ももちゃんの一分間説教



今週の一句
台風や 飽くなき欲の 置き土産

―もとゐ―


 2020年9月6日(日)
 年間第23主日

 マタイによる福音書18章15-20節

18,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18,16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18,17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18,18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18,19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18,20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 教会とは、呼び集められた者、との意。つまり、イエスがガリラヤで始められた神のこころの実現、「誰もが大事にされる」運動に参加した者たちだ。参加者には資格や能力は問われない。ペテロや他の弟子たちのように裏切る者、老若男女、健常者や病弱者、徴税人や遊女などなど多様性に富む。それは、まさに、イエスの一匹のいなくなった羊を99匹の羊を残してまで捜す「神のこころ」そのものだ。

 教会、即ち、イエス運動では、選別してエリート集団になるのではなく、自己を省みつつ謙虚に、誰も罪に定めず、置き去り、見捨てず、むしろ包容しつつ旅をつづけて行くものとなることだ。 
今週の一句
夕焼けや 染め行く天地 線香花火

―もとゐ―


 2020年9月13日(日)
 年間第24主日

 マタイによる福音書18章21-35節

18,21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18,22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18,23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18,24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18,25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた
18,26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18,27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18,28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18,29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18,30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18,31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18,32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18,33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18,34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18,35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 イエスはガリラヤの苦難する人々を目の当たりにし、エルサレムの大金持ちに較べその不公平・不平等さに心痛め、それを解消しようと運動を始められた。その根本を幼少からの聖書の学びとガリラヤの風土から得たのであった。特に,創世記1~11章の「人間論」であった。まず、古代オリエントの大帝国と違い、ガリラヤの豊かな恵みを神は無条件に人に与えられる事。その自然に居続けるためには、人は他者と共に生きて,それを守る使命を与えられていること、自分と異なる人を認め、受け入れる者になること、富獲得競争ではなく分かち合うこと、を神は人と契約を結ばれたことをイエスは学んだ。

 しかし、神との約束を反故にし、人は真逆に、人を大事にしないで生きて来たのであった。人は神の前では決して正当化できないほど、背き続けているではないか。教会は自分を棚に上げ、他者の過ちを針小棒大に非難糾弾する前に、まず、神の前で自分を見つめることから始めようとイエスは呼びかけている。
今週の一句
朝散水 虹の輪くぐる 赤とんぼ

―もとゐ―


 2020年9月20日(日)
 年間第25主日

 マタイによる福音書20章1-16節

20,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20,2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20,3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20,4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20,5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20,6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20,7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20,8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20,9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20,10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20,11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20,12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20,13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20,14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20,15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20,16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 イエス運動は神のこころ、「誰をも大事にする」を証しするものであった。従って、ついて来た者たちの群れ「教会」も『互いに大事にし合う』を約束した。

 今日の譬えは「教会」だけではなく、社会の基本方針を提示している。出エジプトの神は奴隷の叫び、苦しみを聴き、行動されたように、イエスはその父である神に倣い社会の片隅に追いやられた人々に目を注ぎ、耳を傾けた。ガリラヤの苦難に喘ぐ人々の重荷を軽くしようとした。それは、譬えの主人が最も見捨てられた人を、有能で働き者と同じように大事にする「神の統治」の実現だ。教会はそれに召されている。どうしたら末端の人たちが大事にされるかは神任せではなく教会が考えるところだ。 
今週の一句
早刈り田 コンバイン休む 鷺の群

―もとゐ―


 2020年9月27日(日)
 年間第26主日

 マタイによる福音書21章28-32節

21,28 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21,29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21,30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21,31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21,32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 イエス運動の舞台は辺境のガリラヤであった。イエスの前に、飢え渇き、裸で病気のひとたちが倒れ、見捨てられていた。彼・彼女たちが食べられ、癒され、人間にふさわしい生活が送られるよう、彼らの中で働かれた。しかし、それは大海の水をざるで掬うようなものであった。

 イエスは学んだ。ガリラヤの彼・彼女らの不幸の原因は社会構造上から来たもの、即ち、エルサレムにいる社会の指導者、有力者たちの不正義、即ち、神からの背反である拝金主義にあることを。ユダヤ人の誰もが契約した神の掟の中心である「より弱い人を大事にする」に従うよう彼らに呼び掛けたのだ。

 福音書ではその論争物語をイエスの受難に至ったものとして描いている。従って、エルサレムでの過ぎ越し祭への巡礼に出かけた際、宗教・政治指導者と「神の掟」について論争することとなった。発端は、神殿でイエスが暴れたことだった。イエスにとって神殿は信仰の名によるガリラヤの貧しい人々を神殿税や巡礼で搾取し、律法による差別の正当化によって支配者の富と権力を維持する宗教支配体制の象徴でしかなかった。神の望まれるのは生贄や犠牲ではなく「あわれみ」であるとの預言者の言葉に従うイエスは義憤に駆られて暴れたのであった。

 その過激な振る舞いに支配者たちは当然、イエスの処罰を考えた。普通なら、神殿での乱暴だけでイエスを亡き者にできたのに、何故かしてない。それ以上の正当な理由を見出すために律法論争をイエスに仕掛け、危険思想、「神への冒涜」、即ち、死刑に値する罪をイエスから明確に引き出そうとしたと福音書は語るのだ。

 さて、エルサレムのユダヤ教指導者たち(当時は同時に政治指導者でもあった、ローマからユダヤの自治を任されていた。)は、イエスのガリラヤでの運動、エルサレムでの神殿での行動、治安破壊を何の権威でしているのかを論争から聞き出そうとした。しかし、実は自分たち宗教的指導者としての大祭司の位も神からではなくローマ帝国からの任命によるのであった。だから、イエスの権威の正当性を問うことはナンセンスなのだ。

 そんな、神に背き贅沢に暮らしている指導者から搾取・差別される遊女や徴税人を神が大事にされる、と言うイエスの発言は誰からも強要されたことではなく彼らへの共感、こころを痛めたイエス自身から出たのだ。イエスが苦難するガリラヤの民衆の立場に共感すればするほど、権力を振りかざし飽食贅沢に暮らしているエルサレムの支配者たちは、神の祝福からは遠く、むしろ、遊女や徴税人こそ相応しいと叫ぶのであった。


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