ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
モーニング出て 空見上げれば 紫陽花も

―もとゐ―


 2013年6月2日(日)
 キリストの聖体

 ルカによる福音書9章11b節-17節

9,11b 〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9,12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9,13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9,14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9,15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9,16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9,17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

 今、多くの人々が飢えている。第三世界と言われるところはむろん日本においてさえ、先日の大阪での母子が飢えて亡くなっていたことは悲しい。イエスにパンの奇跡を待ち望む人々は多いことだろう。しかし、今も昔もイエスはパンを増やしてはいない。イエスは飢えた人々と関わろうとしなかった。自分らの食い物がなくなるからと。そんな弟子たちにイエスはパンをやれと諭される。私たちは飢えた人を見たとき、神に祈る、パンを与えてくださいと、自分のパンを差し出さずに。

 こんな私たちにイエスは呼びかける、「分けよ」と。旧約聖書の申命記※にあるように、飢えた人々がいなくなるには、まず、関心とたとえ、僅かであっても持っているものを差し出すことからはじめよう、とイエスは呼びかけている。

 ※あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたのかみ、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。…あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。(申命記15・4−8)  
今週の一句
梅雨入りも 草木萎れて 恵み雨

―もとゐ―


 2013年6月9日(日)
 年間第10主日

 ルカによる福音書7章11節-17節

7,11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7,12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7,13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7,14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7,15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
7,16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
7,17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 死は人には避けられない定めだ。けれど、誰もが自他の死を逃れたいと思っている。己の死は受け入れられないし、他者の死には無力だから。それ故、今日のイエスが死者を蘇生したという物語は朗報だ。イエスは死に打ち勝つ方であるとの信仰は魅力だ。しかし、そんな事はあるわけがない。イエスを信じた人は死ぬし、愛する人の死も防げられなかった。では、今日の聖書箇所をどのように考えたらよいのか。まず、イエスの病気治癒伝承が残っていることは、ガリラヤの病み、飢えた貧しい人々にとって、イエスは神から遣わされた奇跡行為者であったのだ。福音書を著した人は、その伝承のイエスに更に、旧約聖書の預言者エリヤ伝(やはり寡婦の息子を生き返らせた。列王上17章)を使ってイエスをエリヤに準えたのだ。物語の終わりに、「大預言者が現れた」との賛美の声がそれを示している。

 ともかく、ガリラヤの重荷を負わされた人々にとって、イエスはその荷を軽くされた方であった、ことは私たちイエスに従おうとする者には意味がある。つまり、私たちは困難にある人々、今日のような、子を失くした母親の傍らに立つ、ことを教えているのだ。  
今週の一句
夏の空 パン手の登校 女子高生

―もとゐ―


 2013年6月16日(日)
 年間第11主日

 ルカによる福音書7章36節-8章3節

7,36 〔そのとき、〕あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7,37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7,38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7,39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7,40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7,41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7,42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7,43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7,44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7,45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7,46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7,47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7,48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7,49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7,50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
8,1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
8,2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
8,3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 今日のある女性の油注ぎの話しは「徴税人や罪人の仲間」と揶揄されたイエスのその姿を示している。

 イエスを招待した主人はこの女性を「罪深い女」とのレッテルで見下していた。だから、女性の勝手な振る舞いを咎めず、イエスの評判を落とすためのいい機会として女性を利用した。他方、イエスは世間的評判に縛られず、この女性のなすがままに任せた。なぜなら、深い心の交流が彼女との間にすでにあったから。イエスは人との交流を「徴税人」「売春婦」「罪人」と言うレッテルに囚われず、その独自性を持つ一人として交流した。

 イエスとの交流を持った人々は驚かずにはおれなかった。今までこんなことはなかった、と。世間的には許されない女性の油注ぎは、その深い交流への、言わば、神への感謝の礼拝行為ではなかったろうか。何が何でも感謝せずにはいられなかったのだ。

 イエスは「重荷を負わされた人」の荷を軽くされる。人生を前向きに生きられるようにされる。教会も倣おうではないか。       
今週の一句
空梅雨や 背伸びしている アガパンサス

―もとゐ―


 2013年6月23日(日)
 年間第12主日

 ルカによる福音書9章18節-24節

9,18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9,19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9,20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
9,21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9,22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9,23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9,24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 

 イエスは行く先々の病人を癒し、空腹を満たし、嵐を鎮めた。イエスは同行してきた弟子たちに、お前たちは私を誰だと思うか。油をイエスの足に塗った女の逸話のように、確かに、ガリラヤの貧しい人々にとってはイエスは幸いを齎した人であっただろう。しかし、イエスは単なる奇跡行為者、慈善家ではなかった。なぜなら、そのイエスはユダヤの支配者やローマ帝国からは秩序を破壊する政治犯として危険視され処刑されたのであった。社会が排除し、差別し、収奪する底辺層の人々が全うに生きられるよう努めたイエスは権力側からは邪魔であったのだ。

 福音書はそのイエスに従うよう、弟子たち、そして私たちを招いている。 
今週の一句
雨空や 気分爽快 七変化

―もとゐ―


 2013年6月30日(日)
 年間第13主日

 ルカによる福音書9章51節-62節

9,51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9,52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9,53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
9,54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
9,55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
9,56 そして、一行は別の村に行った。
9,57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9,58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9,59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9,60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9,61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9,62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 イエスは私たちの既成の価値を変える旅に招く。神は私たちが求める、暮らしの安定、安心、満足から離れる、出るよう呼びかける。アブラハムへの召し出し、出エジプトへの呼びかけ、ペテロたちの招きに見られる。故郷、父の家、エジプト、定職、船、家族からの出発が、私たちの頼る安定、安全、即ち、「定住」から離れることを示す。「定住」衣食住・職を維持するために、私たちはエジプトにいるように奴隷であることを望む。

 安部政権の勧める経済成長戦略では10年後に収入を150万円増やすと言う。この甘い水には誰もが反対しないだろう。けれど、そのためには、原発再稼働、憲法改正、戦争という苦い水を飲めと誘うのだ。まさに、イエスの荒野に試み、全世界の栄華をお前にやろう、ただし、悪霊である俺を拝め、を思い起こす。

 しかし、その奴隷に留まることをよしとせず、自由へと荒野を旅したのがヘブライ人であった。ヘブライの民の末裔であるイエスも、貧しく飢え病気の人々が人間らしい人生を送られるよう、今の生き方でいいのかと、イエスは私たちに呼びかけるだ。    


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