ももちゃんの一分間説教



今週の一句
月明かり 家路楽しく 半夏生

―もとゐ―


 2009年7月5日(日)
 年間第14主日

 マルコによる福音書6章1節-6節

6,1 〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6,2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6,3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6,4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6,5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6,6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
〔それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。〕

 嵐での弟子たち、長血を患った女性、また、故郷の人々、イエスへの期待はそれぞれであり、取った行動も違った。

 故郷の人々の期待、それは、十字架刑に処せられたイエスを見たユダヤの人々の反応でもあったろう。彼らは政治的メシアとしてイエスを期待したが、刑死したイエスには失望しか生まれなかった。

 しかし、そのイエスこそが神から遣わされた方、人間としての新しい生き方を告知した方と見出し、その生を倣い、引き継ごうとした人々が現れたのであった。

 私たちは、今、その証言を受け、イエスを主とし、その道を歩み始めた。反応は様々であるが、私たちはイエスが真の主であることを証し続けよう。
今週の一句
朝顔や 水遣る毎に 蔓見上げ

―もとゐ―


 2009年7月12日(日)
 年間第15主日

 マルコによる福音書6章7節-13節

6,7 〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6,8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6,9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6,10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6,11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6,12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6,13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエスは弟子たちを宣教に遣わすにあたり、何も持たずと告げる。イエスは神へのまったき信頼に生きた。湖上での嵐にあっても、病気に苦しむ女性がやって来たときも、そして、十字架への道にあっても。

 私たちは行動の際、自己の能力以上のことには手を出さない。ところが、イエスは自分の力をもっと引き出す神を信頼している。

 弟子たち、そして、私たちにその神への信頼を呼びかけている。 
今週の一句
朝顔や 雨の一日 しぼり染め

―もとゐ―


 2009年7月19日(日)
 年間第16主日

 マルコによる福音書6章30節-34節

6,30 〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6,31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6,32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6,33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6,34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 宣教旅行の報告に帰ってくる弟子たち。何も持たない、神のみに頼る働きは驚きの連続であったかもしれない。何となれば、神は弟子たちの力を無限に引き出す方だから。何かに頼るとき、例えば、自分の才能、財力、権力に頼るならば限界がある。しかし、何もないからこそ、当たって砕けられるのだ。マリアは神の言葉にすべてを委ねた。イエスも父なる神に委ねたのだった。

 弟子たち、私たちを待っているのは、神の働きを切望する困難にある人々だ。一息してその人々の中へ出掛けて行こう。 
今週の一句
汗落ちて ラジオの告げる 大暑かな

―もとゐ―


 2009年7月26日(日)
 年間第17主日

 ヨハネによる福音書6章1節-15節

6,1 〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6,2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6,3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6,4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6,5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6,6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6,7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6,8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6,9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6,10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6,11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6,12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6,13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6,14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6,15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 ヨハネにおけるイエスは人へイニシアテイヴ的に関わろうとする神を表わしている。有名な「神はその独り子をお与えたになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福3・16)は典型であろう。今日のパンの供食も、イエスが主導権を握っている。それは、押しつけがましいというよりも神の人を何とか誤った生き方から方向転換させたいと言う意志を表わし、人はそれに応えるよう求められているのだ。

 神のその想いに気づき、神の望む生き方、公正な世界を築いて行きたい。   


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