ももちゃんの一分間説教



今週の一句
帰り道 カーラジオで聞く 歌合戦

―もとゐ―


 2007年1月1日(日)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 イエスは舟。

 人が生きていくには土台が必要だ。野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたち、彼らは生きて行く上での困難さ、苦しさ、孤独をどのように受けとめ、乗り越えて行けたのだろうか。人間社会に頼る限り絶望的であった。ユダヤの宗教政治的体制は彼らを排除し続けたからだ。

 他方、ヘロデをはじめとする権力者たち、地位を保つためには邪魔者を消すことも厭わない。彼らの生きる土台はこの世だけ、この世の論理、弱肉強食を土台としている。食うか食われるかの世界しかない。彼らは救いを見いだせない。

 前者の羊飼いたち、彼らはこの世以外のもの、彼らに目を注ぎ、声をかける神を土台とするしかなかった。だから、彼らは容易にイエスを見出すことが出来た。そして、見たものは、自分らの苦しい生活に慰めと希望を与えることであった、何となれば、彼らの日常茶飯事である家畜小屋で生まれた子どもが救い主である
と言うからだ。

 神は自分たちの生き様のただ中におられる、苦楽を共にしてくださる方なのだ。彼らがこの神を土台にするとき、辛い困難な生活を乗り越え、幸いに至れるのだ。

 私たちにも目を注いでくださる神と共にこの新しい一年を歩んで行こう。  
今週の一句
嵐行き 夕陽輝き 主の公現

―もとゐ―


 2007年1月7日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 人が生きて行くには夢が必要だ。人々は夢を探している。

 三人の博士たち、ユダヤ人の王に会う、という夢を追っている。その夢は立身出世だろう。できれば、その王の宮廷学者になることを。ヘロデ王、彼の夢は独裁政権の継続だろう。そのために、ユダヤ人の王の居所を突き止めようとしている。

ヘロデ王に仕えている祭司長や学者たち、夢は現状維持だろう。ユダヤ人の王を自らは捜さない。ヘロデ王の言うがままだ。

 エルサレムの住民たち。祭司長たちと同じ。傍観者として、どっちつかずだ。エルサレム城外の人たち。不運な境遇からの脱出、人として認められることを切実に夢見ていることだろう。

それでは、私たちの夢は?、この五者たちのどれに当たるだろうか。

「ユダヤ人の王」に私たちが出会ったとき、その夢は打砕かれる。十字架刑のイエスの頭上には「ユダヤ人の王」と罪状書きがあった。私たちの夢は十字架のイエスが開いてくれた。
今週の一句
七草の 粥すするさき 頬温む

―もとゐ―


 2007年1月14日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書2章1節-11節

2,1 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2,2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2,3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2,4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2,5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2,6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2,7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2,8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2,9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2,10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2,11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 新年早々、暗い事件が続き暗澹としている。

 しかし、イエスの登場はその思いを変えてくれる。

 今日のヨハネ福音書では、イエスが生命を豊かにする者として自己を顕わしたことが書かれている。

 毎年、1月6日、ナイル河が氾濫するにあたってお祭りがあった。その水が生命の源であることを祝ったという。また、同時にディオニュソス神がをぶどう酒に変えたことを祝う祭りでもあったという。

 ヨハネはこれらの祝いをイエスに置き換えたのだ。即ち、イエスは生命の神であると。

 ともかく、イエスはめでたい人だ。イエスのいる場は婚礼の場、うまい酒をどんどん出して祝っているところにイエスはいる。暗い世相を吹き飛ばしてくれるのだ。

 私たちの暗澹はイエスにおいて希望となる。イエスと共に世界を明るくして行こう。 
今週の一句
大寒や 息白し波 センター試験

―もとゐ―


 2007年1月21日(日)
 年間第3主日

 ルカによる福音書1章1節-4節、4章14節-21節

1,1-2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
1,3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1,4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
4,14 〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4,15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4,16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4,17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4,18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4,19 主の恵みの年を告げるためである。」
4,20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4,21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 今日の箇所はいわゆる序曲で、ルカはこれから始まるイエス・キリストの宣教が何であるかを端的に示している。

 即ち、聖霊に遣わされて、貧しい人々に救いの福音を告げること、と言う。イザヤ書61章から引用されているが、指摘されているように「神の報復の日」は削除されている。その理由は、イエスがユダヤの人々の期待した政治的メシアではなく、愛とゆるしの、十字架刑死まで徹底的に非暴力を貫いたメシアであると、ルカは証ししている、と言う。

 これは、今日的にものすごく大事なメッセージだ。イラク戦争などに見られる武力では決して平和は訪れない状況を変えうるものではないか。現日本政府の戦争の出来る憲法に改憲しようとする動きへのブレーキになるメッセージだ。愛とゆるしに生きたイエスを救い主と信じる私たちも、この福音を今こそ生きて行こう。 
今週の一句
歓声や 蕾綻ぶ 梅ヶ枝

―もとゐ―


 2007年1月28日(日)
 年間第4主日

 ルカによる福音書4章21節-30節

4,21 〔そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた。〕イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4,22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4,23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4,24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4,25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4,26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4,27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4,28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4,29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4,30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエスの舟は幸いを満載して私たちのところへ来た。

 人々は期待した。他所で多くの幸いを与えてきたから、故郷の俺たちにはもっと幸いをもたらすはずと、イエスに望んだ。

 ところが、イエスは彼らの待望したメシアでもなく、その幸いも期待とは違っていた。それ故、故郷の人々の憎悪は一層激しいものとなった。

 私たちは神々に多く期待する。そのため、信心業に励む。いわゆる、御利益宗教だ。しかしながら、イエスはそれに与しない。むしろ、十字架の刑死を私たちに残した。そして、その死に神の愛を、即ち、幸いを弟子たちは見出した。

 私たちは御利益に幸いを求めるのではなく、神の愛に喜ぶ者となりたい。 


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