ももちゃんの一分間説教



今週の一句
交差点 曲がれば枇杷の 実出くわす

―もとゐ―


 2007年6月3日(日)
 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書16章12節-15節

16,12 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 弟子たちにとってイエスはいない。イエスに呼びかけても、答えは返って来ない。彼・彼女らはどこに頼ったらいいのだろう。

 彼らは源点に帰った、父なる神を思い起こした。人は父の息によって、ただの土くれから生きる者となった。父の息を吹きかけてもらわなければ、生きられないことを思い起こした。

 そして、イエスとの出会いによって生まれ変わった自分たちはイエスの息、即ち、聖霊を受けなければ生きて行けないことを悟ったのである。聖霊を吸うことによって、生きたイエスに出会うことができるのだ。

 私たちも聖霊を受けよう、そして、イエスと生きる喜びを伝えに行こう。     
今週の一句
ラベンダー 伸び競い合い 花揺れる

―もとゐ―


 2007年6月10日(日)
 キリストの聖体

 ルカによる福音書9章11b節-17節

9,11b 〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。
9,12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
9,13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」
9,14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
9,15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9,16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9,17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

 聖霊において、弟子たちはイエスと宣教する。イエスらのもとには寄る辺ない貧しい人々がやって来る。イエスは彼・彼女らに目を留め、応えられた。手をのばし、癒し、そして、食卓を共にした。それらを、ルカは神の国の宣教と呼ぶ。

 そうであるなら、今日の教会にとってそれは、まず、小さくさせられた人々の中に入って行くことではないか。入れば、次から次へと課題が生まれて来る。いっしょに応えて行かざるを得ない。教会自身は無力だから、知恵、勇気は彼・彼女たちから学ばなけれればならない。

 教会が神の国を伝えるのではない、教えられ、学び、悟ることなのだ。

 小さくさせられた人々のところへ出掛け、聴きに行こう。     
今週の一句
玉ねぎや 手からはみ出て 大収穫

―もとゐ―


 2007年6月17日(日)
 年間第11主日

 ルカによる福音書7章36節-8章3節

7,36 〔そのとき、〕あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7,37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7,38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7,39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7,40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7,41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7,42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7,43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7,44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7,45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7,46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7,47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7,48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7,49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7,50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
8,1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
8,2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
8,3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 小さくさせられた人々はイエスのもとへやって来る。

 「罪」の女性は大胆不敵だ。シモンに遠慮しない、周りの男たちにも気にしない。ユダヤ教の戒律を踏出し、イエスにさへ大胆に近づく。これほどに行動する女性には拍手喝采だ。

 ユダヤ教社会は、どれほど彼女を苦しめてきたであろう。女性であること、生きるために辛い仕事をしなければならないこと、彼女の思いを顧みることなく、彼女を「罪人」と呼び、社会から追い出すユダヤ教の男たち、如何ほど、彼女は小さくさせられて生きてきたことであろう。

 その彼女に朗報が届いた、貧しい人々と食事をともにし、病人に手を触れ、悪霊を追放する方が来られる、ということを。

 彼女は決断した。今の状況から脱して、自分を主張して自由に、豊かに生きたい、この思いを受けとめて欲しい、イエスに会おう、と。

 イエスは彼女の行動に感嘆した。彼女の何が何でも、という必死の行動に。信仰とは、この必死の思いと行動なのだ。

 パレステイナはじめ、世界は混乱している。

 彼女の信仰を思いだそう。必死な思いと行動がそれを変えることを。      
今週の一句
雨の中 背筋伸びたる アガパンサス

―もとゐ―


 2007年6月24日(日)
 洗礼者ヨハネの誕生

 ルカによる福音書1章57節-66節、80節

1,57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
1,58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
1,59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
1,60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1,61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
1,62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
1,63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
1,64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
1,65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
1,66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
1,80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 神は小さくさせられた人々を顧みられる。

 神は下級祭司の老夫婦に子どもをあたえられた。

 しかし、その子どもは彼らの願いをかなえる子ではなかった。神の使命を生きる者であった。それは、イエスも同様だ。マリアの思い通りになる子ではなかった。

 人はみな、それぞれにただ一つの神の使命を生きる者としてこの世に遣わされたのである。人は、それを見分け、育てるのである。 

 私たちの生命は神のもの、生きる使命も神のもの、すなわち、すべてを生かすこと。ここに幸いを見出そう。      


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