ももちゃんの一分間説教



今週の一句
無人の駅 母子降りれば 元旦の朝

―もとゐ―


 2015年1月1日(木)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 「主が知らせてくださったその出来事」を見に行った羊飼いたち。それは、羊飼いたちは、神の言葉を頼りにその「死の陰の」人生を歩んだことを象徴的に示している。「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」はこの世的には無価値である、何となれば、力、強さ、富、がこの世の価値であるから、無力、弱さ、無一物の乳飲み子には何の価値もない。まさに、イエスの生涯もこの世的には無価値であることを表している。しかし、それが、羊飼たちに示された生き方、神の言葉であった。羊飼たちは神を賛美しながら帰ったとある。

 アベ政権の進める戦争、軍事産業、原子力よる経済成長とは反対の非暴力、非軍事力と和解、分かち合いのイエスに従う新しい年にしたい。
今週の一句
福袋 求めて急ぐ 雪の道

―もとゐ―


 2015年1月4日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 聖書を残したヘブライの民は、その人生の指針、社会のあり方の方向を神の言葉とし、それに徹底的に従うことを選択した。と言うのは。この世のものは偶像であり、何の訳にも立たないと理解したからだ。

 占星術の学者のイエス訪問物語はそれを示唆している。彼らは占星術の専門家だから、聴く声は、星の動き、つまり、天の声に聴いて人生を歩むから。彼らはヘロデ大王の声、逆らえば、命を失うにもかかわらず、夢、つまり天の声、神の声に従った。

 秘密保護法の制定は、国民を目耳口をふさぎ、盲従させるためのものだ。従わなければ、罰せられる、戦前と同じ暗黒と弾圧の世の中となる。今、私たちは誰の声を聴いているのか。
今週の一句
古池や 朝陽眩しき 初氷

―もとゐ―


 2015年1月11日(日)
 主の洗礼

 マルコよる福音書1章7節-11節

1,7 〔そのとき、洗礼者ヨハネは〕こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1,8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1,9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1,10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1,11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


 イエスの洗礼、ここマルコ福音書では聖霊が下りイエスが神の子となった、言わば、即位式として描かれている。なぜなら、この福音書の初めに、「神の子」イエス・キリストの福音とあり、イエスが「神の子」であるとの前提から、では何時から「神の子」であったのかを示している。

 では、その「神の子」と何か。聖霊の授与、つまり、神の息、命をいただき新たに生まれ変わることを言う。最初の人間が神の息を吹き入れられて生きるものとなったという創造の話し(創世記2章)から分かる。また、ニコデモとの対話(ヨハネ3章)からも同様だ。

 イエスはそれまでの人間的価値観から神が提示する生き方、あり方を目指して生きることへ方向転換したのだ。重荷を負う人々の荷を共に背負う人生へと。(ルカ4・16〜参照)

 私たちキリスト者の洗礼はそのイエスについて行く初めの一歩なのだ。 
今週の一句
振り袖や 街を華やぐ 成人式

―もとゐ―


 2015年1月18日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章35節-42節

1,35 〔そのとき、〕また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
1,36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
1,37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
1,38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
1,39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
1,40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
1,41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
1,42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 洗礼者ヨハネは弟子たちにイエスを「神の子羊」と紹介した。イエスを「神の子」と呼ぶのは、イエスの十字架刑死の初代教会の解釈によるのだが、ともかく、ヨハネはイエスを次世代の人に伝える役であったと初代教会は見なした。では、私たちは自分の子や孫にイエスを何と紹介できるだろうか。現代人がその方に出会いたい、ついて行きたいと思わせるように伝えられるだろうか。その前には、自分にとってイエスが誰であるかを、まず納得してなければならない。 
今週の一句
大寒や 母口ずさむ 愛染かつら

―もとゐ―


 2015年1月25日(日)
 年間第3主日

 マルコによる福音書1章14節-20節

1,14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1,15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
1,16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1,17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1,18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1,19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1,20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 人は憧れや夢を持つと、その実現に一歩踏み出す。例えば、憧れのスポーツ選手のようになりたいと願うとき、精進努力を厭わない。同じように、現代の混乱、終わりのない紛争、続発するテロを前に、一刻も早く平和になり平穏な暮らしに戻ることを願うならば、そのためにできることから始めるだろう。

 今の混迷した時代を何とかしたい、変えたいと願っていた人はイエスと出会い、イエスの生き様を見た時、彼こそ、新しい生き方、社会の変革を示した人であると確信したのだ。まさに、彼にとってイエスの登場は「時は満ち、神の国は近づいた」なのであり、イエスは「神の子」、「神の子羊」だったのだ。そのイエスを憧れ、彼に倣い、ついて行くことを召命と言う。  


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