今週の一句
赤スモモ 一口噛めば 梅雨忘れ

―もとゐ―


 2011年7月3日(日)
 年間第14主日

 マタイによる福音書11章25-30節

11,25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11,26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11,27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11,28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11,29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11,30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 イエスは重荷を負う者に呼びかける。「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。現代の教会は同じように世界に向かって呼びかけているだろうか。「他者のため」の教会と言われる、けれど、「身内だけ」の親睦教会となっているのではないだろうか。教会外には呻き声、叫び声が満ちている。祭司やレビ人が強盗に襲われて倒れていた人を見捨て、「信仰」を忠実に守った、と言うあの例え話しが、今の教会を指しているのではないか。

 イエス自身から自分の重荷を下ろしていただいた私たちは進んで、他者の重荷を担う者になることこそ信仰ではないだろうか。 
今週の一句
朝からの 雨に願うは 七夕夜

―もとゐ―


 2011年7月10日(日)
 年間第15主日

 マタイによる福音書13章1-23節

13,1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13,2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13,3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13,4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13,5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13,6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13,7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13,8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13,9 耳のある者は聞きなさい。」
13,10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13,11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13,12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13,13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13,14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13,15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13,16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13,17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13,18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13,19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13,20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13,21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13,22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13,23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 イエスの言葉と働きによる「福音」宣教は、小さくされた人々を支配する権力者たちからは、社会秩序を乱すものとして危険視、排除された。イエスは「狼の中」に派遣するものだと、弟子たちに警告した。キリスト者としてイエスに従う私たちもこの世と言う「狼の中」で生きることなのである。安心、安全、無風状態で生きることではない。あえて、摩擦、困難を引き受けることである。大震災、原発事故、等々、現代世界は混乱し希望のないところになっている。その中で、夢、希望、生きがいを持てるように倦まずたゆまずやり続けることが、イエスに従うことなのである。

 みんなでその世界創造へ参加しましょう。  
今週の一句
大都会 朝陽昇れば アガパンサス

―もとゐ―


 2011年7月17日(日)
 年間第16主日

 マタイによる福音書13章24-43節

13,24 〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13,25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13,26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13,27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13,28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13,29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13,30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13,31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13,32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13,33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13,34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
13,35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13,36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13,37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13,38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13,39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13,40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13,41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13,42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13,43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 私たちの世界には不平等が蔓延している。例えば、福島県の人と愛知県の私たち。正社員と非正社員、アフリカの子どもと日本の子ども、等々。これら不平等されている人々を当たり前の境遇にすることを聖書では「正義」と言う。その「正義」を行うことが人間の生きる道と聖書は語る。イエスが目の前にした2000年前のユダヤでも同じであったろう。まさに、畑には良い麦とそうでないものが混在しており、悪いものが幅を利かせ、良いものを圧迫していたであろう。それにイエスは腹を痛めた、つまり「憐れん」だのだ。そして、十字架の道を進んだ。私たちは、他者の痛みに敏感であろう。そうしないと、体は動かない。動かないと収穫のとき、刈り取られ焼かれてしまうのだ。私たちが動くのをイエスは待ち続けられている。  
今週の一句

―もとゐ―


 2011年7月24日(日)
 年間第17主日

 マタイによる福音書13章44-52節

13,44 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13,45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13,46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13,47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13,48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13,49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13,50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13,51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13,52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

  
今週の一句
葉の陰で 紛れて太る ゴーヤかな

―もとゐ―


 2011年7月31日(日)
 年間第18主日

 マタイによる福音書14章13-21節

14,13 イエスは、〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14,14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14,15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14,16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14,17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。
14,18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14,19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14,20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14,21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 イエスは「大食漢、大酒飲み」と揶揄されるように、人々と食卓を共にした。徴税人レビやその頭ザアカイ、マルタとマリア、らい病者シモン、そして、最後の晩餐、など、福音書には食事の場面が多くある。従って、今回の5000人への「パンの供食」物語は、そういうイエスの生き様の象徴的な物語と言える。イエスの時代、多くの貧しい人々は飢えていた。彼らと生死を共にするということは、まず、食物を分かち合うことではないか。たとえどんな立派な説教をしたところで、飢えた人の空腹はみたされないからだ。しかし、イエスや弟子たちには多くの飢えを満たすほどの資金はない、あると言えば、自分たちの必要なパンしかない。飢えた人を前に、自分の食い扶持を減らすしかないのだ。

 イエスの前には助けを必要とする人は無数にいる。しかし、イエスは一人でしかない。出来ることは、自分を差し出すしかないのだ。天の国が「からし種」「パン種」のようなものだ、と言うのはそのことではないか。

 私たちも微力で役に立たない、しかし、私たちを必要とする人々は御万といる。
 私たちが自分を分かち合うとき、その御万の人は幸いになるのではないか。 

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