ももちゃんの一分間説教



今週の一句
弥生雨 硬き蕾を 膨らませ

―もとゐ―


 2012年3月4日(日)
 四旬節第2主日

 マルコによる福音書9章2節-10節

9,2 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9,3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9,4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9,5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9,6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9,7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9,8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9,10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 「主の変容」の物語は何を意味しているのか。神の子の力を誇示しているのか。であれば、イエスの十字架刑死は茶番と言わざるを得ない。むしろ、神として崇め奉ることを批判しているのだ。そもそも、神を神殿に鎮座させて礼拝し、拝むことは旧約聖書にはない。なぜなら、人と歩む、移動する「インマヌエル」だから。人が神と契約するのは、礼拝ではなく、み言葉、法、掟を守り行うことだ。だから、イエスはペテロの仮小屋を作りましょう、との言葉に聞く耳を持たず、神からの言葉を告げている。「これに聞け」と。私たちにも同じ言葉が呼び掛けられる。「行って、隣り人」になれと。
 
今週の一句
啓蟄や 身体伸ばして 湯に浸かり

―もとゐ―


 2012年3月11日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書2章13節-25節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2,23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2,24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2,25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 東日本大震災から一年たった。復興の道は始まったばかりだ。今なお、34万余の多数の人々が避難生活を余儀なくされている。被害に遭わなかった私たちの出来ることは、彼・彼女らの再建の道を後押しすることだ。カトリック教会でも追悼ミサを行うけれど、それは、祈って終わりではなく、神の前で、具体的に動くことを考え、神と約束を新たにするものでなければならない。まさに、神殿で生贄を捧げるのではなく神の呼びかけが何であるかを聴き従うこととなる。神殿は滅びるけれど神の言葉、イエスの言葉は永遠に私たちを招いている。「あなたはどこにいて、何をしているのか」と。 
今週の一句
菜の花の 揺れるさざ波 十字架塔

―もとゐ―


 2012年3月18日(日)
 四旬節第4主日

 ヨハネによる福音書3章14節-21節

3,14 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3,15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3,19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3,20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3,21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 先日、津波によって7人の両親姉妹を亡くした高校三年生の娘さんのことを放送していた。神はいるのか。キリスト教会が信じる「全知全能の神」とは何か。世界にはそんな疑問を持たせる悲惨な出来事が山ほどある。かって、第一、二次世界大戦を経たヨーロッパで「神は死んだ」との神学が生まれたことはうなずける。

 しかし、マルコ福音書には既に、神の無力、不在、すなわち、イエスの十字架刑死を描いている。もちろん、他の福音書には逆に、十字架刑死を美化、栄光化しているから、当初から、神について議論が多数あったのだろう。

 津波ですべてを失い、いっぺんに一人ぼっちになった彼女を一年後再出発するまで、支え続けたのは何だったのだろう。身を寄せたおばさん家族をはじめ周りの友人、知人であっただろうと推測するしかない。あの中風を患った人の四人の友人であったのだろう。

 神とは人の支え合う、そのことを言うのだろう。イエスはその中にいた一人であった。けれど、その支え合いを拒否するものがある。利己主義と言われるものが。

 神を信じる私たちキリスト者にとって、支え合いの輪に加わることが、信じることの意味になるのだ。 
今週の一句
木蓮の 花芽膨らみ 笑み満面

―もとゐ―


 2012年3月25日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書12章20節-33節

12,20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12,21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12,22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12,23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12,24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12,25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12,26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
12,27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12,28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12,29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12,30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12,31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12,32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12,33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 イエスの十字架刑死は不思議だ。ローマ帝国による政治犯としての処刑にも関わらず、直弟子たちは「贖罪死」と考え。パウロは「信仰による救い」と捉え、生涯を賭けて宣教し、現代にいたるまで多くのキリスト者を生み続けている。本当に多くの実を結んでいる。

 何故だろうか。死そのものは無惨だ。けれど、その死までも引き受けざるを得ないイエスの生き様そのものが人々に強烈なインパクトを与えたのではないか。私たちも信仰を続けるなら、イエスの生とその証人の生を見極め、自分も倣うようにしたい。
 


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