ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
ラベンダー ミツバチ集う 蜜の園

―もとゐ―


 2013年7月7日(日)
 年間第14主日

 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節

10,1 〔そのとき、〕主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
10,2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
10,3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
10,4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
10,5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
10,6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
10,7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
10,8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
10,9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10,10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
10,11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
10,12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
10,17  七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 
10,18  イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 
10,19  蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 
10,20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」 

 イエスと出会った人々はイエスの働きがサタンを打ち負かしたものと見えた。サタンは人間を非人間にする力と言う。病気や貧しさ、職業ゆえに共同体から排除され、人間として扱われなかった彼・彼女らはイエスが自分たちを分け隔てなく、人として認め関わったその姿に、どれほど生きる意味と勇気、希望を見いだしたことだろう。

 現代日本は人を役に立つか、立たぬかで峻別する。しかも、どちらとも生き難くなっている。72人の弟子はまさに非人間化に置かれ排除され、小さくなって生きざるを得ない人々のもとへと遣わされたのだ。教会の使命もそこにある。始まった参議院選挙もその視点から考えよう。  
今週の一句
梅雨明けて 昇る水銀柱 垂れる蔓

―もとゐ―


 2013年7月14日(日)
 年間第15主日

 ルカによる福音書10章25節-37節

10,25 〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10,26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10,27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10,28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10,29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10,30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10,31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,32 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10,33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10,34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10,35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10,36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10,37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 イエスの下には様々な人々が訪れた。飢え、渇き、病み、裸で貧しい人たちがサタンから解かれるために。また、今回のような律法学者、朝から晩まで一日中、律法、即ち、神の言葉、掟の現代化のため研究している者が。前者はイエスに具体的な助けを、後者は精神的な必要を満たすため、どちらも、「命」の充実のためと言えるが、彼らはそのためイエスのもとに来た。しかし、後者の律法学者は純な心ではなく、イエスを試し、イエスを笑いものにしようと悪意を持って、イエスに論争をしかけたにすぎない。

 さて、「命」の充実には、律法学者のような衣食住足りた人(まさに日本人クリスチャン)は自分の生きる意味とか価値を見い出したいのではないか。イエスのその答えは「隣人になれ」、であった。「隣人になれ」とは相手にとって必要な者になる、と言うこと。サマリヤ人のように、我が身の危険を顧みない事、時間労力を惜しまない事、等々。祭司やレビ人のように自分を優先しないこと。自分の「命の充実」を求めた結果、他者の「命の充実」に自分の命を削ることとなる。

 イエスやサマリア人は隣人になった、が、祭司やレビ人はなれなかったのは何でだろうか。それはイエスやサマリア人は旅をしていた、祭司やレビ人は定職定住がったからではないか。つまり、守るべきものがないことと守るべきものがあること、それが「隣人になる」かならないかの決定的違いではないか。やはり、信仰とはドグマを信じることではなく、生き方全体なのだ。イエスに倣うクリスチャンの道まだまだは程遠いが、近づきたい。    
今週の一句
風さやか 自転車走れば 蝉しぐれ

―もとゐ―


 2013年7月21日(日)
 年間第16主日

 ルカによる福音書10章38節-42節

10,38 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10,39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10,40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10,41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10,42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 イエスの「隣り人になれ」の招きは、私たちの目を内から外へと向けさせる。律法学者と同じく、自分が愛するの「隣人」は誰かと対象者を捜していた。つまり、自分に都合のいい相手を「隣人」として関わっていた。相手の意向はともかく、自分が良かれと思うことだけを行っていた。だから、仕事の忙しい祭司やレビ人は通り過ぎたのであった。マルタもイエスの思いではなく、自分の思い、自分を中心にして相手をそれに従わせようとした。「隣り人になる」には必要なことはただ一つ、それは、まず、相手から話を聞く、想像すること。 
今週の一句
にわか雨 止んだと思えば 蝉しぐれ

―もとゐ―


 2013年7月28日(日)
 年間第17主日

 ルカによる福音書11章1節-13節

11,1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11,2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11,3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11,4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11,5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11,6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11,7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11,8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11,9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11,10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11,11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11,12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11,13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 イエス時代のユダヤでは全人口の95%が飢え、病み、負債の重荷に喘いでいた。彼・彼女らを前にイエスは心痛めた。しかし、彼一人では何も出来ない。彼は神に祈るしかない。「日毎のパンをください」「負債を免除してください」と。しかし、彼は神にお願いするだけではなかった。働き、仲間を集めた。願うだけではなく、自分たちが行うべきこと、目指すべきことを毎日祈り口にすることを。そうして、自分たちが何者であり、何のために集まっているかを思い起こしたのだった。飢えた人々とパンを分かち合ったエピソードはそれを示している。

 「主の祈り」は言わばイエスに従う者たちの合言葉、口にする度に、自分が何に呼ばれているか思い起こそう。 


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