ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
雨の朝 傘の花なき 夏休み

―もとゐ―


 2013年8月4日(日)
 年間第18主日

 ルカによる福音書12章13節-21節

12,13 〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12,14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12,15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12,16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12,17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12,18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12,19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12,20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12,21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 「主の祈り」はイエスが弟子たちと共に唱える合言葉、スローガン、モットーと言われるもの。つまり、彼らはそれを口に繰り返すことにより、自分たちの使命、方向を確認したのだ。教会はまた「主の祈り」を唱える、そこに教会の存在理由がある。

 イエスの周りにいた人々の日毎のパンが与えられるために、為すべきことは持っている者がその一部を出し合うこと、分かち合うことしかできない。5000人の飢えた人が5つのパンと二匹の魚で満腹した、との物語はそれを象徴している。社会の成員がそれぞれ分かち合い、負債を免除し合うならば、明日への思い煩いはしなくなる。

 「主の祈り」を唱えるならば、自分の老後を心配することから解放される。なぜなら、互いに助け合おう、と祈るのだから。
今週の一句
夜明け前 指折り数ふ 秋立ちぬ

―もとゐ―


 2013年8月11日(日)
 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32節-48節

12,32 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12,33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12,34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12,35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12,36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12,37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12,38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12,39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12,40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12,41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12,42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12,43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12,44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12,45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12,46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12,47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12,48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 「明日を思い煩うな」のイエスの言葉は、私たちの人生の方向を転換させる。その大金持ちのようにこの世で財をどう作り、蓄えるかを良いとする人生から、天に宝を積む人生へと目を開かせる。「天に宝を積む」とは、限りある人間の価値ではなく、それを越えた価値、即ち、イエスが目指した万人が大事にされることを己の人生の目標にすることだ。従って、主人に忠実に従う僕と同じく、私たちはイエスの言葉をよく聴き応えなければならない。あのサマリア人、マルタ・マリア、主の祈りの意味するところのように。
今週の一句
回転寿司 家族溢れる 盆休み

―もとゐ―


 2013年8月18日(日)
 年間第20主日

 ルカによる福音書12章49節-53節

12,49 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12,50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12,51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12,52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12,53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

 今の日本では、自分の身は自分で守るしかない。それで、明日を思い煩うことで精一杯となる。他者の不幸を見ても、それどころじゃない、と言うしかない。イエスも父親代わりに、兄弟姉妹の面倒で精一杯だったに違いない。それども、イエスの眼は、周りの重荷を負った人々に向いてエルサレムへの道を目指した。母、兄弟姉妹、親せき、村の人々は困惑し引き留めただろう、「親不孝者」と。

 イエスに従うことを選んだキリスト者とはその同じ道を歩むことに招かれた者と言うこと。その招きに、私たちはどのように応えられるのか。考えて行こう。
今週の一句
残照の森 耳を澄ませば 法師かな

―もとゐ―


 2013年8月25日(日)
 年間第21主日

 ルカによる福音書13章22節-30節

13,22 〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13,23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13,24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13,25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13,26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13,27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13,28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13,29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13,30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 イエスは悔い改めを勧めた。即ち、神への立ち返りをしなければ、禍に会い、実のならないイチジクのように切り倒されてしまうと。また、イエスは救われたければ、狭い戸口から入るようにと言う。つまり、狭い戸口とは、神への立ち返りのこと。神への立ち返りは、神の言葉に従って生きること。そこに、幸いと命を見い出したのが旧約の民であり、神と契約を結んだのであった。しかし、他の神々、バアル即ち所有の神に従ったため祖国を失い、離散の民となってしまった。バアル神崇拝によって、古代イスラエル王国には強者と弱者、富者と貧者の格差生まれ、後者は前者から不平等に扱われ、飢えと貧困、流浪の生活を余儀なくされたのであった。イエス時代には、更に、律法の重荷を負わされ苦難を強いられた。その神に反する生き方をイエスは批判したのだ。

 今日の世界も同じく物神崇拝に席巻されている。イエスの言葉をキリスト者は心に留めなければならない。 


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