ももちゃんの一分間説教



今週の一句
一面の 赤絨毯 曼珠沙華

―もとゐ―


 2007年10月7日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5節-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 ミャンマーの僧侶たちが動いた。長い軍事独裁政権の下、人々は苦難の生を強いられてきた。民衆の叫びに、ついに、僧侶たちは心動かされたのだろう。そして、立ち上がった。その僧侶たちの姿を見て、無数の民衆も立ち上がった。もちろん、結果は、弾圧された。

 からし種一粒の信仰があれば立ち上がることができる。大きな仏様、神様がいてくれるからだ。世界の悪、苦しみに立ち上がろう。     
今週の一句
すれ違う 人と街路の 金木犀

―もとゐ―


 2007年10月14日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11節-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17,17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 「あなたの信仰があなたを救った。」病気を癒された人々の中で一人だけ、神を賛美し、イエスの足許にひれ伏し感謝したこの人に言われた、イエスのことば。ということは、「信仰」とは値しないにもかかわらず自分に神が働いたことを認め、神を賛美し感謝すること、となる。帰って来なかった他の9人は神の働きがあったにもかかわらず、感謝しなかった、つまり、恩を感じなかったから、それは「信仰」ではないとイエスは言う。しかし、神の働きは見えない、神に感謝できないのだ。  

 ビルマ(ミャンマーは軍事政権が押しつけた国名では民主化を望む人々は使わない、とのこと)の僧侶たちは仏様を信じて立ち上がったけれど、弾圧され、迫害を受けている。彼らは仏様に感謝しただろうか。できるだろうか。歴史上、非暴力の闘志たち、イエスを初めは非業の死を遂げている。しかし、その想いは受け継がれ続けている。神は仏様は確かに働き続けている。

 私たちは、賛美し感謝したい彼・彼女らを。そして、立ち上がりたい。神を信じて。      
今週の一句
コスモスや 色とりどりの 揺れる風

―もとゐ―


 2007年10月21日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1節-8節

18,1 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18,4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 癒されたサマリア人は身に起こった神の働きに、この上なく感謝した。

 神においてのみ自分の存在を置くしかない者は、何をも恐れない。

 やもめは当時のユダヤ教社会では、無言の者、語れない者として、また、支配と搾取を受ける者として、誰からも相手にされなかった。裁判においてさえ。しかし、神に身をおく者は強い、必死に嘆願する。結末は悲劇かもしれない。それでも、イエスと同様失望することなく訴え続けるのである。ここに、芥子種一粒の信仰がある。

 私たちも、このやもめにならい現代の悪と闘い続けよう。       
今週の一句
駅舎から 見上げた空の 栗名月

―もとゐ―


 2007年10月28日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9節-14節

18,9 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 孤立無援のやもめは神に信頼して立ち上がった。

 徴税人、社会の除け者、夢も希望も持てなく、社会の片隅で小さくなって生きている。やはり、孤立無援。誰が彼に目を留められ声をかけるだろうか。

 ファリサイ派、宗教的には熱心、社会的には中流、誰からも人目おかれ、尊敬される。社会で大手をふって生きている。この世的には、後者は立派、いい人。前者は落ちこぼれ、駄目な奴、悪い人である。

 しかし、神は孤立無援の徴税人の側に立つ。理由は分からない。神がそう選ばれるのだ。

 私たちはこの神の選びにどう答えられるだろうか。大きな宿題である。        


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