ももちゃんの一分間説教



今週の一句
声しきり 帰ってきたよと 蛙鳴く

―もとゐ―


 2012年6月3日(日)
 三位一体の主日

 マタイによる福音書28章16節-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28.20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 キリスト者は各々使命をいただいている。私たちは幸い、如何に生きるべきかの問いに一つの答えを与えられているから。その使命とはイエスによる宣教への派遣だ。その声に従った人は古今東西、数えきれない。2000年間、海を渡り、密林を分け入った数々の群れ。宣教の様も、信者を増やすことから、貧しい人々への奉仕、正義と平和への活動と多岐に亘っている。けれど、形は違え教会建設や社会活動は、同じ目標を持っている。それは、イエスが示された生きるに値する「価値」を広め、実現すること。イエスは「人は平等で自由である」との神の意志に生きようとされた。シリアや日本の原発問題からも明らかのように、人は不平等に扱われ、反抗すれば命を人権を奪わる。資本の奴隷と化している。それが、現在の世界だ。その世界にイエスは人が正当に公平に扱われるよう生きて、殺された。そこに生きるべき「価値」を見出したから、人はイエスの宣教命令に応えたのだ。

 私たちも出かけよう。「誰もが尊重される」ために。 
今週の一句
再稼働 亡者再び 梅雨入りぬ

―もとゐ―


 2012年6月10日(日)
 キリストの聖体

 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節

14,12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14,13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14,14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14,15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14,16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
14,22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14,23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14,24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14,25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
14,26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 イエス・キリストの死を記念する聖餐式。その死によって私たちは生きることをゆるされた、と考えるのがキリストの「贖罪」の今日的意義ではないか。

 人が生きることは、他の生命の犠牲による。両親の命を削ることによって誕生するのをはじめ、食においては生物の命を頂いている。社会生活では他者の働きによって営まれる、今回の原発事故は都会のエネルギーのため地方がどれほど犠牲になっているかを明らかにした、など等。

 その「命の連鎖」に人は生きていることを常に気づかせるのが、聖餐式だ。イエスの命に生かされている私は同時に実に多くの命に生かされていることを、そして、その私も他者のために生きることを決意することが聖餐式を祝うことなのだ。 
今週の一句
ファッションショー モデルは歩く 百合の花

―もとゐ―


 2012年6月17日(日)
 年間第11主日

 マルコによる福音書4章26節-34節

4,26 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4,27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4,28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4,29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
4,30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4,31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4,32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
4,33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4,34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 種は蒔かなければ、芽も花も実もならない。手元に置いておくだけでは、ゴミになるだけ。キリスト者とはイエスの始められた「新しき人生」を選択し追従する者。歩み続けることが大事。もちろん、ストレートには歩めない、鳥に襲われたり、石もあり茨も生えている、つまり十字架の道を歩むしかない。しかも、「からしだね」のような吹けば飛ぶしかないちっちゃい者にもかかわらず、歩み続ければ前方が開かれることを信じる者がキリスト者なのだ。ご周知のように、米国における黒人公民権運動への道が、当時の白人に席を譲ると言う黒人差別に対して席を譲らなかった一黒人のおばちゃんから始まったのはその一例だ。イエスの後、そのおばちゃんの後をついて行きたい。争いのない、公平のな世界へ向かって。
今週の一句
紫陽花や 微笑み返す 雨の中

―もとゐ―


 2012年6月24日(日)
 洗礼者ヨハネの誕生

 ルカによる福音書1章57節-66節、80節

1,57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1,58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1,59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1,60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1,61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1,62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1,63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1,64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1,65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1,66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
1,80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 洗礼者ヨハネの誕生物語、キリスト教会がイエスの先駆者としての位置づけを意図とする物語であるが、それ以上に、私たちに人とは何かを教えてくれる。

 子どもの名はヨハネ、それは、その子が両親や親せきの思いを越えて、神からの使命に生きる者になる、ことを教えている。親は神の意志を見抜き、実現できるように育てることが役割となる。幼児洗礼もそのように見たい。神のご加護をいただくためにではなく、神の思いをその子の人生の課題として受け取るためであることを。

 子の人生は一個人の人生ではなく、神の人類救済という壮大な計画の一端を担う夢と希望の人生であることをヨハネの誕生物語は教えているのではないでしょうか。      


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