ももちゃんの一分間説教



今週の一句
山路来て 体染みいる 若葉かな

―もとゐ―


 2021年5月2日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1-8節

15,1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15,2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15,3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15,4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15,5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15,6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15,7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15,8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 先週と同じく、ヨハネによるイエスを譬えた箇所だ。他の譬のように、ユダヤ人には身近な題材を使ってイエスが誰であるか興味深く考えさせられる。旧約聖書ではぶどうを古代イスラエル人に譬えている。(例イザヤ5章)

 アラビア砂漠を彷徨っていた最底辺の社会層であるヘブライの諸部族がカナンの急峻な中央山地、農業に不向きな所へ移住し苦労を重ね農耕により定着して行った。やがて、ぶどうとオリーブの生産地となり、経済的に豊かとなった、当初、神の言葉を守ると契約した部族連合を組織したが、度重なる外国の侵略を受けた。対抗するため神に背き、王の支配のもと常備軍を持つ古代イスラエル王国となった。

 「奴隷に戻らない」と神のことばである「誰もが大切にされる」社会を目指したけれど、経済的豊かさの追求は民を王の奴隷にし、貧富の格差を拡げた。(主は裁きに臨まれる。民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」とイザヤ3・14,15)その歴史を振り返り、恵み深い神に背いたため北王国が滅ぼされたように、お前たち南ユダ王国も同様になる、故に、神に立ち返れとイザヤが詩っている。(わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。/わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。/よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。/その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。/しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。/略)

 ヨハネ福音書にとってイエスはその契約をユダヤの民が再締結するために神が遣わされた方であった。民が富と言う偶像と契約するのではなく、イエス、神が「人を大切にされている」と真理の証しをした者と契約する(ぶどうの木に留まる)ならばいつも明るく活き活きと生きる力、幸いな人生(実を結ぶ)となるとヨハネは語る。 
今週の一句
たんぽぽや 冠脱ぎ捨て 空へ飛ぶ
―もとゐ―

 2021年5月9日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9-17節

15,9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15,10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15,11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15,12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15,13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15,14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15,15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15,16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15,17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 ヨハネ福音書では、イエスにおいて神の愛(人を大切にすること)が示されたと言われる。「何故なら、神それほどに世を愛してくださったので、一人子なる御子を与え給うたのだ」(田川訳ヨハネ3・16)

 では、神が人を大切にするとは、人はイエスによって「いつも明るく活き活きと生きる力」を持てるのだと言う。それを今回はイエスの言うわたしの愛に留まれは、父=神の愛に留まると言い換えている。(例ヨハネ4のサマリアの井戸の女、生まれつき目の見えない男)前回の、ぶどうの木に留まる枝が実を結ぶと同じだ。さらに、留まるとは「私の戒命」を守ると言う、その戒命とは、互いに愛し合うこと、つまり、人々が大切にし合うことだ。

 ここから、人々が互いに大切にし合えるのは、まず、神が自分を大切にしていることを実感できるからなのだ。神は無条件に人を大切にする。この世は条件付き、限定的にしかしないにもかかわらず。この神の愛ゆえに、人は他者を大切にできる。ぶどうの枝が木であるイエスに留まって実を結べるように。
今週の一句
街角で ドキツ艶姿 紅躑躅


―もとゐ―


 2021年5月16日(日)
 主の昇天

 マルコによる福音書16章15-20節

16,15 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16,16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16,17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16,18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16,19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16,20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 今日の箇所は後の付加と言われている。マルコではイエスの復活はガリラヤで生きて働いている、そこへ行けば会えると弟子たちに告げている。言い換えれば、イエスとは苦難にある人々と共に居られる方だからガリラヤで今も生きて働いているのだ。そのように、他の福音書(マルコより後代に書かれた)と異なりエルサレムで復活したイエスを弟子の誰も見ず、会ってもいないのだ。

 さて、元々、「復活」とは高挙の意味と考えられている。福音書より古い原始キリスト教団の復活信仰告白である『キリスト賛歌』(フィリピ2・6-11 キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。)にはっきりそれが謳われている。

 つまり、教団は悲惨なイエスの十字架刑死を神によるイエスの従順に対する権威賦与の栄光ある働きであったと解釈したのだ。いわゆる、イエスのキリスト神格化と言われる。何故なら、イエスと同様、歴史上、苦難を強いられた人々は現代に亘っても数知れない。しかし、彼・彼女たちが復活したとは聞いたことはないからだ。現代のわたしたちにとっては、神格化されないナザレのイエスの生涯とは何だったのか。つまり、今なお苦難にある無名の人たちの人生は何であるかを考えさせる呼びかけではないだろうか。
今週の一句
薫風や 田を分け駆ける 電車かな

―もとゐ―


 2021年5月23日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節

15,26 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15,27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16,12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 ヨハネ福音書では他の福音書と異なり、「聖霊」を『助け手』、『真理の霊』と呼ぶ。その意味はイエスがもはや、父のもと、天に帰ったので、地上にはいない。しかしながら、キリスト教がもうすでに、ヨハネ福音書時代ローマはじめ世界中に広まっているのは、イエスに代わって弟子や教会を導くものとして「聖霊」が派遣されているに違いない、と理解したのだ。

 ところで、神の思いを私たちはイエスによって知ることができた。さらに、イエスの思いの現代化を今日に至るまでの教会の歴史、学問的研究、証人から学びつつある。その過程を「聖霊」、「真理の霊」つまり、『助け手』の働きであると言えるかもしれない。

 旧約聖書の創世記1章では神の「息」(=霊、ヘブライ語ではルーアッハ)は混沌の世界を秩序あるものとし、闇を光りに変え、その秩序、つまり、人間を支える宇宙万物の秩序を人間に分かるようにしたと語っていることから、さらに、同2章では、神の「息」をいただくことにより、人間は宇宙の世話の役務、他者をパートナーとして助け合い協働することを教えられている、ことなどからも類推できる。 
今週の一句
晴れ晴れと 舞う紋白蝶 雨上がる

―もとゐ―


 2021年5月30日(日)
 三位一体の主日

 マタイによる福音書28章16節-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28.20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 聖書の神ヤハウェは「人間はみな平等」を至上命題とする。言い換えれば、誰も見捨てないのが神の望みだ。99匹と一匹の羊の譬えのように。(マタイ18・12-14)今日の箇所では、それを『いつもあなたがたと共にいる』と表現し(マタイ28・20)、世界に派遣される弟子たちに同伴を約束している。

 三位一体の教説とは、さらに、言い換えているのではないか。即ち、神は奴隷であったヘブライの民に「自律」した人となって生きるよう呼びかけられ、モーセを通してことば、つまり、律法、生き方の方向指針を与えた。しかし、彼らは神のこころを理解せず、他の神々に従った。それでも、神は人々を見捨てず、イエスの誰も見捨てない生き様からガリラヤの民衆は神のこころを見ることができた。

 しかし、力ある者たちはイエスをそう生かしめた小さき他者への共感をもてず、この世の価値観に縛られ、「聖霊」の働き、神の息(人を活かすことば、ヨハネ福音書では「真理を証しする」と言う。)を拒否したため、他者への「共感力」「想像力」を起こせなかった。

 私たちは「神の子」として神の下でそのこころを学び、イエスを模範として倣うが、頭だけでは体は動かない。聖霊(神の息を吸い)によって、他者への共感力を豊かにしないと隣人にはなれない。つまり、三位一体とは私たちが強制によってではなく「自律」して喜んで他者と生きられるように、「いつもあなたがたと共にいる」と応援する神のことなのだ。


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