ももちゃんの一分間説教



今週の一句
クチナシや 雲垂れこめて 香しく

―もとゐ―


 2015年6月7日(日)
 キリストの聖体

 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節

14,12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14,13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14,14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14,15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14,16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14,22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14,23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14,24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14,25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14,26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 ヘブライと言われる人々はこの世の権力者に従うのではなく、この世を越えた「神」に従うことを選んだ。それを神との「契約」と言う。イエスもその一人で、貧しく虐げられた者たちの生命と人権が全うされるようにとの神の言葉(生き方の指針)に応えようとした。その生き様に魅力を感じ従う者が出てきた、即ち、弟子と呼ばれる人たちだ。やがて、イエスの言行は権力者から秩序を乱すとして睨まれ処刑されてしまった。弟子たちは長い苦闘の結果、イエスの遺志を引き継ぐ者として集まった。言わば、イエスの生き様に倣う契約をイエスと交わすイエスグループとして再出発した。「契約」には契約者同士が食事を共にすることが不可欠だ。イエスグループは今は亡きイエスとの契約を更新する場、再締結儀式として、晩餐を行った。イエスの体と血を記念するとは、イエスの生きざまに倣うことを意味する。後にこの晩餐はミサと呼ばれ、その参与はイエスグループが何であり、何を目指すかを再確認し再出発することを言う。  
今週の一句
振り向いて もの問いたげな 百合の群れ

 2015年6月14日(日)
 年間第11主日

 マルコによる福音書4章26節-34節

4,26 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4,27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4,28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4,29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4,30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4,31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4,32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4,33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4,34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 「神の国」と訳されている言葉は、もともと「神の支配」という意味。つまり、いわゆる「国」と言う空間・場所を指すのではなく、状態を指す。言い換えれば、「神が神とされる」様のこと。イエスの時代、大祭司はじめ支配者たちは神にではなくローマ帝国に仕え、現状維持に汲々としていた。また、神のことばである律法を人に対して「正しい人」と「罪人」に分け、それゆえ、貧しい人たちは税金に加え背負いきれない重荷に喘ぎ倒れていた。

 その「神を神としない」背反の状況に対し、イエスは神が神とされるように、すなわち、人々が神の言葉こそ価値ありとして、神との契約を交わし、守って生きることに忠実であろうとした。神の言葉は、人々の誰もが尊重され平等に生きることを指示しているから、重荷を解くよう働かれたのだった。しかし、その働きは芥子だねのように微小であった。けれど、2000年後の今、その人権思想は実りつつある。キリスト教会は後に続こう。 
今週の一句
雨煙る 街に佇む アガパンサス

―もとゐ―


 2015年6月21日(日)
 年間第12主日

 マルコによる福音書4章35節-41節

4,35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4,36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4,37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4,38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4,39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4,40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4,41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 嵐を鎮めるイエス、何とすごい、神的力を持つ方、何があってもこの方について行けば幸い、と福音は語る。もう少し、掘り下げて見てみよう。背景には、初代教会の困難な姿が見られる。ローマ軍によるエルサレム神殿滅亡後、ユダヤ人は全世界に散らばって行った。キリスト教会も同じくアジアやギリシャなどへ逃れて行った。行く先々で、様々な困難に遭ったことは想像に難くない。マルコ13章にある迫害も受けただろう。あるいは、教会内部の争いもあっただろう。ともかく、イエス死後、つまり、リーダーなき教会が困難をいかに乗り切るかが大問題であった。まさに、「嵐」だった。そんななか、やはり、頼るべき方はイエスしかいない、生前のイエスを思いだし、イエスも苦難に遭われたことを銘記し、それでもイエスが目指したことを追求し、繰り返し、繰り返しイエスを振り返ることが最善だ、と言う。イエスへの「信仰」とは、元々、「信頼」の意味であり、それは、「岩」、「固い」、「確かさ」を表すヘブライ語から来ている。詩編62には神を「岩」、「救い」「砦の塔」と呼び、「決して動揺しない」と歌っている。すなわち、イエスこそ「岩」、「救い」であり、そのイエスに従って行くことが盤石な生き方であると、言うこと。  
今週の一句
雨脚の 叩きつけても アガパンサス

―もとゐ―


 2015年6月28日(日)
 年間第13主日

 マルコによる福音書5章21節-43節

5,21 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5,22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5,23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5,24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5,25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5,26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5,27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5,28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5,29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5,30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5,31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5,32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5,33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5,34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5,35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5,36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5,37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5,38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5,39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5,40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5,41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5,42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5,43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 「信仰」と訳された言葉は元々、岩、岩盤、固いと言う言葉から派生した。イエスを土台として人生を構築するのがキリスト者だ。さて、今日のイエスの病気治癒と蘇生の物語り、旧約聖書のエリヤ、エリシャの「聖者伝説」をなぞって、イエスは偉大な預言者と主張している。読後はイエスは凄い人だ、めでたし、万歳、となるはずだが、イエスの神的能力を称賛するだけの話ではない。そこには、イエスを盤石とした関わり方、即ち、「信仰」の有り様が前回同様問われている。

 長血に苦しめられた女性とヤイロが対照されている。前者は無一物、社会から裏切られ何も頼るもののない人、後者は、地位・名誉・暮らしのある人、前者に比べれば途方もなく恵まれた者。女性は必死、後者は余裕。女性の必死さは道を開く、後者のいい加減さは、諦念となる。

私たちは、イエスを必死に求めているだろうか。平和・人権を必死に求めているだろうか。 


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