ももちゃんの一分間説教



今週の一句
聖夜祭 幾千の思い 満ちみてり

―もとゐ―


 2011年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 最も小さくされた羊飼いたちに告げられた、「救い主」誕生の知らせ。それは、彼らが望んでいる「正当」に扱われることへの実現の言葉だ。しかし、今なお、それは実現されていない。彼らを不当に遇する力ある者たちの回心がなされていないから。新年の始めにあたり、実現への一歩の年になるよう、回心し、踏み出そう。 
今週の一句
大晦日 胃腸風邪罹り 独り寝る

―もとゐ―


 2011年1月2日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 小さくされた人と共に生きるイエスはこの世の権力者からは邪魔者とされる。そのイエスに従うキリスト者もそう見なされるはずだ。しかし、「いい人」として受け入れられているのは、如何なものか。だから、小さくされた人たちは「不当」にしか扱われないこととなる。つまり、キリスト者はまた彼らを「不当」に遇しているもだ。

 そんなことは止めたい。ヘロデではなく神に従った占星術の博士のように、「小さくされた人」の声に聴き従おう。 
今週の一句
初日の出 白煙立ちぬ 白き粥

―もとゐ―


 2011年1月9日(日)
 主の洗礼

 マタイによる福音書3章13節-17節

3,13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3,14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3,15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3,16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3,17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 占星術の学者たちはこの世の王であるヘロデにではなく、「いのち」の主である神に従った。

 イエスは青年期をその当時のユダヤ教にある様々な思想潮流を彷徨ったことだろう。如何に生きるべきか、青春の悩みそのものを問うて。そして、その一つである洗礼者ヨハネのもとにも一時期留まったことだろう。当時のユダヤ教にはいわゆる自力本願が主流であった。即ち、祭儀にしろ律法にしろ、それをどれだけ守るかによって救いが決定された。しかし、それは「救われる者」と「救われない者」恣意的に分け、前者が後者を差別抑圧することとなった。現代の教会でも「信者」「未信者」と分け、差別しているが。

 イエスは洗礼者ヨハネのもとでの修業中、決定的な声を聴いた。「この世」即ち、人の声にではなく「神の声」、即ち、「いのち」の声に従うようにと。ここに、洗礼の意味、神の子としての出発点がある。 
今週の一句
振袖や 風に揺られる 成人式

―もとゐ―


 2011年1月16日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29節-34節

1,29 〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 洗礼者ヨハネは十字架刑死したイエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼んだ。それでは、現代の私たちはイエスを何者と言うのだろうか。小さくされた人と共にあり、権力者と非暴力無抵抗主義で闘っている人々の先達者と言えるのではないか。従って、イエスの後を行く私たちキリスト者はまたその闘いにあろうとするのではないだろうか。 
今週の一句
新雪や かたじけなさに 足下ろし

―もとゐ―


 2011年1月23日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12節-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 洗礼者ヨハネが「神の子羊」「神の子」と紹介したイエス、また、福音記者マタイが暗闇に住む民の光と呼んだ。そのイエスの宣教活動が始まる。私たちもその後について見てみよう。

 まず、「暗闇に住む民」とは誰か。イエスは真っ先に、弟子を集めにいった。もちろん、暗闇に住む人のところへ。弟子に呼ばれた人は何故、暗闇に住んでいるのか。一見、家族もあり生業も持っているから、それなりの幸いが与えられている。まさに、彼らは現代の中流家族だ、とりあえずの衣食住には不自由しない。

 しかし、彼らの人生はどこに向かっているのだろうか。イエスは呼び掛ける、「従いなさい。」即ち、今日の衣食住に不自由な人々のところへ行こうじゃないか、と。ペテロたちに閉塞した人生に穴が開けられた。光が射し込んで来たのだ。

 人の命は他の人と共にあることをイエスは示されたのだ。私たちは自分の人生が穴倉に落ち込んでいないか省察しよう。
今週の一句
大寒や 季節先取り 蘭芳し

―もとゐ―


 2011年1月30日(日)
 年間第4主日

 マタイによる福音書5章1節-12a節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12a 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 イエスはペテロたちを呼んだ。ペテロたちはイエスを先頭に新しい人生へと出発する。マタイはイエスを師とする生き方が何かをまず示す。それが「山上の説教」と言われるものだ。だから、そこにはイエスが誰であり何であるかを語っている。

 イエスは人のあるべき姿を示された。それは誰もが正当に扱われることだ。パン一片のため盗み、囚われ、刑を受けなければならない人がいる世の中ではなく、誰もの空腹が満たされるよう関わり合う人にいる社会を目指された。「貧しい人」「飢えた人」「泣く人」が幸いになるように。弟子としての道も同じだ。イエスを救い主として信じるとは、イエスと同じように生きることを神と約束することなのだ。 


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