ももちゃんの一分間説教



今週の一句
如月や 窓から差す陽 やわらかき

―もとゐ―


 2008年2月3日(日)
 年間第4主日

 マタイによる福音書5章1節-12a節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12a 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 イエスとの出会いは新しい人生の始まりとなる。ペトロたちは魚の漁師から人との関わりに生きる者へと転換した。

 神との関係で、業績を上げようとして来た、いわば、エリートの信仰者たちはイエスとの出会いによって、自己により頼む生き方から神に委ねる生き方へと転換した。パウロが「弱さこそ神の恵み」と言って律法主義からキリストへの信仰に転換したように。

 自分の無力さを知ったとき幸いが与えられる。というのは、神と人の愛を知らされるからだ。自分が出来ると思うとき、神と人から離れてしまうのだ。 
今週の一句
立春の 声ばかり聞き 胸踊り

―もとゐ―


 2008年2月10日(日)
 四旬節第一主日

 マタイによる福音書4章1節-11節

4,1 〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4,2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4,3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4,4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4,5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4,6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4,7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4,8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4,9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4,10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4,11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 イエスの神の国の宣教と十字架刑死は悪魔との闘いであった、というのが今日の箇所の主題となっている。

 即ち、イエスが神の子であるなら、もっとたやすく宣教も出来、思い通りの神の国をつくれるだろう、が悪魔の誘惑である。

 わたしたちの神への信仰も絶えずこの悪魔の試みに遭わせられる。神に従うと言いながら、自己を優先し、神を従わせようとする。人に仕えるのではなく、人を仕えさせる。思い通りに生きたいのだ。しかし、神への信仰とは、神の思いにいきることなのだ。

 イエスが十字架の刑死まで自分を捨てたのは、自分には不可解であったけれど、神に委せたのであった。無論。私たちにはそんなこと出来やしない。にもかかわらず、イエスは招く、イエスの道を歩むように。さあ、いっしょに立ち上がろう、イエスが先を歩まれるから。  
今週の一句
帰り着き 温まり遅き 余寒なり

―もとゐ―


 2008年2月17日(日)
 四旬節第二主日

 マタイによる福音書17章1節-9節

17,1 〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17,2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17,3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17,4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17,5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17,6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17,7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17,8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 食品の毒物混入事件から、イラクや世界各地の戦争、紛争は私たちの安全を脅かす。安心、安全に暮らせることは誰もの願いであろう。そして、そのために、寄らば大樹のかげとなり、冒険や危険を避け、利己的に生きることとなる。人の痛み、苦しみには無関心になる。

 ペトロのイエスへの発言、神殿を建てましょうは、ペトロはイエスの受難道を避け、イエスを留め置いて、御利益をいただくための礼拝の対象だけにする、という絶対安心が得たかったのではないか。

 わたしたちの、イエスに天国は欲しいが、十字架は担ぎたくない、のと同じなのだ。

 しかし、イエスはきっぱり拒否する。イエスは十字架の道、すなわち、小さくされた人々との関わり、連帯を進めて行く。

 安心、安全を欲して利己的に生きてしまう私たちに、イエスは一歩出よう、そこに真の人生が待っている、と招いているのだ。 
今週の一句
紅梅や 風に揺られる 青い空

―もとゐ―


 2008年2月24日(日)
 四旬節第三主日

 ヨハネによる福音書4章5節-42節

4,5 〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4,6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4,7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4,8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4,9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4,10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4,11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4,12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4,13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4,14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4,15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4,16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4,17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4,18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4,19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4,20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4,21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4,22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4,23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4,24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4,25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4,26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4,27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4,28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4,29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4,30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
4,31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
4,32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
4,33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
4,34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
4,35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4,36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4,37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4,38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
4,39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4,40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4,41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4,42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 地球温暖化により水不足は深刻化、「水汲み」という女性の重労働はさらに厳しくなっている。何時間もかけて水汲みしなければならない女性たちのことを想像すると雨乞いせざるを得ない。今にいたるまで、女性の立場は弱く小さくさせられている。イエスは自分の旅の辛さ以上にその女性たちの苦しみに心が強く動かされたのだろう。何とかしなければ、関わりたい、と。そして、声をかけた。

 私たちは自分の生の困難さに気付かず満足している。従って、イエスに求めるものがない。しかし、例えば、水汲みに苦労している女性たちのことに思いを馳せるなら、イエスに願うことが山ほど出てくる。イエスの与える永遠の命に至る水とは、私たちの関心を弱くさせられた人々に向けさせることではないだろうか。 


戻る