ももちゃんの一分間説教



今週の一句
栗拾い 息をつぎつつ 頂きへ

―もとゐ―


 2009年11月1日(日)
 諸聖人

 マタイによる福音書5章1節-12節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8  心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10  義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 

 イエスへの信従の道は神の国を実現することだ。神の国とは「救い」と言ってもいい。救い(ヘブライ語のシャローム)は契約が守られる、ことを言う。つまり、神の人間への呼びかけの応えること、例えば、先週の、盲人バルテイマイの正当に扱ってくれという切実な叫びに応え、共同体の交わりに迎えることだ。

 神は私たち豊かで、笑い、飽食している者に呼びかける。貧しい人、泣く人、飢えた人が当たり前の生活が送られるようにしようと。
今週の一句
木枯らしの 夜更け帰らぬ 猫を呼ぶ

―もとゐ―


 2006年11月8日(日)
 年間第32主日

 マルコによる福音書12章38節-44節

12,38 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12,39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12,40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12,41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12,42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12,43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12,44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 律法学者やファリサイ派の人々は、神殿でイエスになんだかんだと論争を挑んだ。最大の掟は何だとか。税金を納めるかどうか、等々。しかし、その論争は相手を負かそうと言う悪企みのもの。

 イエスはこれらの律法学者たちにそんなことにかまけているのではなく、あのやもめを見習ったどうだ、と呼びかけている。律法は他者を負かすためのものではない、どう生きるかが大事なんだよ。お前たちは神の思いよりも人の思いに従っているのではないか。

 一から出直ししなくちゃ。 
今週の一句
湯につかり 見上げる夜空 冬至なり

―もとゐ―


 2009年11月15日(日)
 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24節-32節

13,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13,25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13,26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13,27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
13,28 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13,29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13,30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13,31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
13,32 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 現代においては、自然災害、等は悪魔のしわざではなく、人間の所為であることがわかる。従って、終末が来て、神の裁きがあるとは思わない。むしろ、人間の責任を問われる。旧約聖書も預言者たちはイスラエルの滅亡を神との契約違反と見なし、支配者たちを告発している。

 イエスも同じ視点に立っていた。神の国の到来を待ち望むより、神の国の実現を呼び掛けている。「あなたがたの間に神の国があるのだ」貧しいやもめのあの献金をよびかけている。地球温暖化ストップのために立ち上がろう! 
今週の一句
銀杏黄葉 炊き出しの列 見守りぬ

―もとゐ―


 2009年11月22日(日)
 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33節b-37節

18,33 〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 イエスの宣教の旅は終りに近づいた。最後は、総督ピラトの前であった。

 イエスは自分の使命を「真理を証する」こととピラトに言った。

 出世欲に囚われたピラトの真理はどうしたら一段上の位に行けるかがであった。そのためには、競争相手を殺してでもよかった。しかし、それはいつかはピラトの身にも降りてくることであった。この世では欲に生きるとき欲に殺されることとなる。

 イエスにとって生きることは相互に生かし合うことであった。つまり、他者のために生きることは自分を生かすこととなるのであった。イエスの十字架の死がそうであった。それによって私たちは生かされたのだ。

 イエスの証したこの「真理に生きるよう」招かれている。
今週の一句
おみな宅 小春日和の 笑い満ち

―もとゐ―


 2009年11月29日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 教会の暦は今日から新年。始めにあたり、のっけから終末への注意を呼び掛けている。これは一体何だ。生きるということは不確実だ。一寸先は闇、だから、「今」を大事にしよう。神からの呼び掛けに応えよう、というのではないか。人生は「荒野の旅、出エジプトの旅」だから。聖書の民が歩いた跡を辿って行こう。 


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