ももちゃんの一分間説教



今週の一句
路地裏や 朝の気吸えば 卯の花か

―もとゐ―


 2011年5月1日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 災害で肉親も何もかも失くし、避難生活されている人々を立ち上がらせるのは何だろうか。訪ねた人が次のように言っていました。「よく来てくれてありがとう。一生忘れません。」と生まれて初めて言われた、と。従って、それは人との繋がりかもしれません。

 イエスを十字架刑死で失い、絶望の淵にあった弟子たちを甦らせたのは、亡くなったイエスとの生きた交わりではないだろうか。イエスは弟子たちの思いでの中に生きて、彼らを導き、励まされる。「私は復活であり、命である。」イエスの言葉を聴いて、弟子たちは立ち上がったのである。 
今週の一句
満面の笑み 指さす主 躑躅かな

―もとゐ―


 2011年5月8日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章13-35節

24,13 この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24,14 この一切の出来事について話し合っていた。
24,15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24,16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24,17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24,18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24,19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24,20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24,21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24,22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24,23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24,24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24,25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24,26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24,27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24,28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24,29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24,30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24,31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24,32. 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24,33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24,34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24,35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 人を前向きにさせるのは何だろう。たとえば、凍えるような冬、耐えられるのは必ず春が来る、と言う希望の言葉はその一つであろう。今、避難所で生活されている方にとっては。また、中東で現政権への激しい弾圧にもかかわらず、反体制デモを続けている人たちには、やはり、光や朝が必ずやって来る、の言葉であろう。

 エルサレムから逃れた弟子たちにとっても、イエスが何者であるかを、理解したとき、再び、エルサレムへ向かわせたのであった。つまり、イエスが敗北して殺されたのではなく、神から遣わされ、死の淵に沈んでいた人々を救うメシアであった、ことを聖書の学びから分かったのであった。そのメシア、イエスを再び、人々に伝える力をいただいたのであった。

 私たちのミサも、そのイエスと出会い、世界を新しく造り変えるために、世へと出て行くためなのである。 
今週の一句
なんじゃもんじゃ 白き妖精 大空へ

―もとゐ―


 2011年5月15日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章1-10節

10,1 〔そのとき、イエスは言われた〕 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10,2 門から入る者が羊飼いである。
10,3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10,4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10,5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10,6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
10,7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10,8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10,9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10,10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 復活者イエスは羊飼いとなって、迷う羊である私たちに声を掛け、連れだし、青い牧草地へと導かれる。羊である私たちは、とことん、命までかけて私たちと共にいてくださった主イエスのみを信頼し、最後まで、聴き従わなければ、牧草地に辿り着くことは出来ない。聖書に聴き、ミサを祝うのはそのためである。そして、派遣された私たちは、イエスと同じく、他者の隣人になることに他ならない。 
今週の一句
山里の 手を振って招く 芍薬か

―もとゐ―


 2011年5月29日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書14章15-21節

14,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14,16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14,17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14,18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14,19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14,20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14,21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 イエスは私たちを独りぼっちにはしない。聖霊、弁護者、真理の霊として私たちと共にいてくださる。それは、黙想や祈り、ミサ、聖書、人との交わりを通して実感できる。私たちは、道を誤らない、死の陰を行く時も恐れない。震災後、新しい時代になろうとしている今、イエスのみ言葉を聴いて前へ進もう。 


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