ももちゃんの一分間説教



今週の一句
菜種梅雨 震え止まらぬ 新感染症

―もとゐ―


 2020年4月5日(日)
 受難の主日

 マタイによる福音書27章11-54節

27,11 [そのとき、]イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27,12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27,13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27,14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
27,15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27,16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27,17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27,18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27,19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27,20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27,21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27,22  ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 
27,23  ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 
27,24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 
27,25  民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 
27,26  そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 
27,27  それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 
27,28  そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 
27,29  茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 
27,30  また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 
27,31  このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 
27,32  兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 
27,33  そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 
27,34  苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 
27,35  彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 
27,36  そこに座って見張りをしていた。 
27,37  イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 
27,38  折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 
27,39  そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 
27,40  言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 
27,41  同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 
27,42  「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 
27,43  神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 
27,44  一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 
27,45  さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 
27,46  三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 
27,47  そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 
27,48  そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 
27,49  ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 
27,50  しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 
27,51  そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 
27,52  墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 
27,53  そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 
27,54  百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 

 イエスの「神の国」運動、つまり、誰もが大事にされると言う神のみ心の実現は、「石をパンに変える」や全世界の支配によるのではなく、ガリラヤの苦難にある人々との寄り添いによるのであった。しかし、そのイエスはガリラヤでは民衆から「メシア」、奇跡行為者として支持を受けた。他方、見て来たように、ヨハネ福音書ではそのイエスを拒否するエルサレムのユダヤ教指導者との対立がエスカレートし、ついには、殺害まで計画することとなったと描かれている。

 福音書がそろって記す受難物語の第一場面、イエスがエルサレムで過ぎ越し祭、ユダヤ人アイデンティティを高める祭りを祝うために来たとなると、否が応でも、巡礼者は「メシア」、ローマ帝国の圧政からの解放として熱狂的な歓迎を受けるだろうし、指導者たちは対ローマ帝国との関係で騒動が起きないように、警戒し殺気立つのは必須だと、読者に想像させる。しかし、福音書の記述は、イエスの入城が民衆や指導者の思惑と異なる姿を描いている。すなわち、武力や奇跡をもって「神の国」をもたらすのではなく、非暴力・無抵抗で、むしろ、「柔和」腰を曲げたへりくだりの姿勢でもたらす方であることを示している。
今週の一句
新入学や 傘手放せず 開始かな

―もとゐ―


 2020年4月9日(木)
 主の晩餐 聖木曜日

 ヨハネによる福音書13章1-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 ヨハネ福音書の最後の晩餐物語は他の福音書とは異なるが、新たな視点を与えてくれる。他の福音書では、イエスとの新しい契約締結式となっているが、その契約とは何かを教える。すなわち、裏切る弟子たちを招き受け入れ、祝うと言うこと。それこそ、有り得ない約束をするのだ。

 イエスの生きざまは如何にしてこの世の人々が互いに大事にし合えるのかを示している。力によらず、金によらず、魔術によらず、ただただ、身を低くして自己を空しくして受け入れることによるのだと教えているのではないだろうか。イエスの十字架刑死が如実に示している。

 また、子ロバに乗って入城したイエスの姿の意味を示している。「柔和な」、つまり、「へりくだり」または「重荷を背負って腰をかがめた状態」とは他者の過ち、罪責を負うことなのだ。イザヤの「苦難の僕」の詩の姿である。彼は自らの実りを見/それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。 …彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。(イザヤ53章11節,12節)更に、イエスの負ったものは、ユダヤ教指導者たちから「罪人」とされ、苦難を負わされた人たちをもであった。教会の祝う晩餐もイエスを倣うことを約束するものでありたい。
今週の一句
長き雨 スーツ輝き 新入社員

―もとゐ―


 2020年4月10日(金)
 聖金曜日 主の受難

 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節

18,1 〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18,2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18,3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18,4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18,5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18,6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18,7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18,8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18,9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18,10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18,11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18,12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18,13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18,14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18,15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18,16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18,17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18,18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18,19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18,20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18,21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18,22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18,23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18,24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18.25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18,26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18,27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18,28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18,29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18,30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18,31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18,32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18,33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18,38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18,39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18,40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19,1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19.2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19,3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19,4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19,5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19,6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19,7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19,8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19,9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19,10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19,11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19,12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19,13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19,14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19,15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19,16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19,17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19,18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19,19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19,20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19,21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19,22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19,23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19,24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19,25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19,26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19,27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19,28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19,29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19,30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19,31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19,32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19,33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19,34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19,35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19,36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19,37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19,38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19,39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19,40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19,41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19,42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 イエスは神を冒涜したとユダヤ教指導者たちから死罪の判決を受け、処刑執行のためその権限を持つローマの総督ピラトによる裁判に引き渡された。

 ヨハネ福音書によるピラトのイエスへの尋問の焦点はイエスは「王」であるか、否であるのかだ。ピラトにとって「王」はローマ皇帝以外にはいなかった。それを拒否し礼拝しない者は反逆罪と処刑されるのであった。後のローマ帝国によるキリスト教徒迫害の理由もそれであった。ローマ皇帝は圧倒的な軍事力によって世界を征服し、資源の収奪と被征服民の奴隷化によって富を独占したのであった。ピラトは皇帝の側近に取り入り、出世し、権力を手に入れようとしたらしい。そんなピラトにとってユダヤ人指導者たちが、イエスを「神の子」「王」と称したから死罪に訴えたことを全く理解できなかったのだ。

 ピラトには富も軍隊も持たないイエスがただのガリラヤの貧民でしかなかったのだ。聖書によれば、神は「どんな人をも大事にされる方だ」。人がその神ヤーウエを「王」とし、その言葉に従うなら、互いに大事にし合うのが人生の目標となる。イエスはそれを目指したが、この世の「王」に従う人たちから拒否され、処刑されたのだ。イエスの受難とは神に従うことはこの世から拒否されることになるとの意味を言う。
今週の一句
停まる毎 桜の出会う 電車旅

―もとゐ―


 2020年4月12日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 金曜日は暗黒の日であった。イエスと彼の運動の仲間にとっては、貧しい人々の重荷を軽くしようと、彼・彼女らと寄り添っただけのことが支配者・権力者から暴力的に排除され理不尽にも殺害されたのであったから。言わば、この世の常として憎悪が愛を覆いかぶさり、滅ぼしたのだ。

 歴史上、不平等に抗して立ち上がった、ガンジー、キング牧師、中村哲さんはじめ無数の名もなき人々がイエスと同様、殺害され続けられている。けれど、彼・彼女らの遺志は消えない、慕った人々には微小ながら燃え続けている。この世の暗黒に穴を開けられるのは、イエスは生きている、つまり愛は滅びない、愛は勝つ、と言い続け、前へ進むことを先人たちは教えている。女たちの思いが岩を開けたように。
今週の一句
嵐明け 澄み渡る空 ハナミズキ

―もとゐ―


 2020年4月19日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19節-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネ福音書ではイエスを神の子と信じる人と拒否する人の二者を描き、後者には闇の子、罪人だと裁いている。それは、その福音書が書かれた背景に、ナザレのイエスを神の子と信じる者がユダヤ教から異端とされ、排斥された時代せあったと言われてる。

 従って、福音書の共同体では、自分たちイエスへの信仰こそ正しいと主張しなければならなかったのではないか。しかし、その彼らにとっては、神の子が十字架刑死したことは謎だった。刑死の意味を掴むまでは暗闇の長いトンネルであったろう。

 それを打開したのはイエスの生前の姿であった。どこで、何をイエスはしたのか。サマリアの女性や生まれつき目の見えない男のように苦難を背負わされた人々の中で、彼・彼女らの傍らに立ち、そのため殺害された、まさに、誰をも大事にされる神に従って生きた「神の子」だったのではないか、今、死の淵に立っている我々共同体の中にいてくれてるのではないか。

 そうだ、それに賭けよう、彼らはイエスから起こされ、新しく生まれ変わり、いつもいてくださるイエスと共に「神の子」の宣教へ旅立ったのだ。それを、復活したイエスとの出会いと物語ったのではないか。
今週の一句
春嵐 戸を打ち鳴らし 花粉洗う

―もとゐ―


 2020年4月26日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章13-35節

24,13 この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24,14 この一切の出来事について話し合っていた。
24,15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24,16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24,17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24,18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24,19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24,20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24,21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24,22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24,23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24,24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24,25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24,26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24,27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24,28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24,29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24,30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24,31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24,32. 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24,33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24,34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24,35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 イエスが復活した、神が起こされたとの信仰は、裏切った弟子たちが、何故、イエスは「キリスト(救い主)」であると生死を賭けて宣教したのか、その出来事を説明するために物語化されたのだろう。

 弟子たちこそが、言わば、死から復活、生まれ変わったのだ。どうしてか、弟子たちの閉じていた目が開かれ,認識し、心が燃えたからと言う。言い換えれば、それは、聖書を読み、パンを割いた時でるあると、ミサを暗示している。ミサとは単にパンをいただいて天国の恵みに与ることではなく、イエスと出会い、ゆるされ、イエスから宣教へと派遣される、まさに、死から生命へのダイナミックな場であることを、今日の箇所は教えている。 


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