ももちゃんの一分間説教



今週の一句
曇り空 香に晴れる 梅林

―もとゐ―


 2009年3月1日(日)
 四旬節第1主日

 マルコによる福音書1章12節-15節

1,12 〔そのとき、〕“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1,13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1,14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1,15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」神の国とは理想社会。

 例えば、悪霊憑き、ライ病者、中風者たちが安心して生きられる社会のことを言う。イエスの招きは理想社会の建設に私たちを呼ばれる。イエスは私たちに呼びかける。「どこにいるのか」「何をしているのか」この声に、従おう。

 イエスのように、病者たちの声に耳を傾け、交流して行こう。 
今週の一句
枝垂れ梅 花数えれば 空昇る

―もとゐ―


 2009年3月8日(日)
 四旬節第2主日

 マルコによる福音書9章2節-10節

9,2 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9,3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9,4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9,5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9,6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9,7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9,8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9,10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 イエスとの旅、それは「神の国」すなわち、理想郷を実現する旅だ。旧約の歴史ではモーセが目ざし、エリヤも遣わされた。イエスもまた歩み始め、弟子たちは従った。夢を見るのは素晴らしいことだが、その実現は永久に来ないかもしれない。だから、周囲からは馬鹿にされ、相手にされない。そして、人は倦み挫折する。手っ取り早い成果を求める。ましてや、その途上では苦難が待ち受けている

 となれば。弟子たちはもう止めましょう、記念碑を建てましょうと。人々が詣で、この世的成功を得られるからと。イエスの旅は終わらない。人々の苦しみを残して自分さえよければにはなれなかった。モーセもエリアも墓さえなく記念碑もない人生を選ばれた。それが「私の愛する子」なのだ。 
今週の一句
見下ろせば 姿隠せり 土筆かな

―もとゐ―


 2009年3月15日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書2章13節-25節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2,23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2,24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2,25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 イエスの当時、ユダヤでは神殿が、人々の生活すべてを支配していた。つまり、神殿は聖と俗、善と悪、罪と裁き、価値あるものと無価値を規定し、人を分断していた。現代では、資本主義であろう。即ち、利益を生み出すことが最高の価値とされる。

 イエスの批判は、神殿や現代社会が要求する生き方ではなく、神の望む生き方、慈しみと正義と、恵みの業を行う事(エレミア9・23)、言換えれば、弱い立場の人たちと共にある生き方を取ろうとの呼びかけなのだ。 
今週の一句
青春の ほろ苦き味 蕗の薹

―もとゐ―


 2009年3月22日(日)
 四旬節第4主日

 ヨハネによる福音書3章14節-21節

3,14 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3,15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3,19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3,20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3,21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 私たちの存在価値はどこにあるのか。イエス時代の神殿支配体制では神殿の要求に答えることにあった。どれだけ高価な犠牲獣を献げるか、律法をどれほど厳格に守っているか、厳密に祭儀を行っているか、等にあった。従って、地位ある者、富ある者は優れた人として讃えられる一方、貧しい者、病気の人々はその要求に答えられず、「罪人」「無資格者」との烙印を押され、社会から排除されたのであった。

 現代のグローバル経済体制ではどれだけの利潤を上げるかが価値とされる。労働者は便利な道具でしかない。役に立たなければ捨てられるのだ。他方、力ある者、富める者のみが価値あるとされる。

 イエスはその神殿体制を批判した。そして、それに代わる、神の愛を人々に示した。神は「世」を愛した。世にあるすべての人を無条件に愛している、とイエスはその十字架刑死で示された。私たちの価値はそこにある。神が愛している、そのことに。

 わたしたちは神の愛に答え、すべての人が大切にされる社会を築こう。 
今週の一句
枯れ山に ひとり目立ちぬ 桜かな

―もとゐ―


 2009年3月29日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書12章20節-33節

12,20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12,21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12,22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12,23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12,24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12,25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12,26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
12,27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12,28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12,29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12,30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12,31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12,32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12,33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 ヨハネはイエスの十字架刑死を「栄光」と呼び、また、一粒の麦の死と例えている。

 麦は死んでいれば実らないごとく、イエスの死の意味はその一点にあるのではない、イエスの生、即ち、病人や貧しい人々が祝福されたものとなるよう身を捨ててまでの働きかけがあったからこそ、人々を引きつけてやまない。もし、イエスの死を「贖罪死」とだけ意味づけるなら、イエス以外の死でもよくなる。むしろ、私たちはイエスの生き様に惚れて、自分もそうありたいと望むから、イエスについて行くのではないだろうか。 


戻る