ももちゃんの一分間説教



今週の一句
幼子の 歌声響く 聖夜かな

―もとゐ―


 2008年1月1日(火)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 荒野で夜通し野宿しながら羊の番をする羊飼いに取っての救いとは何か。

 また、宿もなく家畜小屋で出産しなければならなかったマリアたちにとっての救いは何か。そして、現代人にとっては。聖書の語る救いは物質的なものではない。もちろん、生存に必要なものを否定はしない。

 羊飼いやマリアにとっての救いは、苦境にある自分の存在を受けとめる人がいること、気にかけている者がいること、手を伸ばしてくれる方がいることではないだろうか。

 荒野で仕事していた羊飼いたちを誰が心配してくれると言うのだろうか。天使の声は、羊飼いたちに熱いものを与えたに違いない。家畜小屋のマリアら心細さを誰が気遣ってくれるというのだろうか。羊飼いらの訪問は、マリアたちにとって本当に嬉しかったに違いない。

 新しい年のはじめ、世界の平和を願います。私たちが互いに人を思いやり、気遣い、手を差し伸べられるようになることを願います。   
今週の一句
餅つきや 子ら搗く杵の 大きさよ

―もとゐ―


 2008年1月6日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 新しい年が明けた。期待と不安の入り混じる何とも落ち着かない心境だ。希望が適えられるかもしれないし、間違いや失敗が起きるかもしれない。心理学者は希望と不安は同じことだと言う。つまり、未来には何が起きるかわからない、それを肯定的に受けとめるのか、否定的に受けとめるのかの違いだと言う。今日の聖書の箇所からは、それを神の目から見るのか、人間の目から見るのかと置き換えたい。

 神の目とは、すべてを委ねること。学者たちは星、つまり、神の導きに行きも帰りも委ねた。そして、人間的には損したけれど神の前では豊かになった。他方、ヘロデは人間の知恵、狡賢さ、力に頼った。つまり、未来を人間的に処理しようとしたのだ。結果、無辜の幼児たちの生命を奪った。

 人生は理不尽なことばかりだ。イエスの十字架も然り。イエスには十字架は理解できなかった。しかし、イエスはすべて神に委ねた。また、学者、ヨゼフ一家のように神に委ねられた。私たちには、それは不可能だけれど、ついて行きたい。 
今週の一句
灰色の 街に降る雨 寒の内

―もとゐ―


 2008年1月13日(日)
 主の洗礼

 マタイによる福音書3章13節-17節

3,13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3,14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3,15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3,16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3,17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 学者たちやヨゼフは人生をこの世の権力者に委せるのではなく、神に委ねた。結果、ヘロデとは違った人生を生きられた。

 青森や昨年の佐世保での事件など、考えられない犯罪が続いている。何をして人を凶悪な犯罪に走らせるのかわからない。もし、彼らがイエスと出会っていれば、違った結果になったかもしれない。私たちキリスト者の使命がそこにある。結果如何にかかわらず、ともかく、イエスがキリスト、つまり、あの家畜小屋で生まれた方、磔にされた方こそがあなたを愛していること、を伝え続けねばならないのだ。

 福音は洗礼の場面でイエスがその使命を与えられたことを告げている。 
今週の一句
朝日差し なにやら光る 薄氷

―もとゐ―


 2008年1月20日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29節-34節

1,29 〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 神様は人を呼び出す。

 人にはそれぞれ生きる意味がある。その意味をどこで見出すかが問われる。ヘロデはこの世の権力に見出した。しかし、それは権謀術数渦巻く血なまぐさい人生であった。他方、ヨゼフ・マリアや学者たちは、この世では愚かで貧しい、敗者の人生であったかもしれない。しかし、神の招きを受けいれることによって、小さくされた人々と共にあり、未来に繋がる豊かな人生となった。

 洗礼者ヨハネは神からの呼びかけに応えた、即ち、イエスを「神の子」と証しする使命を与えられた者として受けいれた。自分を売り込むのではなく、イエスのもとへ人々が来るための道具となった。結果、ヨハネはヘロデによって殺害された。しかし、イエスに繋がる人は後を絶たない。

 神は私たちを呼び出してくれる。私たちに生きる意味を与えてくださる。喜んで神に応えて行こう。
今週の一句
かじかんで 知る手袋の ありがたさ

―もとゐ―


 2008年1月27日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12節-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 イエスの呼びかけは特別な時にではなく、日常に行われる。
 ペトロたちは生業の漁をしていた。そのまっただ中へイエスは声をかけた。
 「わたしについてきなさい」と。
 つまり、イエス、神からの呼びかけは日常の出会いから聞えてくるということだ。

 街で、家庭で、職場で、電車の中で、仕事中、遊んでるとき、等々。私たちに手を差し出すように招いている。イエスはガリラヤで出会った病む人、飢えた人、道に迷っている人々と関わられた。有名になるためではなく、かえって、命まで差し出した。

 日常からの声に立ち止まり、手を伸ばすことが、イエスについて行くということなのだ。


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