ももちゃんの一分間説教



今週の一句
一株の 畑の菜の花 湧く想い

―もとゐ―


 2009年2月1日(日)
 年間第4主日

 マルコによる福音書1章21節-28節

1,21 イエスは、安息日〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。
1,22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1,23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1,24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1,25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1,26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1,27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1,28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 イエスが漁師たちを招いた神の国とは一体何か。

 それは、「安息日」の意味が実現するところだ。

 「安息日」は人間性の回復する時と場である。奴隷として働き続けさせられる状態に休息を置き、奴隷ではなく神に似たものとして、愛され大切にされる者であることを確認する時なのだ。「安息日」は休息、何もしない、と言うことは、働き、有用、効率、成果と言う資本主義経済的価値からの評価を受ける時ではない。むしろ、働きはゼロ、即ち、人があるがまま、存在自体を受入れられる時なのだ。

 悪霊に取り憑かれた人とは、まさに、資本主義的価値観にがんじがらめに縛られて生きることが困難になっている人のことだ。会堂、教会もそれらに縛られて、人をそのようにしか見ない。イエスがしたことは人を縛るものからの解放だ。

 悪霊に取り憑かれた人と会堂に「安息日」を実現されたのだ。 
今週の一句
節分や 病魔に勝ちて 千の風

―もとゐ―


 2009年2月8日(日)
 年間第5主日

 マルコによる福音書1章29節-39節

1,29 〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1,30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1,31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1,32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1,33 町中の人が、戸口に集まった。
1,34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
1,35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1,36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1,37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1,38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1,39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 イエスの行く先々を病む人、悪霊に取り憑かれた人々が取り囲んでいた。それ程、それらの人々は「救い」を待ち望んでいた。というのは、当時のユダヤ教では神から拒否されていた人々であった。彼・彼女らには生きるのに一縷の希望さえなかった。病人を「癒した」というイエスの評判はたちまち広まったのだ。

 今日もなお、生きるのに絶望状況の人は数知れない。教会はどう応えられるのか。大海の一滴かもしれないが、出会った人々には少なからず応えて行きたい。イエスを待っている人、即ち、教会を待っている人がいる限り。 
今週の一句
春の海 白い航跡 どこ向かう

―もとゐ―


 2009年2月15日(日)
 年間第6主日

 マルコによる福音書1章40節-45節

1,40 〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1,41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1,42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1,43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1,44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1,45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 イエスの行く先々は喜びで一杯。

 病人たちはイエスとの関わりで幸いを見出す。ライ病者も奈落の底からイエスとの出会いによって這い上がることができた。ライ病者はただ救いを待っていたのではない。禁を破り、人前に出て行った。それは命を賭けた行動であった。イエスはユダヤ教の規定である祭司の権限を犯し、彼に触れ、清いと宣言した。それは、同じく命を賭けた行いであった。だから、人々は感歎したのだ。「権威ある新しい教え」だと。

 幸いは安価ではない。しかし、目の前にある。 
今週の一句
強風に 揺れて寂しい 沈丁花

―もとゐ―


 2009年2月22日(日)
 年間第7主日

 マルコによる福音書2章1節-12節

2,1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2,2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2,3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2,4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2,5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2,6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2,7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2,8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2,9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2,10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2,11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2,12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 イエスは病む者の仲間を褒め称える。ライ病者と違って中風病者は動けない。心身二重の苦しみから解放されたいと願いつつも、自らは何もできない。仲間はその心中を察し、何とかしたいと、彼をイエスのところまで、どんなに苦労しても、連れて行った。そして、イエスは彼らに心を動かされ、無論、中風病者にも心を痛み、出来るだけのことをした。すなわち、病者の一番の願い、神の罰を受けた者ではなく、神から愛さている者であると認めることを。イエスは罪をゆるした、つまり、あなたは神から大切にされている者だ、との宣言をした。たとえ、硬直な律法学者たちの非難を受けても。

 教会も、仲間の熱意を歓迎し、社会から受け入れられない人と、どんな非難があろうとも、共にいよう。 


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