ももちゃんの一分間説教



今週の一句
師走の ボーナス目当てに 手紙書き

―もとゐ―


 2009年12月6日(日)
 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1節-6節

3,1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3,2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3,3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3,4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3,5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3,6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 洗礼者ヨハネの叫びは神の審判に備えて回心せよであった。言いかえれば、「今」何をしなければならないかだ。しかし、安定した生活を営む私たちは「明日」を思い煩う、今は「明日」のための備えでしかない。というのは、頼れるのは自分しかいないから。皇帝テイベリウス、ユダヤ総督ピラト、大祭司カイアファらもそうだ。自分を守るのは自分しかない。

 他方、無一物の荒れ野のヨハネには神だけが頼りであった。イエスもそうだ。「明日」は神が備えてくれるから、神の言葉は後者にしか降りない。物に頼る生き方から神と共に生きる方へ回心しよう。

 「今」を生きるために。    
今週の一句
回転寿司 皿に合わせて ホーリーナイト

―もとゐ―


 2009年12月13日(日)
 待降節第3主日

 ルカによる福音書3章10節-18節

3,10 〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3,11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3,12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3,13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3,14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3,18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 キリスト教では洗礼者ヨハネをイエスに先駆ける者、イエスをキリストとして紹介する者と位置づけている。今日のルカ福音書には洗礼者ヨハネが福音を宣べたとも書かれている。イエスも福音を伝えたが、この両者が語った福音とは何か。それは神との契約を思い起こし、立ち返ること。すなわち、神の国、理想郷を目指し神の言葉を便りに進んで行くこと。皇帝や王、大祭司らのように自己の栄華を求め他者を虐げる生き方から、弱気者、貧しい人、苦しむ人に自分の持てる物を与え、分かち合う生き方への転換、そして、そこにおいてこそ、神の祝福、幸い、生命があるということではないか。

 わたしたちもこの世の競争主義、弱肉強食に生き方に疲れ、破れてイエスとであったのではないか。

 もう一度、イエスの福音にもどり小さくされた人々と共に生きよう。    
今週の一句
カラカラと  人の後を追う 銀杏落ち葉

―もとゐ―


 2009年12月20日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39節-45節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 エリザベトとマリアの出会いは、キリスト者の在り方を教える。キリスト者は神の国の宣教者としての使命を与えられる。神の国の宣教者はこの世と衝突する。その価値観、利益より生命の優先、偉くなることより仕えることを選ぶ、等などはこの世の忌み嫌うものであるから。洗礼者ヨハネ、イエスの生涯はそれを明らかにした。従って、その宣教者には連帯者、協同者がいなければならない。つまり、共に、宣教者として呼ばれた者の集まり、教会がそれを果たす。

 教会はその使命を全うするため、果敢に荒れ野に飛び出して行けるものなのだ。

 「神がいてくれる」から。   
今週の一句
カボチャ寺 冬至に祈る 無病息災

―もとゐ―


 2009年12月24日(日)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 ルカによるイエス誕生の物語は歴史的報告ではなく、イエスがどういう救い主であるかを示す。しかし、読む者には想像力を喚起させる美しいファンタジーの世界だ。クリスマスソングも一層イメージを膨らませる。天と地と人が一体化している。そこに栄光があり平和がある。

 人間は天から離れ、地を汚してしまった。そこに利己主義、地球温暖化、戦争、貧困、飢餓が生まれたのだ。洗礼者ヨハネは天に帰れ、つまり、神の前で生きよと叫んだ。イエスは神の前で、そして、神によって、即ち、大地からの恵みに感謝して人との間で生きよ、と招かれた。為政者たちは耳を貸さず、あくなき利己主義に魂を奪われた。ヨハネ、イエスの声を聴いたには力ある者たちから自由を奪われ虐げられたヨゼフ、マリア、羊飼いらであった。ローマ皇帝をはじめとする為政者に従うのではなく、天地人に謙虚に生きることこそ幸いであることを、天使たちの歌声が響かせているのではないだろうか。 
今週の一句
古き洋館 聖夜の調べ 充ち満ちぬ

―もとゐ―


 2009年12月27日(日)
 聖家族

 ルカによる福音書2章41節-52節

2,41 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2,42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2,43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2,44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが
2,45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2,46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2,47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2,48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2,49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2,50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2,51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2,52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 イエスは宣教にあたって、律法学者、ファリサイ派の人たちと多くの論争をし、人々はその解釈に驚いたと、福音書には報告されている。その萌芽が今日の福音書に見られる。ユダヤ教ではその律法解釈について今なお論争されているそうです。

 さて、子どもを育てる親の心労は計り知れないでしょう。今日のイエスのように親の心配をよそに勝手な行動を取るようになると。それは、多分、神と人の関係でも同じことが言えるかもしれません。神がどれほどの思いを人へかけても、人は勝手にどんどん神から離れて行くのではないか。よい方向ならいざ知らず、悪への方ならその心痛はいかばかりでしょうか。

 マリアはすべて心に納め、思いめぐらしたとあるが、それはどれほど嘆きながら見守り続けている神の姿を現しているのではないでしょうか。  


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