ももちゃんの一分間説教



今週の一句
コスモスや 透かして見れば 青い空

―もとゐ―


 2007年11月4日(日)
 年間第31主日

 ルカによる福音書19章1節-10節

19,1 〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19,2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19,3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19,4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19,5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19,6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19,7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19,8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19,9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19,10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ザアカイ物語は、富者と神の出会いを語っている。

 富は人を幸せにはしない。富への執着は人から嫌われ、孤独にする。

 孤独ゆえに、また金に執着する。悪循環から逃れられない。その悪循環を断ち切るには、神との出会いが必要だ。神との出会いは人との交わりの大切さに気付かせる。人との関わりに生きるとは富の分かち合いに他ならない。神との出会いは人を孤独から解放し、富の執着からも解き放つ。        
今週の一句
きらきらと 光舞い散る 秋山路

―もとゐ―


 2007年11月11日(日)
 年間第32主日

 ルカによる福音書20章27節-38節

20,27 〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20,28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20,29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20,30 次男
20,31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20,32 最後にその女も死にました。
20,33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20,34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20,35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20,36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20,37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20,38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 「復活」とは、あの世が何であるかを問うものではない。神が誰であるかを問うことだ。正しく生きた人を神はどうなさるのか、そして、悪に生きた人にはどうされるのか、という問い。それは、迫害時代、信仰に殉じた人々への想いが、そのような問いとなったのだ。

 レビアート婚に代表されるように当時の女性の立場は弱かった。家を残すための道具でしかなく、女性たちの人生は苦難にみちていた。創世記のタマルの話しは悲しい。

 イエスの言う復活は、これらの女性たちの苦しみ、悲しみから解放する神のことを教えているのだ。そして、あの世のことではなく、今、わたしたちが神中心に生きるとき、女性の苦しみを解放する働きに参与することをも教えているのだ。

 神は「生きている者の神」なのだ。        
今週の一句
お日様と 雲の追いかけ 時雨かな

―もとゐ―


 2007年11月18日(日)
 年間第33主日

 ルカによる福音書21章5節-19節

21,5 〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21,6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21,7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21,8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21,9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21,10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21,11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21,12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21,13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21,14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21,15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21,16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21,17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21,18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21,19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 目を転じれば、悲惨なこと、苦難、困難なことが数多く見えてくる。しかし、目を閉じれば、まあまあな暮らしに安住してしまう。

 そんな怠惰な私たちにイエスは目を開けろ、と呼びかける。そして、証しを続けなさいと呼びかける。教会の使命がここにある。悲しみ、苦しみを少しでも減らす働きを続けること、それが、イエスに従う証しなのだ。       
今週の一句
木枯らしに 丸めた背中 縮こまる

―もとゐ―


 2007年11月25日(日)
 王であるキリスト

 ルカによる福音書23章35節-43節

23,35 〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23,36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23,37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23,38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23,39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23,40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23,41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23,42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23,43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 目を転じて、世界と自分自身の内憂外患に直面したとき、目を覆いたくなる。神的力を求めざるを得ない。政治宗教の腐敗、神殿の崩壊、エルサレムの滅亡、飢饉、大災害、等に見舞われたユダヤの人々にもきっと民族に伝えられてきたメシア、救い主の到来を願ったに違いない。イエスにも期待した。しかし、メシアとして期待したイエスは目の前で十字架につけられてしまった。無惨なイエスを見て、裏切られた人々の恨みは増幅するばかりだった。

 しかし、その中に、一人イエスの傍に立った者がいた。同じ十字架につけられた強盗であった。それまで、イエスは小さくされた人々の傍に立たれたが、自分の傍には誰もいなかった。
イエスは十字架の苦痛の最中、隣人を見出した。まさに、楽園に入るのだった。

 神もまた隣人を必要としている。神一人では何もできない。イエスが王という意味はそれなのだ。        


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