ももちゃんの一分間説教



今週の一句
見渡せば 彼岸花の波 ゴンの瞳

―もとゐ―


 2017年10月1日(日)
 年間第26主日

 マタイによる福音書21章28-32節

21,28 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21,29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21,30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21,31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21,32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 イエス時代のユダヤの人々、特に、ファリサイ派や律法学者は、やがて来る終末の裁きに耐えられ、永遠の生命を得られるよう、神との契約、即ち、律法を厳密に順守して生きることに熱心だった。律法、つまり、神のことばを要約すれば、「全身全霊で神を愛し、隣人を愛する」ことだ。しかし、彼らの「隣人」は同じ契約共同体の仲間、同胞を指していた。従って、それ以外の異邦人や契約を守らず、神に背反した人は「隣人」ではなかった。例えば、「罪人」と呼ばれる貧しい人、羊飼い、遊女、医者や床屋、また、外国からの出稼ぎ労働者、ローマ帝国からの税金を取り立てる「徴税人」は「隣人」ではなかった。

 イエスはその「隣人」を広げて、境をなくしたのであった。イエスにとって「隣人」は旧約聖書の伝統にしたがって、寄留の人、孤児、寡婦を代表とする不利益、不正に扱われる人々であった。何故なら、ユダヤの先祖も同じく奴隷の身でありながら、神の憐れみにより救われたとの信仰があったから。隣人愛とはこれらの人々を大切にすること、それ故、仲間の徴でり、終末の喜びを表す会食を彼・彼女らを招いた。残念ながら、ファリサイ派や律法学者らはそのイエスに反発したのだ。自分らが今あることへの感謝と弱い立場の人への共感がなかったのだ。
今週の一句
名月や 闇夜を穿ち 宇宙照らし

―もとゐ―


 2017年10月8日(日)
 年間第27主日

 マタイによる福音書21章33-43節

21,33 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21,34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21,35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21,36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21,37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21,38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21,39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21,40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21,41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21,42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21,43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

神はイエスを通して私たちを幸いな人生へと招かれた。その人生は他者との出会い、発見によって広がる幸い、つまり、競争社会を自力で生きるのではなく、生かされ生かしあって互いを尊重し合う人生だ。まさに、神、インマヌエル(共にいる)の人生だ。イエスが社会から見捨てられた人々、特にファリサイ派から律法を守らない「罪人」と呼ばれた貧窮者、重い皮膚病者、外国人、職業的に差別された遊女や徴税人、等との交流、分かち合いは、人として尊重されなかった人々の人生を幸いに変え、イエス自身も喜びの人生に変えたのであった。他方、ファリサイ派の人たちは他者を発見できず、差別、搾取の相手としか見なかった。結果、競争社会で勝つか負けるかの利己的人生から出られず、勝つか負けるかの人生となったのだ。イエスが生涯て示された共生への道に私たちは招かれている。 
今週の一句
金木犀 姿なくとも 正体見たり

―もとゐ―


 2017年10月15日(日)
 年間第28主日

 マタイによる福音書22章1-14節

22,1 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。
22,2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22,3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22,4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22,5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22,6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22,7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22,8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22,9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22,10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22,11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22,12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22,13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22,14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 イエスは「神の国は近づいた。」と、私たちをその中に身を投じて生きよ、と招かれた。「神の国」とは誰もが幸せになるところ、生きていて良かったと思える様を言う。しかし、そのためには、神の言葉を守らなければならない。互いを大切にする、と言うことを。けれど、私たちは日頃の生活を守るために自己中心的生き方をしてしまいがち。特に、日本の「自己責任論」の強い所では。それに対し、「神の国」に生きる者は互いに助け合うのだ。旧約聖書の「寄留者、寡婦、孤児を大切にしなさい。」とはそのこと。イエスはまさに私たちを「福音」に招かれている。
今週の一句
散る花の 大地香し 金木犀

―もとゐ―


 2017年10月22日(日)
 年間第29主日

 マタイによる福音書22章15-21節

22,15 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22,16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22,17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22,18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22,19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22,20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22,21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 ガリラヤの農民たちは、重税にい喘いでいた。ローマ帝国、ヘロデ王、神殿税、そして、大地主からの小作料、等と。そのため、飢え、病み、裸で、娘息子を売り、路上で生活せざるを得なかった。イエスは彼らの苦難に心痛め、それを強いるエルサレムの政治・宗教指導者に腹をたてていた。そして、エルサレム神殿の浄めの行動に出たのであった。

 それ故、エルサレムの宗教指導者であるファリサイ派の皇帝への税金を納めるべきか(ユダヤ主義者からは異国への納税は「罪」と見なされていた)の問いに対し、その矛盾をついたのであった。「お前たちこそ、神殿税の名のもとに貧しい人々から取り立て、彼らを飢えにおいやっていることは「罪」ではないのかと。
今週の一句
総選挙後は 仮装にはしゃぐ ハロウィンかな

―もとゐ―


 2017年10月29日(日)
 年間第30主日

 マタイによる福音書22章34-40節

22,34 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22,35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22,36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22,37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22,38 これが最も重要な第一の掟である。
22,39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22,40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 弱小なヘブライの各部族が大国の侵略から身を守るため、連合体を結成した。その結集の旗印にしたのが神ヤーウエの提示する生き方、社会のあり方の方向指針に従うことであり、言わば、周辺の王を頂点とする階級社会ではなく誰もが平等な水平社会、理想社会の形成を神と契約することであった。

 神のその言葉こそ永遠、絶対、真理、と信じ従うことが「神を愛すること」(以後、聖書の「愛」を「お大切に」と訳す)であり、理想社会は小さくされた人たち、即ち、「隣人」をお大切にすることだ。イエスの生き方は、宗教的義務、祭儀より優先したのであった。(よきサマリア人のたとえ話を参照)


戻る