自己に生きるようにされます(私たちの古い自分がキリストとともに十字架につけられたのは罪に支配された体が滅ぼされもはや罪の奴隷にならないためであると知っていますローマ6:6)それゆえに私たちはキリストとの出会いをするたびに新しく生まれ変わるのであります
 キリストの第一声「時は満ち神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)は私たちに「この世界」にではなく「神の国」に生きるようにとの呼びかけに他なりません従って私たちの生き様は「この世界」に神のみ心が実現されるように参与することとなります「御国が来ますように御心が行われますように天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)
 「この世界」は今や聖書の語る終末(マルコ13:3〜13)の如き様相であります環境破壊人口増加貧困飢え戦争とその兆候には際限がありません「この世界」のどこに神のみ心があるのでありましょうか  「警戒せよ目を覚ましておれ」(マルコ13:33岩波版)とのイエスの声は私たちに惰眠から目覚めて神のみ心である「命と平和」(ローマ8:6)を「この世界」へ早く実現するようにとの励ましであります
 イエスは「この世界」に神のみ心を実現するようにと私たちの心にその種を蒔きましたその愛と力によって私たちは「この世界」を警戒して「命と平和」を育てて行きましょう



1996年11月24日


マタイ(25:31〜46) 今週のKey Word:「主よいつわたしたちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか」(マタイ25:37)
これまで二週にわたり神から「然り」と受け容れられる人生とはなにかを学んできましたすなわちその人生とはイエス・キリストを土台にして神の憐れみと働きのもと与えられた生命能力・境遇を大胆に惜しみなく他者への愛に使いきるというものでありました
 今週はその最終回でありますこれまでこの説教の中で毎週のようにキリストと出会った私たちの生きざまは「他者への愛」であると語ってきましたしかし「他者への愛」とはそんなに声高に語り肩肘を張り強迫観念的な特別なことをすることでありましょうかそれではまるでイエスが批判してきたファリサイ派的自己義認と同じことになるのではありませんか
 今週の福音では「他者への愛」とは隠れたものであり目立たないものであり気づかないことであると語られています「主よいつわたしたちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ……飲み物を差し上げたでしょうか」(マタイ25:37)
 私たちはそれをイエスの姿に見ることができますイエスが愛した人々は社会的・宗教的に最も忌み嫌われた人々であり(マルコ2:16)またそのイエスの生きざまを母親や兄弟たちまでもが「気が狂った」ものと見なし(マルコ3:21)ついにはイエスが愛した人々からも見捨てられ(マルコ14:50)神さえをも呪って刑死したのでありましたそれは世間的には全く無駄徒労惨めな姿でありますイエスの「他者への愛」はそれを目的とした行為ではありません病人を見て「深く憐れまれた」(=腸のちぎれる想いに駆られた(マルコ1:40)岩波版「新約聖書」)というような他者への苦しみ悲しみに直面していてもたってもいられず掟とか人の目とか神学的意味とか手段とか方法とか構わずその人々が一番望んでいる関わり方をしたのであります
 そもそも私たちが無価値で罪人であるにもかかわらず神が愛されたこと自体神から祝福され受け容れられた人生なのであります
 それゆえ私たちの人生は祝福を得るため賞を獲るためのものではなく感謝して他者に与えることなのであります
 さあ今日私たちが出会う「重荷を負い疲れた人々」に私たちすべてを与えようではありませんか



1996年11月17日


マタイ(25:14〜30) 今週のKey Word:「僕たちを呼んで自分の財産を預けた」(マタイ25:12)
「生きていて良かった」と人生を終えたいと願う私たちにとって神からその人生を「良い」と受け取っていただく第一段階は自己をイエス・キリストに据えることでありました(先週の福音)
 ともし火は油がなければ燃えないのであります
 今週の福音はその第二段階自己をイエス・キリストに下ろした私たちの生き方はどうあるべきかについて語っています
 そもそも私たちの生命能力境遇は神から与えられた(=預けられた)ものであります
「主なる神は土の塵で人を形づくりその鼻に息を吹き入れられた人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)
「主なる神は東の方のエデンに園を設け自ら形づくった人をそこにおかれた」(創世記2:8)

 それでは何のために神は私たちにそれらを与えたのでありましょうかそれは神から委託されたこの世界を守るためであります
「主なる神は人を連れて来てエデンの園に住まわせ人がそこを耕し守るようにされた」(創世記2:15)
 言い換えるならば私たちの人生とは神から与えられたものを用いて神から与えられた使命を全うするために生きるということでありますそして神からの使命とは「神への愛と隣人への愛」(マタイ22:34〜40)であります
 かって私たちはその生命能力境遇を自己の利益のためにだけ利用してきましたそして他者に勝つため老後のためといって安全に出し惜しみをして使ってきましたしかし今やイエスと出会いイエスを通して受けた神の愛により他者を愛することへ生の方向転換をさせられましたしかもその際私たちがその足をイエスにしっかりと踏みとどまらせているならば神の力が私を超えて働くことを知らされています
 今週の福音の−タラントンを預けられた人の誤りはその足をイエスに下ろさず自力で立っていたことでありますすなわち神の慈しみによってイエス・キリストにおいて赦されて生きられることを知らなかったのでありますむしろ彼は神を怒りの神吝嗇(りんしょく)の家の主人と理解していたのでありますそれゆえ彼は怖くて何もしなかったのであります
 さあ私たちは神から与えられたものをイエス・キリストにおいて惜しみなく大胆に他者のために使いきろうではありませんか



1996年11月10日


マタイ(25:1〜13) 今週のKey Word:「わたしはお前たちを知らない」(マタイ25:12)
 私たちの人生には終わりがあります死に際して「生きていて良かった」と言い残したいと誰もが思うのではないでしょうかしかしキリスト教において各々の人生を良いと評価し受け容れるのは人ではなく神でありますそしてその神の判断は人間にははかりがたい神の一方的受容であります(例えばマタイ20:1〜16)
 これまでファリサイ派の人々や律法学者たちを「見倣ってはならない」と弟子たちをいましめたイエスは25章で神の愛への応答として人生をどう生きるべきかを三段階に分けて彼らに語っています
 神の限りない憐れみはイエスにおいて私たちを自由にしましたすなわち自己に頼る利己的生き方から他者への愛に生きるよう解放されたのでありますしかしそれは「十字架の道」であります自力に頼ろうとするとかつて出エジプトをしたイスラエルの人々が荒野での生活に度々神に不平をつぶやき反抗したと同様に私たちは神に背き忘れてしまうのでありますまた私たちが「十字架の道」はイエスにあって歩むならば神は憐れみ続けて下さるのでありますまさにイエスの生涯が神との不断の交わりにあったように
 今週の福音の「十人のおとめ」のたとえは油を用意していた賢いおとめとそれを用意しなかった愚かなおとめの人生の結果が描かれています賢いおとめたちとはイエスに根づいている人々であり愚かなおとめたちとはイエスにしっかりと足をつけていない者たちのことでありますイエスに根づいている人々は神の大きな憐れみのもとに大胆に他者への愛に生きようとします
 他方イエスに十分足をつけていない人々は神を疑い自力に頼り他者との競争に生きますしたがってこの人々は「わたしはお前を知らない」と神から言われるのであります
 神の愛への応答としての私たちの人生の根本は何よりもイエス・キリストに土台を置くことであります(マタイ7:24)
 さあ私たちは自分の罪深さ非力さという重たい錨をイエスにおろして他者への愛に生きましょう



1996年11月3日


マタイ(23:1〜14) 今週のKey Word:「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ23:8)
 律法を自己の評価の道具とするファリサイ派の人々はイエスを罠にかけることに失敗しました今週の福音ではイエスがその彼らを見倣ってはならないと群衆や弟子たちを諭していますなぜなら前回にもお話ししましたように律法とは神の愛への応答として「神と隣人への愛」を生きるということでありましたそして「隣人」とは「十字架への道」を歩む者にとっては「友」(ヨハネ15:14)であり「兄弟」(マタイ23:8)でありさらには自分自身でもあるのであります(お前はお前の隣人をお前自身として愛するだろう(マタイ22:32)『新約聖書翻訳委員会訳』岩波書店)(太字筆者)
 創世記には次のようにかかれています最初の人間からパートナー(ふさわしい助け手)が作られたときその人を眠らせその人の骨を一部取ったとあります(創世記2:21)それはパートナーとは自分の一部自分自身だということを表していますまたそうして男女の人間が作られたとき二人とも裸であったが恥ずかしいとは思わなかったとありますつまりパートナーは互いにありのままを受けいれたということであります(月本昭男著『創世記』教団出版局P97〜101)人々がパートナー仲間であろうとするとき地位職業学歴家柄ブランド品能力で着飾るのではなく裸の素顔のままを受けいれようということなのであります
 隣人を愛して生きようとする私たちはファリサイ派と同じく先生と呼ばれることの大好き人間でありますイエスはそんな私たちに神の前で胸を打たせ隣人を友よと予備また呼びかけられる者に創りかえてくださいますさあたった今から「友よ」と呼びあいましょう



1996年10月27日


マタイ(22:34〜40) 今週のKey Word:「どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)
 イエスを亡き者にしようとするファリサイ派の人々はなんとか罠にかけようとイエスを再三試みました
 ファリサイ派の人々の頑なさとその執ような攻撃に対しイエスは寛容にかつ鋭く応対しじっと彼らの回心を待ち続けていますそれはまさに神の限りない憐れみ「七の七十倍までも」(マタイ18:21〜35)と人間の卑小さと罪深さを現しています
 さて今回のファリサイ派の人々のイエスへの質問は律法に序列をつけるものでありました「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)既述したように彼らのあり様は自力に頼る利己主義でありました自分が他の人に比べより厳しくより多くの律法を守ることに幸を見いだしていました(また広場で挨拶されたり『先生』と呼ばれたりすることを好む(マタイ23:7))従って彼らにとって律法には順位がありましたどれが一番で何が二番であるかは他者より優位を保つために知ることが大切だったのであります
 しかし律法は本来ただ一つに集約されるものであります「わたしがおまえを憐れんでやったようにおまえも自分の仲間を憐れんでやるべき」(マタイ18:33)だであります言いかえますと律法とは己への神の深い憐れみに応答し(=神への愛)他者を憐れむ(=隣人への愛)ことでありますそれゆえにファリサイ派の人々が他者と優劣を争い他者を疎外し差別するための道具として利用するものではないのであります神への愛と隣人への愛は一体であり一位二位という序列はないのであります「第二もこれ(第一)と同じように重要である」(マタイ22:38)
 イエスは律法本来の意味を明らかにして彼らをハッとさせました「神を愛する律法を守る」と言いながら実は自己の利益を得ようとする自分らのみにくい姿に気づかされたのであります
 私たちも「律法」を守らねばならないから回心し本来的自己の回復人間性を取り戻すものとして「神への愛と隣人への愛」に生きようではありませんか



1996年10月20日


マタイ(22:15〜22) 今週のKey Word:「イエスの言葉じりをとらえて罠にかけようかと相談した」(マタイ22:15)
 イエスの「天の国」への招きを人々はなかなか受け容れませんでした特にファリサイ派らユダヤ教指導者たちは「信念」と「信仰」と取り違えて自分らの「信念」に合わないむしろ批判的なイエスを何とかして葬ろうとやっきでありました今週の福音には彼らの策略の第一ラウンドが描かれています
 さてファリサイ派の人々はなにゆえそれほどまでに自分たちの「信念」に固執したのでしょうかそれは自分たちの「信念」が彼らの宗教的社会的政治的経済的地位を与えているからでありそれらが自分と他者を見比べる基準になるからであります(ルカ19:9〜14参照)  私たち資本主義社会に生きる者には「働かざるもの食うべからず」という「信念」がありますですから自分らの今の境遇は勤勉勤労の努力で得たものと自負をもっていますそしてホームレスの人々を「怠惰落伍者」と見下げ彼らに比べ自分は何と素晴らしい人間だとうぬぼれています  このようにその「信念」は自己と他者を分断するゆえに固定化されるのでありますそれに対し「隣人を愛しなさい」と宣べるイエスは自分らの境遇をひっくり返すものとして亡き者にされるのであります
 ファリサイ派の人々のその計画は巧妙で狡猾でありますイエスがどちらの答えをしても彼らの罠にはまるようになっていましたしかしイエスは彼らの質問には直接答えませんでしたなぜならイエスは彼らをとっちめるのではなく回心させたかったのであります  イエスは彼らに言いました「皇帝のものは皇帝に神のものは神に返しなさい」すなわち自力に頼って生きようとする者は限りない闘争に行きなさい神の憐れみに自己を置く者は人々を哀れみなさいと促したのでありました
 さあ私たちは絶えざる猜疑心と権謀術数に生きることから脱却し他者へのあわれみ信頼友情に生きようではありませんか



1996年10月13日
マタイ(22:1〜14)


今週のKey Word「しかし人々はそれを無視し一人は畑に一人は商売に出かけ」(マタイ22:5)
 自分の信念を越えられず(先週の福音)他者との交流ではなく他者を差別し疎外して生きる私たちにイエスは何度も何度も「たとえ」を話して「天の国」へ招いて下さいます
 しかし今週の福音ではそのように憐れみ深いイエスの招きに対し他のことを優先してそれを失う人々のことが語られています
 私たちの日々の生活は明日に備えた自己中心的なものであります「今日」は「明日」のためにだけあって「今日」のためにはありません従って他者との出会いも「明日」につながるかぎりの利己的交わりにしかないのであります
 そのような私たちに対しイエスの招きは「今日」を取り戻させるのであります
 「『わたしについて来なさい人間をとる漁師にしよう』と言われた二人はすぐに網を捨てて従った」(マタイ4:19〜20)
 「だから明日のことまで思い悩むな明日のことは明日自らが思い悩むその日の苦労はその日だけで十分である」(マタイ6:34)
 イエスにとって「今日」とは「天の国」が始まる日であり私たちが自己中心から「他者との共生」に生きる方向を転換する時なのでありますそして「他者との共生」とは「重荷を負った人疲れた人々」を深く憐れみ休息を与え食事を共にする「祝祭」を喜び真の交わりを実現することであります
 しかし私たちは「それを無視し一人は畑に一人は商売に出かけ」(マタイ22:5)明日に備えるのでありますその結果「『愚かな者よ今夜お前の命は取り上げられるお前の用意した物はいったいだれのものになるのか』」(ルカ12:20)と空しい生を送ることになります
 イエスの「天の国」への招きは私たちにして「今日」を回復させ他者との交わりに幸を見出させ自分を取り戻させるのでありますさあ今日の出会いを求めて招きに応えて行きましょう


1996年10月6日
マタイ(21:33〜43)


今週のKey Word「さあ殺して彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ21:38)
 今週の福音は先週に引き続きイエスのユダヤ教指導者たちを回心へと招くたとえ話が語られています
 彼らは神からの救いを自己の力によって獲得しようとしましたそしてその結果徴税人や娼婦たちを「罪人」と呼び疎外し差別してしまいました
 亀田政則氏は「信念」を「信仰」と取り違えると自分が正しい者であり正しい者と評価されても当然だと主張し自分の信念に適わない者には拒絶し敵対行動をとると述べています('95.12「福音と世界」)
 ユダヤ教指導者たちは「自分とは何か」を省みたとき生命は自分のもの才能・境遇は自分の力と努力で獲得してきたものだと思い違い「救い」も自己の力によって何をしてでも得ようとするのでありますまさに「さあ殺して彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ21:38)というのであります
 しかし私たちが自分を神の支配下においたとき限りなく憐れまれ生命は与えられたもの才能・境遇は恵まれたものであることに気づきますそして無論「救い」は神から一方的に贈られるものであると思い至るのであります
 私たちはぶとう園の農夫たちのように今の境遇に不平をいだきもっともっとと要求し続けるのではなく感謝していただき「重荷を負った人疲れた人々」に分かち合いたいと思います

今週の一分間説教 Gospel on this week