ももちゃんの一分間説教




今週の一句
田の秋や 色づき増しし 雨上がり

―もとゐ―


 2015年9月6日(日)
 年間第23主日

 マルコによる福音書7章31節-37節

7,31 〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7,32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7,33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7,34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7,35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7,36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7,37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 神のことばより人の言葉、父祖からの言い伝えに従いがちな私たち人間。世間は常識的人間と言い、評価する。そして、常識的人間としてそれから逸脱した人を裁きがちとなる。しかし、そこには、自分の主体的判断より、世間の目、大勢に従う言わば思考停止になっているのではないか。

 イエスはそうした思考停止した私たちの耳や目を開き、もの言えぬ状態から一歩出るよう勧めている。イエスはシロ・フェニキアの外国女性への関わりや耳と舌の不自由な人への関わり、他、「罪人」と呼ばれる遊女、取税人との関わりを通して、人の言い伝えより神の掟、即ち、「隣り人を自分のように愛せよ」の呼びかけに応えるよう、私たちの目、耳、舌、心の不自由さから解放されることを願っている。  
今週の一句
台風の 爪痕深き アベ政治

―もとゐ―


 2015年9月13日(日)
 年間第24主日

 マルコによる福音書8章27節-35節

8,27 〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8,28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8,29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8,30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8,31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8,32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8,33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
8,34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8,35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

 豪雨災害がまた起きた。人生の一寸先は闇、人は幸いに導く言葉を求め探す。占い等が典型だ。迷える人々を誘う国の指導者たちはおしなべて言う、「私こそ、国民の生命、財産を守り、幸せにする。だから、私に従え」と。イエスへの信仰告白と言われることはそれ似る。つまり、私を幸せに導く人はイエスだと他の数多の人物、言説から選ぶこと。では、何故イエスなのか。まず、福音書での出会いがある。次に、イエスと出会った人との交わり、更に、歴史上のイエスの影響を知ることから、イエスの生涯が普遍的価値であること、例えば、イエスの人権思想に与えた影響などから、これは本物だと気づくなどの極めて知的な作業だ。キリスト教ではそれを「聖霊」の働きと呼ぶ。(「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」イザヤ11,2)言わば、一生を託す人を選ぶのだから、単に「信じなさい」では『鰯の頭も信心』となってしまう。イエスを深く学ぶことを今日の箇所から教えられる。
今週の一句
人訪わぬ 墓地群れ集う 彼岸花

―もとゐ―


 2015年9月20日(日)
 年間第25主日

 マルコによる福音書9章30節-37節

9,30 〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9,31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9,32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9,33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9,34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9,35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9,36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9,37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 イエスの生涯を「神の国」の宣教活動と福音書は記している。「神の国」は空間を指すのではなく、支配を意味するから、神の主権が貫徹されていることと言える。神の意志の実現されていることだ。しかし、それは、聖書では人間が神に応答する限り実現される、と言う。神に背けば、混乱と滅亡を齎すと教える。

 従って、イエスの目指す「神の国」とは「子どもに仕えるところ」、つまり、誰もが不平等、差別されず、尊重され平等にされるところのこと。一番偉くなるとは、子どもに代表される権利を奪われた人々の人権を回復することに努めること。

 アベ政権の目指すところとは大いに違う。だから、キリスト者は拒否しなければならない。
今週の一句
長雨の 脳の活性化 金木犀

―もとゐ―


 2015年9月27日(日)
 年間第26主日

 マルコによる福音書9章38節-43節、45節、47節-48節

9,38 〔そのとき、〕ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9,39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9,40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9,41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9,42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9,43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9,45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9,47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9,48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

 先週の誰が一番偉いかに続き、今日の箇所は、教会内外の問題を扱っている。先週は、いわば、教会内の権力争いでしょう。今回は、イエス亡き後の教会には多くの分派があったと考えられる。既に、使徒行伝を見れば、ペテロ、パウロ、ステファノ、などの分派が見られる。イエスもユダヤ教ナザレ派と言われるように、死後、イエス派マタイとかイエス派ヨハネと福音書から分かる。今日の後半は、教会内部のある人を「小さい者」扱いにすることへの勧告でしょう。それら三つの箇所から読み取れる共通のことは、イエスの伝える「神の国」とは何かということ。

 イエスが「神の国」到来を願ったのは、ガリラヤの民衆の苦難に満ちた生活を人間らしい生活に変えたいと欲したから。ガリラヤの民衆は持てる者、力のある大きな者の搾取の対象でしかなかった。その価値が無くなれば、捨てられるだけであった。ガリラヤ民衆が平等に扱われ、大切にされるところが「神の国」だ。つまり、一番上の者は従わない分派を抑圧し、一番の者は他者を小さくし虐げるのが世の常だから、それは、神の国ではない、従って、教会もそあってはならないのだ。神の前では誰もが平等に大切にされるのだから教会もそれを目指そうではないか。


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