ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨の朝 登校楽し 落ち黄葉

―もとゐ―


 2012年12月2日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 終末論の発生は、圧政に喘ぎ苦しむ状況からであった。圧政下にあって、信仰、つまり、ユダヤ教的生き方を守り、殉教した人たちを神がどう処遇されるかの問いの答えとして生まれた。キリスト教会も初期には迫害されたので、同じように終末論、神が裁きに来られ、新しい天と地に作り変えられること、即ち、キリストの再臨、世の終わりを願った。

 しかし、現代、特に日本のような目立った圧政のないところでは、クリスチャンは誰も終末を願わない。願うのは現状維持だけだ。では、今日の聖書をどのように読んだらいいのか。2000年前の教会の話しとしてだけ読むこと。やはり、イエスに戻ろう。イエスは目の前で苦しむ人々に手を差し伸べ。無関心な人々には回心を叫んだのであった。

 だから、「目を覚ましなさい。」他者の苦しみを知り、その原因に気づくことをイエスは私たちに呼びかけているのではないか。  
今週の一句
幌揺らし 流れしソングは クリスマス

―もとゐ―


 2012年12月9日(日)
 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1節-6節

3,1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3,2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3,3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3,4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3,5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3,6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 師走の選挙戦、まさに、先生になるため走り回っている。そこから聞こえる声は空しい。民主党のように、選挙前と後ではまるきり違ったために、どの声にも言うだけか、と思うのは寂しい。それでも、それらから日本の将来を任せられる本物の声を聞き分けなければならない。

 2000年前のユダヤでは、やはり、苦難にある人々は解放を求めて本物の声を捜した。大祭司たちはローマの圧政に喘ぐ民を更なる重税で苦しめた。ファリサイ派の人たちは厳格な律法遵守を強いて民を分断した。エッセネ派は荒野に出て行って修道生活をした。置き去りにされた民は飼う者のいない羊のように彷徨っていた。民はどう生きたらよいのか、優れた指導者を捜した。それは、神殿ではなく、シナゴーグではなく、修道院ではなく、荒野の修行者にその声を聴いた。

 腹も膨れ暖かい衣に身を包んでいる恵まれた者からは叫び声は聞かれない。荒野の暗闇で魑魅魍魎と闘っている人の叫び声は確かだ。苦難の人々と共に闘っている人を立候補者から探そう。
     
今週の一句
初雪や 感動束の間 車出す

―もとゐ―


 2012年12月16日(日)
 待降節第3主日

 ルカによる福音書3章10節-18節

3,10 〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3,11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3,12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3,13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3,14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3,18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 旧約聖書では人と神との関係を「契約」と言う。神を人の困り事から救う者として祈り、捧げ物する対象ではない。人は神の示された生きる方向に従うことを約束する。神とはこの世を超えた絶対者だ。つまり、人はこの世の価値を求めないと言うこと。洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」はこの世的生き方から、神の示す生き方へ向きを変えよう、との呼びかけなのだ。人は問う、「どうすればいいのですか。」ヨハネの答えは、弱者への配慮、共生への道となっている。それは、旧約聖書が常に語っている「正義と恵みの業」(エゼキエル書18章、他)のこと。従って、所謂、「信仰」とは「正義と恵みの業」を生きることなのだ。   
今週の一句
サンタ帽子 商戦盛り上げに 一役か

―もとゐ―


 2012年12月23日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39節-45節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 人生はいつでも問題が起きる。若くても、年老いてもそれぞれに悩み苦しみがある。しかも、人生を私のものと考えるのではなく、神からの呼びかけに応えるものでもあると考えるなら、苦しみは増すばかり。神に応えようとするなら、一人では更に困難となる。同志が必要だ。教会はまさにそのために「呼び集められた」のだ。神の前でエリサべトとマリアのように、お互いの労苦を共に担う者になること、それが、教会となる。
  
今週の一句
馬小屋の 煌めくツリー 聖夜かな

―もとゐ―


 2012年12月24日(日)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 今回の総選挙では自民党が大勝した。自民党は軍事・経済優先で、経済格差の拡大を進めているにもかかわらず、有権者は命より経済を選んだことになった。古代より人間を虜にして離さないのは「富」と言われている。旧約聖書を残した人々の闘いはバアル(所有)とだった。世界史では優れた軍事力を持った国が周辺の国々を征服して行ったのも「富」の獲得のためであった。日本の明治以来の「富国強兵」も同じこと。その結果、何と多くの命が奪われたことだろうか。それでも、常に「富」を求めるその誘惑は何と強いことだろう。

 クリスマスのメッセージはその「富」への執着への「否」ではないか。クリスマス物語はメルヘンで牧歌的な詩になっていて、読む者を甘美な夢の世界へ誘う。けれど、そこには、力ある者が自己の利益のために有無を言わさず、弱い者を死に追いやる冷酷な世界が描かれている。まるで、原発のためには地域住民、そして、労働者の生命財産を根こそぎ奪い取られたように。弱い者は逆らえない、どんなに犠牲を強いられても。そんな世界をローマ皇帝と帝国は支配している。他方、権力に翻弄され居場所も与えられない庶民と労働者が繋がる世界、持たない者同士を寄り添わせ生かしあう乳飲み子の世界。天使たちは、その無力で貧しい者たちの象徴である乳飲み子を救い主と呼び、彼らに向かって、神はあなたがたと共にいると歌った。それは、「富」より「命」のために生きることが神の喜びであると言うことなのではないか。

 世間のクリスマスはまさに「富」追求のお祭り、教会では「富」ではなく「命」そのための「与える」ことを祝うクリスマスにしよう。 
今週の一句
潰された 銀杏踏み急ぐ 師走かな

―もとゐ―


 2012年12月30日(日)
 聖家族

 ルカによる福音書2章41節-52節

2,41 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2,42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2,43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2,44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが
2,45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2,46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2,47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2,48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2,49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2,50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2,51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2,52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 ユダヤ教で言う、バル・ミツバ、即ち、成人式を聖人伝に作り直したところ。男の子は13歳になるまで、聖書全巻の暗記が課せられ、成人式には、律法に関する口頭試験、どう解釈するのかを成人式にした。神との関係は「信じる」ことではなく、律法つまり神の言葉を、理解し解釈し行うことがそこから読み取られる。

 キリスト者のも同じ。聖書を読み、理解し、現代に適用し行うことが求められる。世界はますます強者のものになりつつあるから。 


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